スプラッター映画とは露悪趣味の一形態であり、したがってどれだけハッピーな筆致で物語が進もうと最後の最後で惨たらしい急降下が訪れる。いや、むしろハッピーな筆致であればあるほど落差は大きい。
ゆえに私は受難者たちが暗雲の先に一縷の光芒を見出した瞬間、すぐさま再生フォームのシークバーを確認する。頼むから、今すぐエンドロールに突入してくれ、と願いを込めて。しかしたいていは「残り10分」という絶望を突き付けられ深く落胆することになる。10分とはすべての生が死へとひっくり返るのに十分すぎる時間だ。こうなると途端にすべてがどうでもよくなってきて、私は惨殺されていく主人公たちを茫然と眺めるばかり。配信サービスでスプラッター映画を見るにあたっては、シークバーの残量はそれ自体が重大なネタバレであるといえるだろう。
シークバーなんか見るな、最後まで画面に集中しろ、という指摘は正論のようでいて詭弁だと思う。人間の集中力はそれほど信用できるものではない。我々がなぜわざわざ映画館に行くかといえば、2時間の身体的不自由を望むからだ。「携帯を触るな」「物音を立てるな」「姿勢を正せ」といった映画館のコードに縛り付けられることではじめて、我々は映画に集中することができる。そうでない状況で、画面をたったワンタップするだけで現れるシークバーを確認しないでいられる人間が果たしてどれだけいるだろうか?
閑話休題。
したがって配信サービスでの視聴を中心とする受け手にとって、スプラッター映画を物語として享受することは難しいように思う。ゆえに私もあんまり映画を見る気力が湧かないときにこの手の映画を渉猟することにしている。失礼極まりないとは思うものの、毒にも薬にもならないようなものしか腹に入ってこないときというのは確かにある。
さて、本作もまたそうした「毒にも薬にもならない」感じを期待して視聴を始めたのだが、結果的にものすごい緊張を強いられることになった。
本作では通常のスプラッター映画にあるような「溜め」と「解放」の機序が機能していない。虐殺とコメディは常に同位相で交じり合う。虐殺がコメディであり、コメディが虐殺。最終的に何がどうなるのか、という目算が立てにくい。そのくせ登場人物たちはみな妙に求心力のあるキャラクターをしている。属性だけでいえば「オタク」か「ウェイ」に二分できるはずなのに誰一人忘れられない。
虐殺とコメディの間をフラフラ揺れ動く不安定な語りのトーンと、妙に親近感の湧くキャラクターの取り合わせ。我々は「ふとした拍子に予兆なく愛すべき彼ら彼女らを惨殺されてしまうのではないか?」という庇護欲に由来した恐怖に取り憑かれる。
自分をカナダ人だと言い張ることで運良く惨殺を逃れた主人公が、バスを運転して森を抜け出すまでの一連のシーンはまさに冷や汗モノだった。まず私は主人公がバスに乗り込んだ時点でシークバーを確認した。残り時間は約10分。しかし本作は普通のスプラッター映画とは違って虐殺とコメディがハッキリ弁別されていない。もしかしたらまだ助かるんじゃないか、死ななくて済むんじゃないかという可能性が消え去らない。
かと思いきやバスに次から次へと仲間たちが乗り込んでくる。ほぼ全裸の金髪美女、主人公の親友のデブオタク、アマゾネスのような身体能力を発揮する女性教員、バスの後部座席で実は眠りこけていたカップル、そして瑞々しいチアガール。
スプラッター映画のお約束に則れば、これだけの人数が皆五体満足で生存できる可能性はゼロに等しいが、語りのトーンはギリギリまで判決を言い渡さない。全員まとめてお陀仏か、奇跡の全員生還か。
私はネタバレというものについて基本的にどうでもいい(本当に面白い映画ならネタバレごときで価値が減じるはずがない)と思っているが、今回ばかりはネタバレを避けておこうと思う。意図の埒外とはいえシークバーという令和時代のネタバレ装置を打ち破り、怠惰なZ世代の受け手の額に汗を滲ませた本作に対して私は敬意を表さねばならない。