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そもそもこの作品を観たのは、ムンドルッツォ監督の「信頼」についての3部作、その1作目だったからだ。2作目「ジュピターズ・ムーン」を観て、「信頼…?いや、もっと気になる事があるんだけど?」という思いに抗えず、じゃあ1作目を観たらもっと「信頼」についてわかるんじゃないかと、そう思ったわけだ。
で、「ホワイト・ゴッド」を観た結果、謎はますます深まった…!
この作品の世界は「雑種には特別な税金がかけられる」差別主義が横行する世界だ。基本的にはハンガリーなんだろうけど、現実のハンガリーではないよ。念のため。
ナチスを彷彿とさせる優性思想。今は犬の話だけど、いつ拡大するかわからない、そんな不穏な世界で、かつて飼い主と愛犬であった一人と一匹、少女・リリと雑種犬・ハーゲンは引き裂かれる。
この引き裂かれ方が恐ろしく理不尽。3ヶ月オーストラリアに行くというリリの母親は離婚した元夫にリリとハーゲンを預けるわけだが、犬の事を元夫に話していない。潔いほど自分の事しか考えていないのである。
押しつけられた元夫も、露骨にハーゲンを嫌がり税金を払う気は毛頭ない。状況が苦しそうではあるけど、娘の愛犬なのに全く配慮しないのは酷い。
極めつけは同じアパートの住人で、雑種犬を不潔とみなし、保健所に虚偽の報告までする。
犬から見たら人間なんて、こんな唖然とするほど身勝手なのだろうか。
リリはハーゲンを探すが、ハーゲンは野良犬として彷徨う苦難の毎日を送ることになる。
ハーゲン役を勤めたのは2匹の犬だが、当然人間と違って細かな演技指導は出来ない。「哀愁の漂う表情」とか「呆然とした表情」とか要求してもムリ。
それを音楽や編集の力で、いかにもハーゲンが怒っているような、泣いているような、衝撃を受けているような、そんなあらゆる気持ちが伝わってくるのだから、監督の演出力は素晴らしい。
野良犬生活の果てに闘犬として鍛えられ、牙を磨かれ、獰猛さを引き出されたハーゲンは、闘犬場で相手の犬を倒した後、茫然自失の表情を見せる。
身勝手な人間たちに追い回され、振り回され、自分の事を語ることも出来ないハーゲン。
いや、語ることが出来ないからこそ、私たち観客はハーゲンに人間的な感情を重ねられるのかもしれない。
何と言っても圧巻なのは、250匹の犬が疾走するクライマックスなのだが、私の心に深く刻まれたのはその直前。保健所のゲート前、消毒槽と思われる水溜まりを切り裂くように走るハーゲンの姿だ。
ヘブライ人を導くモーゼのような、神々しい指導者の姿をハーゲンに見た。
人間への復讐の果てに再会するリリとハーゲン。
いつも聞いていたリリのトランペットの音色に、ハーゲンは再び人間であるリリを受け入れる。
街を疾走する犬の集団を見て、「私のせいだ」と身勝手さを省みるリリだけが、ハーゲンたち犬の赦しを得たのだろうか。
種族を超えた愛、そんな風に感じた。
あれ?「信頼」についての3部作だよね?
「愛」について、または「信仰」についての3部作だと言われたら、多分納得できる。
「信頼」かなぁ?「信頼」ではないよね?
この答えを得るには、3作目を待つしか無さそうだ。