団地という空間はどこへ向かうのか?その一つの終着地点を示したのが本作なのではないかと思う。
高度経済成長と米国至上主義の発露として各都市に出現した団地という集住空間は、日本経済の凋落やアメリカ幻想の消失とともにその輝きを失っていった。無味恬淡なコンクリートの豆腐と化してしまった団地は孤独のイメージと結びつき、今や「あの団地、出るんだって」というような恐怖譚の温床と化している。
そのことは映画史的にも明らかだといえる。川島雄三『しとやかな獣』が喝破した団地の孤独性は森田芳光『家族ゲーム』、高橋伴明『DOOR』を経て中田秀夫『クロユリ団地』へと順々に流れていった。
孤独の結果としてもたらされるホラー。それは団地という空間が辿り着くべき妥当な終着点なのだろうと思う。しかしここにおいて団地映画という系譜は限界を迎えてしまったともいえる。今やホラー以外に団地を取り扱うことのできる文法は存在しないだろう。
かといって『仄暗い水の底から』『クロユリ団地』を超えるようなホラー文法の団地映画が後続しているかというとそんなことはなく、『N号棟』などは最低最悪の出来だったといえる。『N号棟』は団地の寂しげな表層的印象を安易に拝借し、出来合いのホラートピックとごった混ぜただけの粗雑な代物だった。
他方、本作は団地の孤独性を周到に踏まえている。画一的な住居、故郷と生活背景の相違、互いに見通すことのできない内部の生活、噂の一人歩き、高齢化。
漢方薬店を畳み、団地へ越してきた山下清治(岸辺一徳)とヒナ子(藤山直美)は、団地特有の薄っぺらく嘘臭い人間関係に辟易していた。夫の清治は紆余曲折を経て自宅の地下に「引きこもる」ことを決意するが、それによって団地中に「清治さんは死んだ」という根も葉もない噂を立てられる。
噂は団地の外側で徐々に肥大化していき、遂には「ヒナ子さんが清治さんを殺した」というナラティブが出来上がる。いよいよ警察沙汰になりかけたところで、物語のもう一つのラインが動き出す。
漢方薬店を畳んだ清治だったが、彼のもとには依然として顧客がついていた。それが真城(斎藤工)という不思議な男。「自分の同郷人たちのぶんの漢方も作ってくれ」という彼の依頼を受け、山下夫妻は大量の漢方を精製する。
近隣住民すべてに疑いの目を向けられているまさにその渦中、真城率いる「同郷人」たちが姿を現す。住民たちが空を見上げると巨大な未確認飛行物体が浮かんでいた。そう、真城たちの正体は宇宙人だったのだ。
真城は「息子さんに会えるから」といって山下夫妻に自分たちと同行するよう促す。夫妻は過去に息子を事故で喪っていたのだ。どういう原理から息子に会えるのかは不明だが、とにかく真城の言う通りにすればいいらしい。
山下夫妻が宇宙船に乗って地球を去る際、夫妻とそこそこ仲の良かった団地内の別の夫婦が彼らを見送りにやってくる。しかしそこで交わされるのはセンチメンタルな人情劇などではなく、あっけらかんとした別れの挨拶だけだ。
ここには団地という空間の相互不干渉性が表れている。仲良くはするが、内部には踏み込めない。『男はつらいよ』のタコ社長のように「とらや」一家の悶着にズケズケと入り込んでくることは決してない。ゆえに別れの儀式も淡白なのだ。
また真城の宇宙船には山下夫妻の他に、向かいの棟の少年も同乗する。彼は父親からDVを受けていた。山下夫妻も少年も、決して内部を見通せないという団地の根本的性質の犠牲者であるといえる。
そうした団地の息苦しさを知りながらも、かといってどこにも逃げるあてのない人々。彼らを救い出すことのできる術があるとすれば、それは「宇宙船で別の世界に行く」などといった荒唐無稽なサイエンス・フィクションしかない。
『仄暗い水の底から』や『クロユリ団地』は団地という空間の終着地点を「誰もいない場所(=人ならざるものが跋扈する場所)」として設定した。他方本作は、団地の息苦しさを打破できる唯一無二のソリューションとして荒唐無稽なサイエンス・フィクションを展開した。
いずれにも共通するのは「団地は相互不干渉的な空間である」「団地は居住空間として限界がある」という認識だ。
団地は今やタワーマンションにその地位を完全に奪われたわけだが、タワーマンションとてその性質は団地と大差がない。タワマンを舞台にした一連のTwitter文学作品(俗に言うタワマン文学)においてもホラーやSFといった題材は多くみられる。
かといって旧来の長屋的生活様式に戻るわけにもいかない我々は、多かれ少なかれ団地的な生活をこれからも続けていかなければいけないわけだが、その先行きはどうにも暗澹としている。