映画 聲の形のレビュー・感想・評価
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イジメの描写が痛々しかった。子供時代のエピソードは観ていて苦しくな...
イジメの描写が痛々しかった。子供時代のエピソードは観ていて苦しくなる。
背景がやけに美しい。
美しい世界に生きている。
BGMがピアノで♪ポロン、ポロン。と、悲しげなメロディ。この先、とてつもない悲劇になるような予感が漂う。
主人公の父親が登場しないことが氣になった。
他の子の父親も同様。
なぜか母親は頻繁に登場。
思春期の話は家族構成が謎の作品が多い。
本作は家族ぐるみで登場するから、なおさら氣になった。
美しくて繊細で真面目で暗くて残酷な儚い世界。
癒やされるような、落ちていくような、楽しみなような、怖いような、そんな不安な氣分の状態から、ジェットコースターのように一気にゴールにたどり着いたような映画だった。
絵のクオリティが高い。
単焦点レンズで撮影したような味わい深さがある。
ジェットコースターのシーンも迫力満点だった。
ラストは色々報われて良かった。
爽やかな氣持ちで終われて満足だったが、やはり氣になるポイントがある。
引っかかるポイントは、主人公がイジメる動機。納得出来るエピソードが欲しかった。
それと、ケータイのメッセージのシーンが短いために、読みきれず一時停止した。
話がダーク過ぎて集中力が続かず、二日に分け更に細かく小分けにして視聴した。
私はつくづくピンク色の髪の女性キャラに目がない。ツンデレの植野も悪くないが西宮硝子さんを応援してた。
本作は好みの絵だった。エンドクレジットで山田尚子監督作品と知って納得した。
聞こえていても見えない世界がある。見えていても聞こえない世界がある。
人間が相手と深く知り合い仲良くする。
その関係を続けて行くには、見ないふりをしたり、
聞かないふりをしたり、
言わずに胸にしまったりして、自然と互いの距離を測っている。
それがバランスを保ち、立ち入らない部分を持つことで
仲良くを持続できる。
小学生にそんな芸当(計算や処世術)が出来るだろうか?
出来る訳がない。
石田将也(しょうや)は人一倍元気でお調子者で天真爛漫な少年だった。
人気者の将也の立場が変わったのは、
耳の聞こえない少女・西宮硝子(しようこ)が転勤してきたことに始まる。
将也には硝子が、ただただ珍しかった。
筆談する硝子も、硝子の耳に嵌めてる補聴器も、
何もかもが、もの珍しく新鮮だった。
補聴器を取り上げて窓から捨てたのはやり過ぎ!!
そこで硝子が泣き叫び騒げば良かった。
我慢したのが結果的に良くなかった。
補聴器を盗られる・・・それがどれほどの酷いことか?
誰も教えてくれない。
硝子の母親が職員室に電話してきて、先生に訴える。
その結果として、将也の母親は大金を銀行から降ろして
弁償する。
将也の虐めは、皆に知られて「いじめっ子」の烙印を押される。
ここで加害者が将也1人とは考え難いです。
囃し立てた者、止めなかった者、知らんぷりした者、
本気で抵抗しなかった硝子。
ひとりで虐めは成り立たない!!
しかし将也は結果的にたった一人で硝子イジメの責任を負います。
女子だって陰湿だった。
「あなたが来てからクラスが変わった。もとに戻して!!」とまで言われる。
言葉の暴力が酷い。
中学生になる。
将也は入学早々にA君から、「石田は小学校の時、いじめっ子だったから、
気をつけろよ!!」
名指しされて中学生活は灰色の暗闇になる。
《友達の顔にバッテン印が付いている》
このシーンは強烈だ。
友達の顔も表情も読み取れない。
知らない人ばかりの中で、ひとりぼっちの将也。
しかし将也の後悔は、手話の勉強をする・・・
そんな形でいつか硝子に謝るために意志を伝えるために手話を
勉強する。
そして高校生になった将也は硝子に会いに行くのだ。
鯉にフランスパンを千切って餌にする庭園。
少しづつ声を出して話す硝子。
次第に心の通う2人。
いつしか無くてはならないかけがえのない人になって行く。
将也にもバッテンの取れた友達が増える。
そして小学校の友達との再会。
会話→ディスカッション→話せば話すほど遠くなる。
コミュニケーションの難しさ。
耳が聞こえても聞こえなくても、人と人が分かり合える事は難しい。
話せば話すほど傷つけてしまう。
自分は加害者だとは思いもしない者。
自分を正当化して理論武装して、他を攻める論客(女に多い)
ある言い争いから喧嘩になった日。
硝子は「自分のせいで喧嘩になる。悪いのは私が存在するから」
思い詰めた硝子は、花火を途中で切り上げた留守宅で、
ベランダから飛び降りて死のうとする。
それがとんでもない結果を招く。
それにしても丁寧に丁寧に会話を重ねて思考して塗り上げた映画でした。
心を閉ざしたのは将也。
孤独だったのは将也。
不甲斐ない自分を消そうとする硝子。
思春期の青少年の心のひだを丹念に細やかに描く名作です。
制作した京都アニメーションの代表作。
世界37の言語に翻訳されて輸出や配信されています。
2019年7月。
放火による火災で社員の多くが犠牲になる事件が起こりました。
本当に痛ましいです。
でも制作を再開して次々と新しい作品が生まれています。
亡くなった人たちの仕事は受け継がれ「京都アニメーションの魂」は
私たちの中に生きていきます。
素敵な作品だった。ただアニメだから外見がいいから感動できたわけであ...
素敵な作品だった。ただアニメだから外見がいいから感動できたわけであって現実ではこんなに上手くいかないなど余計なことも考えてしまう作品だった。
肌に合わなかった
映像もきれいでとても丁寧に作られてると感じた。
しかし内容が肌に合わない。
こういう傷ついたんです僕、私、なんて
内容のものはもともと好きではない。
子供のころの過ちを反省してやり直すのはいいけれど
どいつもこいつも単なる自己欺瞞
自己満足でしかないうえに、
ほっとけばいいものをわざわざ学校も違うのに
付きまとっておまえのせいだと責める。
意味が分からない。
イライラが頂点に達した。
Talkin’ ‘bout all generations. これは、新しい青春映画の形。
過去の過ちに苛まれる青年・将也と、酷いいじめを受けていた聾者の少女・硝子。5年ぶりに再会した2人の交流と救済を描いた青春アニメーション。
監督は『けいおん!』シリーズや『たまこまーけっと』シリーズの山田尚子。
小学生時代の将也を演じるのは『桐島、部活やめるってよ』『悪の教典』の松岡茉優。
原作は「週刊少年マガジン」に連載されていた同名漫画らしいのだが、これは未読。
まず一つだけ言わせてくれ!
OPにTHE WHOの「マイ・ジェネレーション」を使うのであれば、EDは「俺達はしないよ(シー・ミー・フィール・ミー)」だろぉ〜〜っ!!
"I hope I die before I get old"というフレーズがあるからマイジェネを採用したのかも知れないけど、この曲だけだと正直映画の内容とはマッチしていない。
オチに「シー・ミー・フィール・ミー」を配置すれば、クソガキ時代から孤独と贖罪の時代、そして苦難を乗り越えた末の救済までの道程をTHE WHOによって表現することが出来たのに…。
ロックンロールファンとして、そこは残念に思います🌀
エンドロールで"See me〜,Feel me〜,Touch me〜,Heal me〜♪"なんて流れたら号泣必至だったね。
と、余談(しかし一番言いたかったこと)はここまでにして。ここから本題。
鑑賞前は「高校生のキラキラ恋愛もの〜?興味ねぇ〜…。しかも障害者を売り物にした感動ポルノっぽいし。なんか絵柄もオタクっぽいし〜。興味ねぇ〜…。」なんて思っていたが、やはり先入観はよくない!
いざ鑑賞してみると、そういう映画では全くなかった。
物語の主題となるのはディスコミュニケーション。
過去の出来事により心を閉ざした青年と、発話でのやりとりをする事が出来ない聾者の少女。
これだけでも十分に物語を膨らませる事ができそうなものなのだが、本作ではここにさらにいじめの加害者/被害者という要素をも盛り込むことによって、観る者の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜる一筋縄ではいかないハードなものへと作品を昇華している。
物語は将也の主観に沿って紡がれていく。
そのため、作中で描かれる硝子の人物像は、あくまでも将也を立脚点にして作り上げられたものでしかない。
そのことで観客はついつい油断してしまい、「あぁ、硝子ちゃんって素直で健気な強い女の子なんだな😌」と思い込んでしまう。
観客に硝子を天使の様な少女だと思い込ませる。このミスリードが、中盤の展開の衝撃度を格段に高めている。
硝子の自殺未遂により、将也は自分の考えの甘さを文字通り痛感し、硝子もまた、将也を巻き込んでしまったことを契機にして、本当の意味で他人と向き合うようになる。
最後の最後、クライマックスになって初めて、人と人とが分かり合える可能性のようなものが提示されるという、ただのゲロ甘青春ラブストーリーとは明らかに一線を画す、実にウェルメイドな筋立てである。
本当にこれほどレベルの高い文学的作品が少年マガジンに載ってたの?今の少年漫画って、自分が思っている以上に進んでいるのかも。
原作の単行本は全7巻。本作はその内容を2時間強にまとめたものである。
こういう場合、物語を詰め込みすぎてごちゃごちゃした映画になってしまうか、エピソードをすっ飛ばし過ぎたせいで意味不明なストーリーの映画になってしまうか、このどちらかになりがち。
しかし、本作は長編映画用に書かれたオリジナル脚本と言われても信じてしまいそうなほどに綺麗にまとまっている。
これは、元々の原作の構成が巧みだというのもあるのだろうが、やはり脚本家・吉田玲子さんと山田尚子監督の力が確かだということなんだろう。
吉田玲子さんはアニメファンならその名を知らぬ者はいないベテラン脚本家だが、山田尚子監督と原作者・大今良時先生はいずれも1980年代生まれ。
新たなジェネレーションが確実に業界の中心に踊り出ようとしており、その溢れる若さの脈動にこちらの心まで奮い立ちそうですっ!
…いやしかし、本作の雛形になった読み切り漫画を大今良時先生が執筆したのはなんと19歳の時らしいじゃないですか。マジかよっ💦
これだけの才能を見せつけられたら、自分が同世代の漫画家志望だったら確実に筆を折ってるわね。うーん、紛れもない天才だ。
とまぁ作劇的には絶賛せざるを得ないクオリティだったんですけど、気になるところがないわけではない。
まず、全体のテンポ感が均一すぎる。硝子の自殺未遂シーンをグッと山場にするため、あえてそれまでを平坦にしたのかも知れんけど、ずっーーとリズムがおんなじ感じなので結構退屈してしまった。
橋の上での公開裁判とか、結構あっさりしていて拍子抜け。耳を塞ぎたくなるようなイヤ〜〜な見せ場を期待したのだが…。もっと人間の暗部をドロドロと描いても良かったのでは?
もう一個気になるのは、ところどころに挿入されるザ・ラブコメ漫画的なやり取り。
「スキ」と「月」を聞き間違えたりね。そんな訳あるかい。こういう難聴系すれ違いって、いかにも作り物って感じがして萎えちゃう。
思わせぶりに顔を隠し続ける将也の姉とか、あれになんの意味があんの?お姉さんの旦那さんが黒人だったことをあんなに引っ張って隠し続けた意味は?
心理描写にリアリティを追求した作品であるからこそ、こういう普通のアニメならあまり気にならないような点が無性に気になる。
あと個人的に嫌なのは昏睡状態から目覚めた将也が、管とかを取っ払ってすぐさま硝子に会いにいくとこ。こういうのはアニメにありがちなんだけどすっごく嫌い。怪我を舐めんじゃねえ!『カリオストロ』のルパンだって、ドカ食い&爆睡で怪我を治したんだぞっ!!
こういう細かいところのリアリティラインは、もっと詰めて描いてほしかったなぁ😮💨
まぁ色々書いたけど、一番気になることはやっぱり将也&硝子以外の同級生たちの描き方。
原作ではどうなのか知らないけど、この映画を観ただけだと植野とか川井はただのクズにしかみえない。特に川井!!この…クソメガネは本当にどうしようもねぇな💢
川井の横にいる真柴とかいうニヤケ面も何のためにいるのかよくわかんなかった。
元いじめっ子の島田も、あれだけの出番じゃこいつがなんなのかよくわかんない。
2時間強のランタイムでは、これだけのサブキャラたちを捌くことは不可能。原作を改変してでも、もう少し登場人物は厳選した方が良かったのではないだろうか?
永束と佐原以外の同級生がクズにしか見えないせいで、ハッピーエンド的な終わり方が全然ハッピーに見えない。少なくともあのクソメガネにはグーパンした方が良い👊💥
全て丸く収まりました、的な物語の収束には不満が残るものの、映画としての完成度はやはり高い。
本作の公開年は2016年。この年は新海誠の『君の名は。』、庵野秀明の『シン・ゴジラ』、片渕須直の『この世界の片隅に』といったアニメ(特撮)作品の傑作が公開されているが、本作はこの並びに加えてもなんら遜色のない名作だと思う。やっぱり2016年はアニメ界奇跡の一年だ!
30代前半でこれだけの作品を作り上げた山田尚子監督の才能は素晴らしい✨山田監督の今後の作品にも期待したい。
マイ・ジェネレーションと言わず、オール・ジェネレーションズに鑑賞して貰いたい、新時代の青春映画です!
【”ディスコミュニケーションから、届けコミュニケーションへ・・。”聾唖者への悪戯により疎外された少年の聾唖者への理解の過程を切ない描写を含めて描いた作品。作中の斬新な心理描写が素晴しき作品。】
ー 今作を鑑賞したのは、2018年頃であったかと思う。
作品が発信するメッセージ”友達って何だ”が強く心に響いた。
その後、京都アニメーションを襲った忌まわしき出来事に呆然とし、京都に行った際には自分なりに出来る事をした事を思い出す・・。ー
◆感想
ー 多くの方がレビューを挙げられているので、久方振りに鑑賞した感想のみをシンプルに記す。ー
・主人公の石田が、小学生時代に、引っ越して来た聴覚障碍者の西宮に対する悪戯。だが、彼のみがやっている訳ではないのに、いつの間にか、彼が一人で責任を負う姿。
だが、彼はその罪を一人被る。
ー これは、今でも年代を問わず行われている事ではないか・・。だが、石田は西宮を苛めているようであるが、彼女を大切に思っているシーンが随所で描かれている。濡れたノート・・。-
・中学時代の石田は暗黒の生活を送る。一人も友達が居ない日々の生活・・。
西宮を苛めた故の自身の境遇を甘受する姿は、初見時にはやや苛立ったモノである。
苛めに加担していた生徒達の言い逃れする姿。
ー これは、現代でもあるのではないか・・。-
■この作品の価値を高めているのは、石田とディスコミュニケーション状態にある生徒たちの顔に”×”が付いている描写であろう。
そんな中、ナガツカが彼の友となり、”×”が消え去る描写。
そして、高校に進学した石田の境遇は余り変わらないが、徐々に”×”の数が少なくなっていく。
石田は、自らが過去に犯した(と言っても、小学生である。)過ちを悔い、西宮とコミュニケーションを取るために手話を密やかに学ぶ姿。
彼が、人としてキチンとした人物になっている事が、容易に伺える。
・高校になって、久しぶりに出会った石田と西宮。彼らはぎこちないながらも再び関係性を築いていく。だが、自分の存在が石田を傷つけていると勘違いした西宮の哀しき行動。
ー 美しい花火大会を、石田と一緒に観た西宮は”自分の想いが聾唖者故、伝わらなかった事で・・。
”好きと月・・。”
命を断とうと思ったのであろう。
だが、それをいち早く察した石田の身を呈して、西宮を助けようとした崇高な姿。ー
・そして、学校に復帰した石田の学友たちの顔から、”×”が次々に落ちて行くシーンは、可なり沁みる。
<初見時に、”こんなにすごいアニメーション映画を作る集団って、どんな人たちなんだ!”と思い、その後「リズと青い鳥」「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン」を見て、その感を強くした。
哀しすぎる出来事の後、京都に行った際に陰ながらお参りをした。
だが、この素晴らしき映画製作会社は、亡き人たちの想いを込めて、素晴らしき映画を届けてくれる筈、と信じている遅れてきた京都アニメーションの作品に魅了された男の一人ごとである。>
人が人である限り、健常者、障がい者問わず他者を理解するのは難しい
オープニングがとてもカッコよく
一気に引き込まれました
そして
エンディングのaikoさんの歌まで
あっという間に時間が過ぎました
本作品
西宮さん以外の健常者がたくさん出てきますが
皆それぞれが衝突し合います
健常者同士でもコミュニケーションが難しいのに
ましてや障がい者となると
接し方が難しいのは必然…
実生活でも
障がい者だから優しくしてあげるべきなのか
障がい者だけど健常者と同等に接してあげるべきなのか
考えさせられる場面たくさんあります
やはり
その人の障がいの有無は関係なく
人が人である限り個性は十人十色であり
その人に合わせた対応の仕方が求められるのではないか…
この映画はその感覚を見事に映画化してくれてる作品と感じました
心を抉る。とにかく「生々しい」
公開からしばらく、強烈に賛否両論があったと記憶しています。
特に「(いじめ)加害者を美化してる」といったマイナス批評が多く目に付きましたが、トラウマを喚起されてしまった当事者でないならば、表層的でもったいない見方だと思います。
物語の軸は、完全に硝子と将也の関係性に置かれています。
一見主題にも思える「いじめ問題」や「聴覚障害」は全く主題ではなく、大きめの舞台装置に過ぎません。
この作品が描く主題は、「人間の不完全さ」「コミュニケーションの難しさ」だと思います。
登場人物が全て見事に欠点を晒していて、通常のドラマ作品には必要ないまでに「脚色され尽くした生々しさ」があります。
虚勢から手痛い失敗をする繊細な小心者。
真っ直ぐ過ぎる故、不器用に周囲を傷つける者。
強烈な自己愛と、自覚すらない歪んだ邪悪。
未熟で無責任な教職者…
遠慮なく言ってしまえば、「○○性人格障害」のテンプレートのような登場人物の群像劇に仕上がっている。
そういった不快感が漂う世界観と相関関係の中で、硝子と将也の関係性が絶妙に付いては離れてはで転がる。
不完全な人たちの不完全なコミュニケーションは少しずつ噛み合い、最後には小さな希望を感じさせながら、深い余韻が残る。
「重苦しい恋愛映画」のようでもあって、やはりそうではない。
「こんな関係もある」という、そんな一例を描いた作品だと思います。
心理をゲームや記号などの独特の映像で表現したり、硝子視点での聾唖者の音のこもる表現など、京都アニメーションが放つ圧倒的なクオリティも最大のポイントです。
感情移入する相手で考え方も変わる。
いじめを許していく?話。
全然共感できない。
映像はすごく綺麗やった。
エンディングも正直よくわからん。
京アニだから見れるっていう感じ。
ストーリー 70点
配役 80点
音楽・映像 91点
全体 73点
最高のアニメーション映画
視聴前のレビューで聲の形がいじめの話や残酷という評価が目立ちましたが、実際鑑賞して感動しました。
言葉にできない、伝えられない思いを聲にする。主人公の心の葛藤、ヒロインの言葉にできない胸中が緻密なストーリーで表れてました。
全国の子供に見てほしい映画です。
一瞬の衝動は一生の後悔に繋がります。
君の名は、バケモノの子の時期と同時公開らしい。 有名な2作よりも、...
君の名は、バケモノの子の時期と同時公開らしい。
有名な2作よりも、これが一緒秀逸。
結局、石田くんが、何も聴こえてなくて、何も見えてなかったんだ。
非常に静かな映画
聾に関する映画だからだろうか?効果音や大袈裟なBGMなどなく、静かに見ることのできた映画だった。静かだとは言え登場人物の心の動きは騒がしく落ち着かない場面もありそう言った場面で静かでも表現しれていた点は非常に驚きであり素晴らしい!!の一言に尽きる。個人的にはこの映画の視聴で何かが変わりそうな気配◎何度でも観たい一本の一つにエントリー◎
誰かの心の傷を理解しようとする姿勢を説く作品。
アニメだからこそ、誰が見ても伝わる形で可視化され、内容の重さを受け止められる作品。
アニメだと、ファンタジー要素が入りメッセージ性は明確でという作品が多い中で、とてもリアルで、見た人に多角的に考えさせる作品。必ず見た方が良い作品だと思った。
いじめがテーマでもあるが、それ以上に、誰しも何かしら抱える心の傷を、関わる物が理解しようと向き合う時の難しさが伝わってきた。
公立の普通学級に、補聴器で少し声が聴こえるくらいの女の子、西宮しょうこが転校してきたところから展開していく。しょうこは筆談か、一生懸命話すぎこちない発話か、手話がコミュニケーション手段だが、小6の子供達にとって、しょうこの会話手段を読み取るのは難しく、どう思っているのか感じ取るのは更に難しい。
最初はサポートしてくれていたクラスメイトの植野も、しょうこによりクラスメイト同士の関係性が変わっていくことを恨めしく思ってしまう。
更には、小6男子の年ごろゆえ、気になる女の子の気を引くために嫌がることをしてしまう石田将也は、本心はしょうこともっと話したいだけなのに関わり方がわからず、大切な補聴器がどれだけ高価かもわからず何度も投げたり、怪我をさせたり暴言を吐いたり、いわゆるいじめの行いをしてしまう。
植野は元々仲が良かった佐原さんも石田もしょうこに取られた気がしてしまい、しょうこに冷たくあたり、しょうこと仲良くなろうとした佐原さんは植野にからかわれるようになり、転校。
担任の先生が石田を首謀者として名指しし、石田はかえっていじめられる側となり、学級のバランスは崩れたまま小学校は終了。それぞれ高校生となる。
高校にあがっても孤立している石田は、過去の後悔と罪悪感に苛まれ、手話を習っていると偶然しょうこに遭遇。しょうこの希望で佐原さんにも再会し、学校でも輪に入れぬ者同士親しくなれたりして、偶然植野にも遭遇。再び新たな人間関係が出来上がってきたところで、小学校も高校も石田と同じ、川井さんが口を開く。元々石田くんはいじめをしていたんだよ、と。しかも、川井さんはおそらく高校の同級生の真柴くんを好きで、真柴くんの前でよく振る舞うためにも、ことさらに私は悪くないと高校の同級生たちの前で大きな声で主張する。
築いた新たな交友関係でも再び浮く石田。
物語を追っていけば、石田にしょうこへの嫌悪感や強い悪意があったわけではないのがわかるが、やっていたことはいじめ。
川井さんが悪口も言わず、主張の強い植野を嗜めたり、しょうこにも優しくしてきたのは事実で、いじめっこと一緒にされたくない気持ちや石田を嫌な気持ちが消えずにいるのは仕方がない。
しょうこ本人は、耳のハンディに甘んじず、声でも伝えようとずっとしていて、それがなかなか伝わらず、進展しない人間関係に密かに孤独を深めていく。
周りはしょうこの本心を知りたいが、本人はどんな嫌なことをされても、自分の会話手段のせいだと思っているため、本気ですぐに謝るし、その癖がついている。
物語が進む中で、しょうこの耳の症状も進んでいく。片耳は聴力を失ったようで、補聴器をする必要もなくなる。
成長して人間関係が開けてきて、恋もし、一番楽しいはずのタイミングで選ぼうとした、自死。
「私といると不幸になる」この思考が染み付いてしまっているから。そのきっかけはもしかしたら小6の時のいじめの影響も大きいのかもしれない。石田と再会した瞬間、逃げ出したことからも、当時を良い思い出としていないのは確かだが、手話を学んで態度を改めた石田に驚き、石田を好きにさえなることができていたのに。
元々石田は、やっていることは最悪だが、本音でしょうこと接していたことをしょうこ自身もわかっていたからこそ、小6当時に取っ組み合いの喧嘩をしたこともあったし、再会後に好きとも思えたのかもしれない。
でも、幸せを感じるほどに、関わる人間を幸せのままにしたいがゆえ、自分の存在が害だと感じるのだろう。
わだかまりを抱えたまま成長してきた登場人物達が、小6当時はそれぞれが自身のどういう感情ゆえそういう態度だったか無自覚だったのかもしれないが、高校生になると、それぞれの当時の心境を吐露しはじめる。全員正直な気持ちを述べていて、見るものにより賛否はあれど、誰が間違っているというのはないのかもしれない。
これがこの作品のポイントだと思う。
加害者側被害者側とはっきり分かれている作品は沢山あるが、後から振り返る形でそれぞれに視点があたっていることで、考えさせられる。
では、しょうことどのように関われば良かったのか。
物語に登場すらしない、クラスで遠巻きに見ていた者達なら、しょうこと親しくもならないが、問題にはならなかっただろう。
川井さんは小6当時も高校生になっても誰に対しても優しい態度だが、しょうこを深く知ることはできていないし、石田の指摘の通り自分が責められたり傷ついたりしない予防策なだけなのかもしれない。
しょうこの本心を知ろうとした、石田や植野は、会話手段をしょうこに合わせることなく、自分が楽な健常者の口頭での会話で接したため、しょうことの会話を読み取れないことにやきもき、イライラを感じ、やりすぎてしまう。しょうこの意見を聞きたかっただけなのに。
しょうこを知ろうと手話にも興味を示した佐原さんは、成長後もしょうこを気にかけていたが、立場が危うくなると自分を守るため逃げるしかなくなった。
それぞれの関わり方こそ個性であり、成長してもまだ思春期の彼らはそれぞれに思うところがあり、どれが正解というものでもない。だからこそ難しい。
妹の結弦は、自身の生活ほったらかしでしょうこと常に一緒にいて、しょうこの気持ちをよく理解しているが、それでも、目の前にしょうこがいてもメールを使ったりもしている。
例え全員が健常者でも、誰かが日本語話者でなくても、価値観はバラバラで、同様にそれぞれの気持ちの交錯は起こるのだろう。でも、共通の会話手段を持つ重要性をひしひしと感じる。
しょうこ自身は、声で伝えられればと切に願い、思うようには発音が難しくても恥を捨てて話そうとしている。
周りもしょうこを知りたければ、手段を持たなければ。
手話が、聲の形となるのかもしれない。
石田もしょうこもニックネームはしょうちゃんで、元々通じ合いそうで通じ合わないギリギリの関係性がずっと続くところがもどかしい。
「ともだち」「これでもがんばってる」「すき」都度全力でしょうこは伝えているが、なかなか伝わらず、しょうこに死にたいとまで感じさせた石田が、今度は自殺を考えるまで追い込まれて、お互いに人を大切に想う気持ちを知っていく。
しょうこの母親から見たら、何度もしつこく接触をはかってくるいじめっ子そのものであり、他人には理解し難い関係性。
しょうこの母親はしょうこを守るため強く生きてきたのだろう、言葉の強さと裏腹に、明らかに心身とも疲れている。妹もしょうこに付きっきりだが、おそらく性同一性障害を抱えている。そんな家族をありのまま受け入れ温かく接する祖母いとの死。
しょうこが死にたいと思わないように、動物の遺体の写真を見つけては撮り壁に貼っていた妹の結弦の努力も虚しく、しょうこは死を選ぼうとする。
気持ちは本当によくわかる。いても誰かに嫌な思いをさせたりし、いなくなることすら、周りを悲しませるとしたら、もうどうしたら良いのか。
「誰だってそうでしょ」という川井さんの言葉が響く。
生きていて人に迷惑をかけない人などいないのだから、できる限り自分の事は自分でした上で、少し厚かましく、助けが必要なら声をあげ頼り、感謝して生きる。そのかわり、困っている人がいたら全力で助ける。
人間関係で好き嫌いが出てきてしまうのは仕方ないが、誰しも自分より内面ですぐれた部分を持っているもの。そこに目を向けて取り入れれば、そんなに腹は立たない。
個人的には、担任の先生の対応は最悪だと思うし、お世話する感覚でしょうこを見る川井の他人行儀な丁寧さも、植野の身勝手な思考回路も苦手である。
石田が程度をわきまえて素直に接していたら、とても良い結果になったのではないか。
そのために5ヶ月も放置せず早いうちに担任が動けていたら。佐原を守れていたら。そう感じさせられる。
それを体現するかのように、石田と高校生になってから友達になった永束くんの存在がある。過去を知っているわけではないが、大切な友達を信じて、見捨てない。
「ともだち」ってなんなんだろう。
心を開けるだけでなく、例え違う意見でも、対等に声をあげ合えること。助け合おうとできること。
そうある難しさがリアルに描かれている。
石田が過去の過ちの重さを身をもって深く理解し、10年越しに当時の関係者に謝罪するまでに至る難しさ、一度してしまったことを真剣に反省すればするほど、自身を許す難しさ、周りから許される難しさも描かれている。
作中、重々しい内容に刺激をつけるためなのか、わざと女の子の下着が見えそうだったり、ひさびさに会ってすぐに胸のサイズの話をしたり、女性の監督でありながら不快な描写も多い。こういうやり方でしか、男性は真剣な内容の作品を見られないと思われているのだとしたら、それも一種の差別だなと感じた。
作中の一筋の希望は、石田の母。
自業自得な石田以上に、悲しく辛い思いをしたのはしょうこの周りを除けば石田の母だろう。常に優しく気丈に振る舞うが、大切な息子が、他のおうちの大切な娘を傷つけてしまった悲しみはいかばかりかと思う。石田がしょうこの自死を防ぎ、石田自身が死の淵を彷徨ったことでやっと、しょうこの母から会話して貰える存在になった。そして、立場ゆえ孤立しがちなしょうこの母の髪を切ったり、息抜きの場、話し相手となることができそうだし、おそらくひとり親で、娘の結婚相手も外国人だったりと、多様性への理解がある。今後もしも石田としょうこの関係性が進んだとしても、きっと大丈夫だろう。そう思わせてくれる存在。
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