「誰しも母性を求めている。」湯を沸かすほどの熱い愛 movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
誰しも母性を求めている。
ラストシーンでお母ちゃんを燃やした熱で沸かしたお湯に包み込まれる登場人物達。誰しも母性を求めてる。
観終わった後にタイトルを見ると、そのとおりの表現。
良い人ほど早く死んでしまう。
脚本そのものは、フィクション。よその子を勝手に育て始めて役所手続きはどうなるの?と気になるし、出棺すると見せかけるために、遺体を銭湯に放置してみんなで喪服に霊柩車でピクニックに出かけ、戻ってから自宅で火葬?!びっくり仰天プラン。お骨はどうしたのだろう、お墓はどうするのだろう?疑問は尽きない。
でも描かれているのはそこではなく、強くて愛情深いひとりの女性幸野双葉と彼女の母性を求め救われる人達。
途中までは、オダギリジョー扮する夫が蒸発しても気丈に振る舞い、子供がいじめられていても逃げずに立ち向かうよう明るく諭す優しく元気なおかあちゃんなのだが、徐々に相関図の複雑さが見えて来る。
余命を知り探偵を使って連れ返した夫が、自分はもちろん夫の血する流れているか怪しい浮気相手の子供、鮎子を連れて来た時も、すんなり受け入れ我が子のように接する。
良くできた人だなぁとは思うが、我が子の安曇すらも、夫の前妻の子供だったとは。
実はおかあちゃん自身が、安曇や鮎子のように、母が帰って来なかった過去を持つ。夫の前妻が聾唖者で子供の声が聞こえず出て行った時も、子供側の気持ちが痛いほどよくわかるから、安曇を我が子のように育てられたのだろう。
虐められている我が子を無理矢理にでも学校に行かせるのは今の世の中だと最適ではないのかもしれないが、親が育ての親だった事実、親が末期癌で死ぬ悲しみに今後安曇は立ち向かわなければならないのだから、強く育てなければならないと思ったのだろう。
「おかあちゃんとは違う最下層の人間だから」
「安曇とおかあちゃんは何も変わらないよ」
この返答の意味が、後々よくわかる。
刻々と命の最期が迫る中でも、自分の事ではなく、安曇を実の母に合わせに行くために鮎子も連れて旅行に出るおかあちゃん。
旅行中に出会うヒッチハイクの青年拓海くん。彼もまた、父親がころころ母親を変え、転々としながら生きていた。
彼に運転手を頼めば良いのにとも思うが、自力で頑張るおかあちゃん。末期癌のことを子供達に隠して、宿のお手洗いで吐血に苦しむところは見ていられない。
それでも、安曇を実の母に合わせるまでは頑張るおかあちゃん。翌日タカアシガニのお店でも食欲はなくぐったりしているのに、食後子供と揉みあいになってでも実母に合わせる使命を果たす。
ひとりになって、「疲れた」と言葉を吐き出すお母ちゃん。19歳で安曇を産んだ母親が会ってみたら若くて綺麗で、後からオダギリジョーに出会ったけれどそのオダギリジョーには蒸発された事もあり、病身で疲労した「疲れた」に追い討ちをかける心のダメージの「疲れた」、更には、生い立ちも合わせての「疲れた」。
いつも人の気持ちがわかるから人のために生きて。
疲れたよね。
どうしてそんなに頑張れるのか。きっと心のどこかでは、迎えに来ると言って消えた母をずっと待っていたからなのかも。その期待すらも打ち砕く、実母が都内で大きな家を構え別の家庭で孫までいて幸せいっぱいだった残酷な事実。鮎子の母の書き置き同様、新しい幸せな暮らしを、母親だけが掴んでいたなんて。天国ではやっと親が迎えにきてくれると夢にまで見ていたのに。
それだけ、人間が母親からの愛を求める気持ちは大きいのだなと気付かされる。
途中出てくる探偵父女も妻を亡くして男手1人で子を育てているが、双葉の優しさを求めている。
父親が連れてきた子供、鮎子も。誕生日までに必ず迎えに来ると話した母の言葉を信じ誕生日には元の家に戻るが、母は来てはくれなかった。待ち続け期待を裏切られたどん底の絶望感から一転、知り合ってわずかのお母ちゃんが気付いて迎えに来てくれた。冷えと安堵のおしっこは、1人で抱えてきた寂しさをも放出しているよう。
心細かったね、いい子でいたら帰ってくるかなと頑張っていたんだよね、寂しかったね。と無言でも気持ちを全てわかってくれるおかあちゃんにやっと出会えたのに、鮎子は再び母を亡くす。でも鮎子には父親がわりと母親がわりの姉ができたのが救い。鮎子もいつか双葉みたいになるのかな?
印象に残ったのが制服を返してと訴えるシーン。
制服を隠した子達は成敗されないし、かなり奇特な方法のだが、虐めた子が教室で下着を晒してまで訴えたのなら、普通は2度とやろうとは思えなくなるはず。水色が好きと言ったらおかあちゃんが用意してくれた水色の下着で、彼氏なんかより全然大事な時に勇気を出せたんだね。男性監督がやらせているシーンと思うとちょっと気色悪さを感じるのだが、みんなの前で脱ぐという辱められた気持ちを観ている側も味わわせる演出であり、杉咲花ちゃんは月齢以上のポルノ感は感じさせていない。
作中に、小学生の鮎子がお漏らしをしてしまうシーンもある。でも女の子が足を出してトイレにも行かず長時間外にいたら、冷えるし、幼少期には安堵の瞬間おしっこなんてよくある。あのシーンで、小学生の鮎子がそういう子供らしい反応すら我慢してきた気持ちを、母親のように来てくれたおかあちゃんに対して一気に放出させる描写にもなっている。
牛乳を吐くのも、安曇が言い返せず心に溜まっていたものを、ワーっと言い返すのではなく、吐き出せたあらわれにもなっていて。
おかあちゃんの吐血も、いつも平気な顔でも、血が出るくらい、心が傷ついてきたのを視覚的に見せられていると感じた。
監督が変態だのというレビューも見かけるが、女性を性の対象としてしか見られない視点に、女性こそ男性や子供を産み出す存在であり、誰しもが求める母性を持つ存在なんだという視点を加えたいように感じる。男性同様パンツも干す。漏らして不要になったパンツをびしょびしょで持ち歩くのを避けて、捨てて帰っただけ。そこにポルノ要素は何もない。
花ちゃんが成長に合わせブラジャーを変えたのは、子供から、母性を持つ女性に成長した描写でもあり、実際鮎子の姉がわりとして変わっていくと予見される。
観客の見方を想定してかのように、ヒッチハイク青年拓海が、出会ってすぐは「50代女性の車に乗ったらホテルに連れて行かれて綺麗でないこともなかったけど逃げ出した」などと女性を性対象として見ている24歳男性の視点を話すが、おかあちゃんに抱きしめられた後、もう一度自分から抱きしめられにいく頭は、ずっと母親にそうされるのを求めていた男の子そのものである。
その拓海が「あんなお母ちゃんの血が流れてる君達羨ましい」と言った時の、鮎子の顔。嬉しそうな安曇もまた、お母ちゃんの血ではないのを翌日に知るのだが。その事実を知らされた時の、車内から安曇を泣いて見つめる鮎子の表情も印象的だった。たとえ小学生でも感受性は強くあって、気持ちそのものを理解しているからこそ演技でも表現できるのだと思うと人間の深みを感じずにはいられない。
どんな人間も女性から。自分の子でもまともに育てない女性もいる一方で、自分が産んだ存在にでなくても、母性を注げる人もいる。その母性は、男性も女性も子供も、誰しもが求めているもの。
これが監督の真意ではないかなと感じた。