オスロ、8月31日

劇場公開日:2026年2月13日

オスロ、8月31日

解説・あらすじ

「センチメンタル・バリュー」などで知られるヨアキム・トリアー監督が、2011年に発表した長編第2作。ルイ・マルの「鬼火」の原作としても知られるピエール・ドリュー・ラ・ロシェルの小説「ゆらめく炎」を大胆に翻案し、現代のオスロを舞台にドラッグに溺れる青年の痛みと絶望を繊細に描く。

郊外の施設で麻薬中毒の治療プログラムを続けるアンデシュは、自殺願望にとりつかれていた。リハビリも終わりに近づき、外泊許可を得た彼は故郷のオスロへ向かい、友人たちと久々に再会する。しかし、会話は弾まず、就職面接を受けるが、それもうまくいかない。やがて、あるパーティに足を運んだ彼は場に溶け込めず、長い間断っていた酒を口にし、さらにドラッグにまで手を出してしまう。

ヨアキム・トリアー監督が2006年に発表した長編デビュー作「リプライズ」と、2021年の「わたしは、最悪。」とあわせて「オスロ三部作」と呼ばれる作品群の第2作。主人公アンデシュ役を、「リプライズ」でも主演を務めたアンデルシュ・ダニエルセン・リーが演じた。2011年・第64回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。日本では特集上映「ヨアキム・トリアー オスロ三部作」(2026年2月13日~、東京・Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下ほか)で劇場初公開。

2011年製作/94分/PG12/ノルウェー・スウェーデン・デンマーク合作
原題または英題:Oslo, 31. august
配給:グッチーズ・フリースクール
劇場公開日:2026年2月13日

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映画レビュー

4.0 「自分は何者かにならなければならない」自由な時代の〝重石〟についての普遍的物語

2026年4月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

「センチメンタル・バリュー」でカンヌ・グランプリを獲得したヨアキム・トリアー監督の2011年の作品だ。監督は現在52歳だから、本作は37歳の時の作品になる。
トリアー監督のオスロ3部作の2作目(1作目「リプライズ」2006年、3作目「わたしは最悪」)。1作目の「リプライズ」も本作の主演アンダース・ダニエルセン・リーが主演し、作家志望の20代の若者を演じている。
トリアー監督は、アンダースを自分自身の分身として2作の主演に配置し、自分自身の20代30代の鬱屈を重ねたのではないだろうか。この3部作は、トリアー監督の私小説でもあると推察している。そう感じたのは、僕自身も20代30代に苦しかったことを本作で思い出したからだ。
「自分は何者かにならなければならない。でも、何者にもなれていない。それなのに、30代も半ばになってしまった……」そんな絶望感が本作のテーマになっている。
トリアー監督は、1作目「リプライズ」で世界的評価を獲得したけれど、内心では、まだ本作に通じる何かを抱えていて、その考察を本作でしているのではないだろうか。トリアー監督は自己探究をベースに、普遍的な課題を描こうとする作家だと感じる。

ノルウェーは世界有数の福祉国家だ。多様性にも開かれた国で、食べていくことの不安は少なく、自由に自分らしさを追求できる。生存不安がかなりケアされている国だからこそ、本作のような実存不安が立ちはだかってくるという側面がある。これは明治期に夏目漱石が書いた高等遊民の憂鬱とも重なるものだ。時代が変わっても普遍的な〝近代の呪い〟による葛藤の物語だ。
サルトルが言う「自由という刑」に処せられた近代人は、自分の人生を自分で選択し実現しなければならない。その自由と責任が科せられている。その結果、不安と孤独を抱えて生きていかなければならないーーそうした課題は、自由であることを大切にする限り、国や時代を超えて、続いていく。
本作は1930年代に書かれた小説「ゆらめく炎」、およびそれを原作にしたルイ・マル監督の傑作「鬼火」へのオマージュであるという。「異なる監督によって、別の時代、別の国で作品化されるべきフォーマットである」というトリアー監督の言葉からも、時代を超えた普遍的テーマを、自分の出自となる地域性・時代性から考察した映画であることが伝わってくる。

本作で気になったことを考察してみたい。
タイトルは、本作が「オスロの8月31日」の1日の出来事を描いているからだ(主人公アンデシュがヘロイン中毒の更生施設から外出許可を得た朝から翌朝まで)。夏が短いノルウェーではプール仕舞いの日。翌日には水が抜かれるプールで、アンデシュは朝を迎える。34歳のアンデシュにとっては〝人生の夏〟の終わりの日でもある。
最近はあまり年齢を期限にするような言い方はされなくなった。
僕の若い時には、25歳で未婚の女性を「クリスマスケーキ」に例えるようなひどい習慣の名残はあった。転職マーケットは35歳で閉じるというのが常識で、実際、35歳までという年齢制限の募集が多かった。
僕自身は、2回目の転職で、35歳までという募集要項を無視して、38歳で応募して、採用してもらった。その会社で5年くらい働くうちに「やっと自分の仕事を見つけた」感覚を得ることができた。
すでに還暦になった身からすると「35歳のタイムリミットが来てしまった」と絶望するアンデシュには「まだまだだよ」と言ってあげたい気持ちがする。
欧米では年齢で制限するのはタブーだと聞いているけれど、25歳や30歳での独身者に、ちょっとした罰を与えるような誕生日の祝い方をする習慣はまだあるようだ。8月31日と34歳という設定には、そうした人生のタイムリミットの切迫感が込められている。

本作の一つのハイライトは、親友トーマスとの長い対話だ。麻薬中毒の療養施設で1日だけの外出の許可をもらった朝、アンデシュは自殺に失敗。外出許可は雑誌社の面接のためだが、面接の前に、アンデシュはトーマスに会いにいく。
トーマスは大学教授で妻と2人の子供がいる。6年間無職で未婚のアンデシュから見ればトーマスは成功者だ。そんなトーマスは、アンデシュを励まそうとさまざま話す。そうするうちに、成功している自分が、愛も生きがいもない〝倦怠の日々〟を過ごしていることを告白することになってしまう。全く盛り上がらないし、励ましにもならない対話。親友であっても「他人を救う」ということの不可能性を提示しているように感じた。
長く生きていれば、知人が、自ら人生を終わらせてしまう人は多いのではないだろうか。僕自身は20代から40代にかけて3人を見送った。最後の1人は弟のような親友だった。最後の会話で、彼はSOSを出していたと、後になってわかった。どうすればよかったのか……。そう考えることは最近はなくなったけれど、それでも時々ふと思い出す。
病気の問題だと割り切るべきなのかもしれない。人生の選択の権利が与えられた自由な世界において、他人を助けるとはどういうことか、それは可能なことなのか…簡単に答えの出ないことでもあり、そこに本作は切り込んでいる。

アンデシュは自分が特別な人間であると思っている。そうあらねばならないとも思っている。そして、彼は実際、麻薬中毒になる前、20代は将来を嘱望される特別な書き手であったようだ。
雑誌社の面接で、彼は生意気である。雑誌のよくないところを指摘したりしている。そして、履歴書の空白の6年間について聞かれたところで、療養中であることを告白し「もういいです」と面接を自ら打ち切ってしまう。
この面接も、まだ結果は分からなかったはずだ。僕自身、編集者の中途採用面接していた時は、生意気で失礼は必ずしもマイナスではなかった。「じゃあ、あなたがやってみて」となる場合だって多かった(もっとも僕は変わった人好みでもあって、経営の同意を得られないことも多かったけれど)。確かに、実績なしの生意気さにポテンシャルを感じられるのも35歳が限度かもしれないとも思ってしまうところもある。
それにしても、このやり取りで「もう取り返しがつかないんだ」と確信してしまうのも、アンデシュが自分にダメ出しし続けてきたからだ。自分らしく生きる武器となる自己確信の強さは、未完成な段階では、諸刃の刃になってしまう。他人から学んだり、他人に助けられたり影響を受けることが彼はうまくできていない。

その後、彼は妹と会う予定だったが、待ち合わせの場所に妹のパートナーがやってくる。妹は彼を許していない。立派な実家は売りに出している。彼の過去の所業において、一家は破産してしまったのだ。
ノルウェーではこの当時、麻薬の蔓延はかなりの問題で、公的治療体制も整い始めた頃だったようだ。調べてみると2011年当時は公的プログラムは需要も高く、3ヶ月の待機が普通で、それがネックだった。民間を利用すると、費用は週に数十万円〜200万円と高価。おそらく、その治療費捻出のために、実家を売りに出すに至ったのだと思われる。依存症患者は、密売人に多額の借金をするケースも多いから、家族がそれを肩代わりした可能性も高そうだ。その間、彼は家族にも当時のパートナーにも、相当ひどい態度をとっていたことも示唆される。

おそらくアンデシュは、親から大きな期待を受け、恵まれた教育環境を与えてもらい、彼自身もそれに応えて、結果を出してきたのだろう。
親にとって「子供の可能性を生かしてあげたい」という思いは切実で、それはどんどん強まってきていると思う。東京都内の友人や後輩たちでも、中学受験はもう常識だ。大学受験あたりで頑張ればいいのでは…とも思っているけれど、可能性の芽を積みたくないという思いもあって、親として悩みどころのようだ。そして、子供本人がそうしたいと望むともいう。それが本当の望みなのか、期待を読み取ったものか、それとも周囲の状況や同級生たちからの影響なのかはわからない。
「子供には無限の可能性があり、その可能性の中から最善のものを実現することが幸福(あるいは成功)だ」というのは、現代の共通認識だ。
誰もが特別であって、その特別さを個性として発揮するべきだーーこれを信念にして、他者と比較をしながら取り組むと、どこまで行っても、合格点のない蟻地獄に囚われてしまう。
何者かにならなければならないという思いは、未来のために、現在を犠牲にして、努力することを強いるものだ。今現在、楽しくも幸せでもなくても、それは未来のため。そうして現在は苦痛で塗りつぶされてしまう。
アルコールも、麻薬も、大音量のテクノ音楽をかけたパーティも、未来と過去を忘れさせてくれる。今現在の時間に陶酔させてくれる。現在を犠牲にし続ける限り、こうした憂さ晴らしに足元を救われる可能性は、終わることがない。
現在楽しむことと、未来のために努力すること、これをどうやってうまく両立させ、バランスさせるのかが、現代を生き抜くための最大のテーマなのだけれど、そのやり方も普遍的な答えはない。自分自身で、自分なりの個性的な取り組みかたを見出さなければならないのが、本当に難しいところだ。

3部作の3作目「私は最悪。」では主人公を女性に変えて、「セックス・アンド・ザ・シティ」のようなカジュアルな物語に転換して、監督初のヒット作となったようだ。
しかし、僕自身はこの2作目の方がずっと好みである。3作目は、より現代的で、自由であることが当然になり、それを実現できる環境もより整った中で、「自分らしさ」みたいなものに右往左往する物語。そこには、サバイバルというか生存困難との戦いは、もうなくなっている。そこに違和感を感じるのかもしれない。
今の日本は、若者の給与は高くなりはじめ、働き方改革も進んだ職場で、働くことができるようになっている。失われた30年世代からみると羨ましい限りだけれど、将来の安心感や期待感は減ってきている。そうした日本の現状からみると、若い方にも「私は最悪。」より、本作の方が切実に感じられる気がする。

特別な努力と幸運によって希望をつかむ物語より、本作のような救いのなさに救われることがある。誰か会社時代の後輩に本作を見てもらいたいけれど、忙しい彼らには、もっと明快なカタルシスのある作品が見たいだろうから、おすすめしにくい感じもしている。心に残る、絶望の物語であることに間違いはないのだけれど。

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nonta

3.5 突き抜けた自己否定感

2026年2月28日
iPhoneアプリから投稿
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sugar bread

3.0 タイトルなし(ネタバレ)

2026年2月23日
PCから投稿
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りゃんひさ

3.5 薬物依存の闇‼️

2024年10月8日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

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