殿、利息でござる!のレビュー・感想・評価
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良いことも悪いことも
誰かが必ず見ていて、必ず語り継がれる。この事実を、この映画を通して知ることができ、良かった。しかし浅野屋はあまりにもいい人過ぎではないか。こんな人いないと思うのだが。最後、実はやっぱりケチでやなやつだった‥とかだったらちょっと面白かったのに。
「マネー・ショート」より面白いでござる!
同じく実話を基にした小難しいお金の話「マネー・ショート」が個人的には全く理解出来なかったので、見る前はちと抵抗あったが、こちらは面白かった。
そもそもお金の話と言ってもまるで違うし、それに邦画だから、時代劇だから…って訳じゃなく、根底のテーマやメッセージが良かった。
藩からの厳しい取り立てで貧困に喘ぐ廃れた宿場町。
そこで、藩に大金を貸し付け、利息で町を救おうという奇策を思い付く…!
言い出しっぺは、嫁を貰って町に戻ってきた知恵者の茶師・瑛太。(役名が難しいので役者名で書きます、ご勘弁を…)
でもただの思い付きで“夢物語”だったのに、これに激しく賛同したのが、造り酒屋の阿部サダヲ。
そしたら賛同者が一人一人増えていって、皆やる気まんまん、言い出しっぺ「え~っ!?」(笑)
目標額は千両、現在の金額にして3億円!
こんな今にも潰れそうな町にそんな大金無い!
銭集めに悪戦苦闘、奔走…。
このタイトルから想像するのはメチャ笑えそうなコメディ。阿部サダヲも出てるし。
確かにコミカルだけど、次第に人情とじんわりの感動にシフトチェンジ。ここが良かった!
銭集めの為に、売れるものは何でも売る。
中には、私財や土地まで手放す者も。
つまり、破産覚悟。
また、この奇策がバレれば、打ち首。
そこまでするメリットは?
己の利にはならない。全ては町の為、子々孫々の為。
金を出したのが自分たちであると口外してはならない。
無欲であれ。
謙虚であれ。
慎め。
阿部サダヲの弟で守銭奴と陰口叩かれる妻夫木聡が何故か多額の出資。
その真意には、二人の亡き父で同じく守銭奴と言われた先代・山崎努のある教えが。
親子のサブエピソードが感動に一役買っている。
知恵。そして“無私”の精神。
今の政治家に足りないものであり、我々一般人も然り。
僕らは元気に営業中
【羽生重村】
皆さん慎みの掟で口を閉ざしていらっしゃるのか。書いちゃいけないお約束なのかなコレ↓
羽生君が小学生の頃、地元のスケートリンクが経営不振から閉鎖の危機にみまわれ、羽生君達がリンクの存続を市民に訴えたエピソード。
当時、地元のTV局がリンクの子供達の活動を取り上げて、そのときのテロップが「ぼくらは元気に営業中」でした。
ソチ後のTV特番でも「この人がいなかったら金メダルは幻だったかもしれない」と、当時出資してくれた事業主さんに、羽生君がお礼に出向く場面が放映された。ので、ソチにわかの私でも知っている。
そもそもこの映画、東日本放送(KHB)の企画としてスタートしたんだから、劇場用パンフに書いてあるかと思ったら無いし、レビューでも触れられて無いみたいだし、
(ネットのすみずみまでチェック入れたわけではない。すでに書いている人がいっぱいいたらゴメン。情弱で。KHBのホムペとかもまだみてないし)
今更ドヤ顔で指摘してたら笑い者になりそうだけど、羽生重村が過小評価気味なんで書いてしまいました。
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羽生君が中村監督からオファーを受けて、映画の主旨やあらすじに目を通したとき、
金策に奔走する十三郎達の姿に、小学生時代の体験が当然フラッシュバックしたでしょう。
殿様は金策にあくせくする側ではありませんけど、重村様が欲した官位をかなえるために、重臣達は金策に頭を痛めていた。あの「官位」を「金メダル」に置き換えれば、「当家に金がないのは儂のせいじゃ」は本音で言える。
史実では重村様は1767年に念願の官位を賜って、十三郎達の申し出が受け入れられるのはその後なので、浅野屋に出向いた重村様は、まさに金メダルを取った後の羽生君。
ご家族や支えてくれた人々への感謝と、夢の実現のために知らず知らず迷惑かけてしまった人達への謝罪。
殿様だから「酒銘とせよ」「店を潰すことまかりならん」とかセリフはえらそーなんですけど、金メダリストの自分にしか出来ないことを精一杯して、社会に還元・貢献する、映画の重村様はまんま羽生君です。
羽生結弦という人物が積み重ねた20年の歳月に、この映画に必要な要素はほとんど入っている。この役ならできる。自分がこの役をやるべきだという確信があったからオファーを受けたのだろうと思います。
夢だ希望だ理想だ愛だと言ったところで、先立つものがなければどうにもならない、という世知辛さを小学生の頃に骨身にしみて味わって、でもそれから10年足らずで、大望を叶えてしまった人が、終盤、主人公達の悲願達成の場面で、殿様役で登場することには大きな意味がある。
【主軸】
中村監督は、民百姓vs武士 の階級対立を主軸に描こうとはしていない。原作や宣伝のコピーとは違って。
権力者相手のコンゲームかと思いきや、早々に萱場の「利子を取られる側になってはいかん」のセリフがあって、庶民の知恵でお上に一杯食わせる痛快時代劇にはなりようがない。
監督が描こうとしたのは時代劇ではなくて、18世紀に生を受けた人々の現代劇。
だから、随所に「今の世にこのような奇特な人がいようとは」といった意味のセリフがちりばめられている。
監督が瑛太さんにことさら現代風のしゃべりを指示したのがいいアクセントになっていて、
言い出しっぺの菅原屋が、こんな無茶な企画さっさと潰してしまおうと、肝煎りに、肝煎りがダメなら大肝煎りに…とズイズイ進んでいくところがリアリティがあって好きだ(笑
250年前、人々が純朴な時代だったから奇跡が起こった訳ではない。私利私欲にまみれ、猜疑心MAXで無私の献身を嘲笑する人はいつの時代にもいる。
監督の主軸は「夢は滅多には叶わないが、たまには奇跡が起こる」「今も昔も同じ」「奇跡を起こす力とは何か」
人をだます策略は奇跡を起こす力にはならない。
菅原屋は、自称:知恵者ですけれど、自分が思いついた奇策を速攻「無理に決まってる」と却下してしまう。それを拾って愚直に押し進めたのは誰か。どんな要因が、肝煎り大肝煎りを動かしたか。
後半、ブレ始めた大肝煎りを菅原屋が一喝したとき、そこに作為謀略はあったか。
奇跡を起こす力とは? というのを言葉で言い表そうとすると、照れくさいやら嘘くせーやら、とにかくクサいんですけど。クサくなっちゃうんですけど。そこを臭みなく伝えるのが表現者の腕の見せ所。
中村監督は『奇跡のりんご』でも実話ベースであることを強調されてましたが、はっきり「実話でござる!!」って言ってんのに、それでも嘘くさいと文句言う人は多い。美談は疑われ否定される。信じてだまされるのが怖いのか。
本作においても、うっかりすると「江戸時代だからこそ成立した美談(現代では無理)」という感想に流れてしまうところを、平成の世に夢を実現させた人が殿様役で登場する。それが作品の説得力を支える柱になっている。
夢はかなう。奇跡はおこる。
そう簡単にはいかないけれど。
美談がすべてインチキとは限らない。
【武士の衿持】
武士は百姓から年貢を取り立てる悪役…というものの見方だと、この映画を片面しか観ていないことになりましょう。
「無私の献身」は、そもそもはサムライの専売特許なんです。
己の命に代えても主家をお守りする。
萱場もまた「無私の日本人」の一人。
てか、萱場のような人間にとっては、無私の忠義、武士[もののふ]の衿持 が下々にわかってたまるか、であって、その下々にまさかの「無私の志」を垣間見たが故の
>百姓にしておくには惜しい
元来、武士階級より下の身分だと読み書き習えませんから、漢籍由来の人の徳 というものに通じるのが難しい。
命がけで戦って世を築きあげてきた武士からみると、保身に汲々とし利につられて右往左往する下々というのは唾棄すべき存在であり、生かさぬよう殺さぬよう、武家にあらずんば人にあらず、ぐらいの認識だったんでしょう。
時代を経て、豪農(庄屋)や裕福な町人が読み書きを習えるようになって初めて、本作のように、町人の子が幼少より、人としてかくあるべし、と、目先の私利私欲より尊いものに目を向けるようになった。やっぱ教育って大事よね。
萱場と浅野屋2代の間に立場を越えて通じるものがなければ宿願は叶わなかった。
十三郎が萱場の面前で冥加訓を語り、てめ殿様disってんのか になる場面で、萱場は左手で右手にストッパーかけて、迂闊に抜刀せぬよう堪えてましたけど、素の性格は激高しやすいパッショネイターなんでしょうね。鍛錬して自制心を養い、私情を表に出さぬように努めてきた。その結果の爬虫類のような無表情。
2代目浅野屋陣内の終始穏やかで悲しそうなアルカイックスマイル。
1代目陣内の錆びついた顔面がギシギシっと軋みながら笑顔に変わる。あの表情の見せ方はさすがとしか言いようがないです。
三者三様の無表情が3種類の音色で奏でられるベースラインで、その上に、そこまで鍛錬のできていない人々の喜怒哀楽が、主旋律として賑やかに展開する。
で、
萱場←→陣内親子 の接点と、
武家←→千坂(大肝煎り)の接点。
大肝煎りは武士に憧れていたわけですが、別に切り捨て御免の特権が欲しかったわけでもなく、年貢の取り立て屋になりたかったわけでもない。
幕末の近藤勇や土方歳三と同様、
『大儀に殉ずる誇り高い生き方≒武士』
と考えていた。
生真面目な少年の面差しを残す理想主義の若者 というのが千坂仲内の役作りでしょう。
だからあの菅原屋の一喝は効きました。肩書き以前に、なぜ「武士」を志したのか に引き戻してくれた。
大肝煎りが初心に返るシーンも、萱場が十三郎の『命がけ』を認めるシーンも、サムライが『無私の美学』の先駆者であることが前提です。
戦場で敵を切り殺すだけが捨て身の勇気ではない。町人にも命をかける衿持がある。
萱場にはそれを認める度量があったということです。
あと、話は前後するけど共感エピとしてもう一つ。
「浅野屋は潰れ一家は離散となるでしょう」と報告した部下も語調が強かったですけど、報告を受ける萱場もかなりキレ気味で、イラッとした受け答え。「ここに書いてある!!」でしたっけ? (正確には暗記してない)
他人事じゃなかったからだと思います。萱場をはじめ、藩士達がなによりおそれていたのは、伊達家がお取り潰しになって浪々の身になること。3~5代将軍の頃と違って、頻繁に大名が改易になる事例は減ってきた時代ですが、それでも油断はできない。重村様は15歳で藩主になって、3年間も試用期間(幕府の監視付き)があったわけで、若さ故のあやまちでポカがあればそれを口実に…という危機感が常にあった。
(官位を求めたのも、一説によれば、お取り潰しの抑止効果があるからだとか。ナレーションを鵜呑みにして、無駄な虚栄心と誤解してはいけない。あのナレーションは、あくまで庶民の側からすればそんなふうに見えた、というだけだから。)
下級武士なら、次の仕官先を求めて傘貼りでもするところですが、萱場のごとき古武士の気概を残す重臣達なら、二君にまみえず を貫いて切腹して果てるかもしれない。
「お家」が潰れる痛みが、身分の隔てを越えて、武士達を直撃。それを受けての重村様のセリフ
>店を潰すことまかりならん
あれは自身にも「藩を潰して家臣達を路頭に迷わせるような真似はしてはならん」という自戒をこめて だと思います。儂も慎まねばならん。
端々までセリフが深いです。
「原作に忠実」が唯一無二の褒め言葉だと勘違いしてる人等がいるけど、史実を作品に仕上げていく過程=脚本家・映像作家としての力量をもっと評価すべきだと思うわ。
これまで例に挙げてきたシーン、原作と比較すると、中村監督の魅せ方は、芸の無い逐語訳とは違う。
例えば、橋本殿が千坂を親身にねぎらうシーン(着替えを用意してもらってお土産に紬までいただくシーン)とか原作には無いです。憧れの武士階級の人にあんなに親切にしてもらったら、これ以上食い下がって心証を悪くしたくないって気持ちになるのも無理も無いと思う。そういう演出のために、映画の千坂は一人で険しい山道を行き、山犬に怯え、ようよう辿り着くんです。
(原作でも橋本殿の親切は描かれていますが、千坂一人ではなくて複数で訪ねてゆくのよ。馬で。)
(あと、
>店を潰すこと~云々、
映画の重村語録のほとんどがオリジナル。羽生重村にあわせて中村監督が創作したセリフです。)
【慎みというワード】
「慎み」というのは、「厳禁」とは意味が違う。
「なるべくそういうことはしないようにしよう」「そうならないよう気をつけよう」という猶予をもたせた言葉です。だから掟違反に対する罰則もない。
硬直化・形骸化を防ぐため、成文憲法を持たない英国のそれと似てるかな。いい意味での島国的曖昧さ。
それで、どういうときは原則を貫いて、どういうときには掟をゆるめてもOKなのか?
慎みの答えはちゃんと作中にある。
菅原屋が借金棒引きをほのめかしたり、功名心を捨てきれない遠藤寿内(西村雅彦さん)が住職にせっついたりする場面では断固として拒否。
けど、お上への訴状では、先代浅野屋の遺訓を破って、銭を貯め、子に受け継がせ、しかも他言を禁じたこともオープンにしている。
もし頑なに他言厳禁なら萱場が心を動かされることもなく悲願は叶わなかった。
何のための掟なのか を考えればおのずと切り分けは見えてくる。
長文になりすぎたので残りは拙ブログで
ブログタイトル『ライフオブパイ専用ザク格納庫』まで。
で、書き出しに戻るけど、羽生君の小学生時代のエピソード、みんな慎んで敢えて書かないのだとしたらすいません。
守銭奴たちの人間ドラマ
マネーゲームものをうまく時代劇という世界観に落とし込めている。
実話を謳う割には、あまりに美談に仕上げられたお話も、世界観を彩る美術設定なども、歴史考証をともなうリアルさに欠けているようにも感じるが、良いテンポで淀むことなく最後まで観れた。久しぶりに楽しいエンタメ系時代劇。
突然叱咤される大肝煎の中間管理職的な苦労に同情する。侍になれて良かったね…。
阿部サダヲの酒屋がイマでも続いている(しかもずいぶんうらぶれた普通の酒屋として)というオチは、前述のようにちょっと現実味に欠けたエピソードのシメとしては最適だと思えた。
おもしろ映画かと思いきや…
なんか明るく楽しく面白い映画なのかな?
くらいのノリで興味をひいてレビューを見てみると
思いのほか高い評価と面白いというより興味深い内容らしい
…ということで視聴したところ、
うっかり泣きそうになるシーンが2・3度もあり、
テンポ良い中にもひとの優しや人間臭さが感じられて
良かったです。
良作です
実話に基づく時代劇と言うと「武士の家計簿」が思い出されるが,原作者は同じ人である。どちらの作品も,江戸時代の封建的なルールに縛られて生きるのは,さぞ辛かっただろうという視点で描かれているのだが,これはまさに現代人的な考え方なのであって,当時の人たちは,それ以外のルールがあるなどとは夢にも思わなかったのであるから,残念ながら時代的な意識を共有するといったところまではできていなかった。これは何もこの映画に限ったことではなく,結局昨今の大河ドラマでも同様なのであるから,今更嘆いても仕方がないことである。時代劇を作って頂けるだけで有難いと思わねばならないというのが実情なのであるから。
脚本は,時代の空気のようなものまで感じさせていたとは言い難かったが,かなり健闘していたと思う。特に山崎努が演じた浅野屋の先代には本当に驚かされたし,登場人物たちには身分の上下に関係なく,それぞれ見せ場が用意してあって見事なものであった。話の流れの中には何カ所か泣けてしまったところもあった。口に出してしまっては有難味が薄れるということが世の中にはいくつもあるが,そうした価値観はいかにも日本的である。本作はその典型と言えるだろうが,信念のために親子や兄弟が長年険悪になってしまってもやむを得ないとまで覚悟するのは現代人には理解し難い行動である。ましてや,外国人に理解を求めるのは無益であろう。
役者は芸達者を揃えてあって,特に,妻夫木聡と松田龍平の演技には目を見張らされた。いずれも役になり切った怪演と言うべきであったと思う。主演は阿部サダヲなのだろうが,見終わってから頭に残るのはほとんど山崎努のことばかりである。羽生選手も好演していたと思う。肌が白く,端正な容姿は,いかにも殿様という感じがした。だが,江戸時代の殿様が,敷居や畳の縁を踏んで歩くのはどうかと思った。誰も注意してやらなかったのだろうか?原作者のカメオ出演などよりそうしたことに気を遣って欲しかった。
集客目的で予告編を面白そうに作るのは映画会社の作戦なのであろうが,本作の場合はほとんどネタバレに近かったということには呆れてしまった。観客の年齢層が高く,老女ばかりの観客が見たがっていたのが予告や TV CM で何度も見せられた羽生選手演じる殿様だったことは,あのシーンで場内のババァどもの騒ぎが一段と大きくなったのを見れば明白である。まんまと乗せられたババァどもと同じ時間に見てしまったのがつくづく迂闊であった。
(映像4+脚本4+役者4+音楽3+演出4)×4= 76 点。
まさか泣けるとは
阿部サダヲのポスターやチラシの雰囲気から、クドカン的な笑える話かと思ったら・・・。
久々に映画で泣いてしまいました。
要所要所で人々の正義感、不安、やましい気持ちとかも表現されていて、深みがありました。
流石実話!
笑いたくて観に行ったのですが(勿論笑えましたが)、初めて知る色々ともどかしいお役所ごとの手順やしきたりがありました。
笑い以上に現実の辛さを見た気がして、考えさせられる映画でした!
流石実話!
松田龍平が全部持ってく感じ
タイトルから期待するコメディ感は本編にはなく、いたって淡々と話が進んでいく。30分で足りる話を無理に2時間に延ばした冗長感は否めない。なれ合い色の強い進行の中でただ一人異彩を放っていたのは故・松田優作の息子、龍平。彼が居なければ本当にしょうもない映画でした。まあスケートの羽生君を出演させるために突貫工事で作ったんでしょうね。
全266件中、121~140件目を表示