「追悼の儀式としての「君の名は。」」君の名は。 Lynkeusさんの映画レビュー(感想・評価)
追悼の儀式としての「君の名は。」
東日本大震災の後、しばらくの間、日本人の多くが、自分と全く関わりのない亘理(わたり)だの田老、山田、大槌といった見知らぬ土地の天候に一喜一憂して、雨が降れば「被災者が寒かろう」と心を痛めたものだった。
・・・そんな想いを、この映画がよみがえらせてくれた。
もしも「あの」災害が起こらなかったら「あの土地」の誰かが自分の妻だったかもしれない、同僚だったかもしれない、そんなことを思い出す。
映画の後半で、モズの声が響く空の下に瓦礫の山が映し出され、折れ曲がった列車や建物の残骸が見えた時に、映画の冒頭の「目が覚めるとなぜか泣いている」という台詞が心によみがえる。
そして、単なる高校生のラブコメディーかと思われたこの映画の正体を知った人は、この映画を、もう一度最初から見たくなる。
・・・映画館で「君の名は。」の観客をよく観察すると、「大ヒット」の理由が、リピーターの異常な多さであることがわかる。上映開始直前にスーッと入ってきて静かに座り、終わると下を向いて静かに出て行く独りきりの中年男性や若い学生。
東京も岐阜の山々も、この世はこんなにも美しかったのに、気づかずに私たちは何となく生きている。そして「ある日」突然、全てが失われてしまう。・・・この映画は、それを思い出させる。
現実の世界では、歩道橋の上で三葉への電話が「二度と再び」繋がらなくなった時、三葉の存在は既に「終わって」いる。「次に会った時に伝えればいい」と思っていたのに、瀧君に「次」は無い。現実の瀧君は、永久に「片割れ」を失ったままの影のような人生を歩むしかない。
しかし、映画は続く。映画の瀧君には「次」がある。つまり、映画の後半は、実は日本人が見たかった「夢」であり、映画館は、実は追悼の場であり、この映画を何度も何度も見ることで多くの日本人は、死者を想うことで死者を生かそうとする儀式に参加しているのかもしれない。
・・・再び3月11日が訪れる。互いに名も知らぬままに別れた「誰か」を想って、ぜひ多くの人にこの映画を見てほしい。この映画が好きな人はもちろん、つまらないと思った人にも、ぜひもう一度、会うこともかなわずに別れた「誰か」を探し、その名を問いながら、この映画を見直してほしいと思う。
現実にはあり得ない奇跡で大災害が無かったことになるなど、現実に亡くなった人に対する侮辱としか思えません。
現実の震災とは一切無関係なたわいもないファンタジーだとしておけばまだ罪はなかったのに。
「追悼の儀式」と題するコメントで一ヶ所、訂正です:
トビと書くべきところをモズと書いておりました。
書き間違いをしたのは、この映画を見て1960年代の流行歌「もずが枯木で」を連想してしまったからです。・・・今までと全く変わらない日常生活が流れているのに、何かが足りない。そこには、誰かが「いない」のだ・・・という内容の、反戦歌です。
映画「君の名は。」の、「朝、目が覚めるとなぜか泣いている」というナレーションは、実に美しいです。自分の人生から欠落した「誰か」のために泣くこと、思い出そうと努力すること、会ったこともない他人に「大事な人、忘れちゃだめな人、忘れたくなかった人!」と呼びかけることの大切さを映画「君の名は。」が教えていることを、改めて評価したいと思います。
「追悼の儀式」と題するコメントを書いた者ですが、4月30日の反論(?)も、納得しつつ拝読しました。
「君の名は。」については、「東京から見た『地方』が東京に都合よく描かれているだけ」等々の批判的な論評を、しばしば見かけます。
映画の中にも、東京の人たちと地方(被災者)との意識のズレが描かれています。災害の原因の彗星についてアナウンサーは「これほど壮麗な天体現象を目撃できることは私たちの幸福」と語り、主人公の瀧君も「ただひたすらに美しい眺めだった」と語ります。そして彼は、被災地の地名すら忘れています。
確かに、もしも「君の名は。」を「高みの見物の東京人が田舎の女の子(被災者)を助ける」的な話と考えれば不愉快だし、災害が(4月30日のコメント筆者さんの言葉を借りれば)「ラブストーリーの小道具」ならば、腹立たしく、不道徳です。
しかし私は、この映画の作り手が「瀧君」に「美しい眺めだった」という台詞を(わざわざ)繰り返し語らせたことには、大きな意味があると思います。
多くの人が、自分が理解もできず寄り添うこともできなかった他者に対する後悔や罪意識を感じています。この映画が多くの人の心を打つのは、そのような「他者への想い」や罪の意識を、「瀧君」が代行して(なぞって生きて)くれているからではないでしょうか。
「瀧君」は、今村復興相の「(震災が)東北で良かった」発言と同様、災害が「岐阜で良かった」と思いかねない東京人だったかもしれません。しかし彼は、その自分を根底から覆され、新たに生き始めます。
観客の多くがこのことを感じるからこそ、この映画が、感動を呼ぶのだと思います。
・・・映画は、作品であるだけではなく見る人の心を映す鏡でもあります。観客は、常にその時々の自分の問題、そして時代の問題を映画の中に移し込んで、解決を模索しつつ鑑賞しています。「君の名は。」の大ヒットを「幼稚な内容なのに」と不思議がる人は多いですが、実は、この映画は(童話的な部分を残しているからこそ)観客が、その「ゆるい」部分に自分を移し込んで「映画を一緒に作る」ことを可能にしており、私は、まさにこの「共作」が起こりやすい点こそが映画「君の名は。」の優れた点だと思っております。
コメント、ありがとうございます。
実は、「リピーターが異常に多い」という私の発言に「突っ込み」が入るかな… と予想しておりました。
リピーターが多いことは、「ある仕事を30年やっていたので何となくわかってしまった」だけで、公に発表されているデータを参照しての発信ではありません。
ちなみに私は、かねてから「リピーター」に興味を持っており、「君の名は。」には、リピーターの観察のため、既に15回出向きました。トイレやロビー、エレベーターでの会話もヒントになりますし、また、映画館の外でも、人の集まる場所では度々聞き込みも行なっておりますが、「見た」と答えた人に回数を訊くと3~5回が多いです。
「一回見てから原作を読み、もう一度見たくなった。そして(一回目よりも理解できたために)大感激して更に数回見た」という話も、よく聞きました。(余談ですが、原作本を持っていた小学校4年生に聞き込みしたところ、親に何度も連れて行ってもらうのは無理なので「お年玉」で原作本を買って3回読んだ、とのことでした。)
なお、客席を観察すれば、「こっそりスマホで画面を撮影している人のシャッターチャンスが良すぎる」「予想外の展開の少し前から身体が固まる」「これから事件が起こる方角に顔が先に向いてしまう」「グッズ売り場で、先週から置いてあった物には手を出さず直ぐに新着だけを選ぶ」ような人が多いことからも、リピーターが多いことが推測できます。
また、上映前後の客席の様子も明らかに違います。昨年9~10月には、上映前の客席に張りつめた空気が漂い、終了後は「良かったわね~」「泣いちゃった!」等々、明るい雰囲気だったのですが、今年に入ると逆に上映前の緊張感が全くなくなり、ところが、上映が始まったとたんに客席が緊張で固まり、特に後半、要所要所での客席の「蒼ざめ」感がハンパでなく、そして終了後は、何も話さずにコソコソと散ってゆく人が多いのです。
・・・以上のような調査と観察から、今回のレビューを書いた次第です。