ガウディという学校で、多種多様なメンバーがそこに集い、学び、悩み、見つける。
「サグラダ・ファミリアをやめてしまおう」と新聞に連名で意見広告したその張本人に、メインディレクターは白羽の矢を立てて、事業の継続を担わせる。
大変感心した部分だ。
=なぜなら「賛成と反対」は表裏が一体であり、
反対を表明する者こそ事柄の本質に気付いている覚醒者だからだ。
このドキュメンタリーはその一点で貫かれている。
否定する者と、心酔してその精神に信従しようとする者と・・。そんな正・反の彼らがガウディというプロジェクトで一堂に会して、共同制作にとりかかるこの不思議さよ。
そこには無神論者の彫刻家もおれば、かたやガウディの見た物を自分も見たいと念じてカトリックに改宗した石工もあり。
そのようにして彼らはあの巨大なモニュメントに蟻のように取りすがって、持ち場持ち場で、自己の全てをそこに投ずるわけで。
こうして150年かかって、かくも遅々として進まずのプロジェクトでありながらも、聖堂建設は続行されていたのだ。
このドキュメンタリー映画は、「建物」そのものよりも、大勢の関係者たちがそれぞれのポリシーとガウディ像を語る姿、人間模様が、まことに面白く描かれていた。
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【2026年完成の予定との事】
それはガウディの没後100年目の今年なのだが。
でも「完成」は、遅くても早くても、もうどちらでも構わないのだ。そんな気がする。
なぜなら完成させたい人間も、完成を拒む者もいまそこに一緒にいるのだから。
その感じがいかにもラテン系で緩くて楽しい姿ではないか。
思うのだ。あの地底の洞窟の「鍾乳石」について。
鍾乳石は、100年でたった1センチの生長らしい。そして目を下に転じて足元の石筍のことも観察してみる。天井から下がるあの鍾乳石の、その先から落とす雫の受け皿である=石筍 (せきじゅん)を見れば、更に驚くなかれ、1cm成長するのに240〜2400年かかるのだと。
気が遠くなるスパンだが、
天に届かんとしてゆっくりと上に伸びてゆくバルセロナの尖塔が、同時に逆ベクトルで深い根も張っている様子をレポート全体から感じる。
僕にはサグラダ・ファミリアが洞窟の光景のように、そして生きもののように、また植物のようにも見えてきた。
【遅くて・早い】
ミラノの大聖堂は14c.の着手後300年の中断を挟んで500年かかったらしい。
しかしいろいろと首尾の悪かったバルセロナのこのサグラダ・ファミリアは、もたもたとゆっくりしているように見えても意外や意外、実は現代の建築技術をもって「たったの100年で完成に至りそう」な「突貫工事」でもある。驚いたが鉄筋・鉄骨・コンクリートをこんなにたくさん駆使した現代建築でもある。
様式の「新・旧の合体」だ。
古くて新しい聖堂の地下では、地上の工事と同時に新しい地下鉄の掘削が進んでいる。これも象徴的な話だ。
子供時代にガウディから落花生をもらったと述懐する老兄妹。彼らは今だに哀悼の表情で、ガウディの志半ばでの交通事故死を語っていた。
「着手した人間は完成を見ない」という歴史的建造物の負う運命は、実に示唆的で感慨深いものだが、
「生と死の同居」もここにある。
現場監督が、同じく現場監督だった老父を伴って進捗を見せる場面もとても良い。世代の引き継ぎと「若き仕事人と老人の対比」もスクリーンを豊かにしている。
このようにして大きな建物には、列挙したようなたくさんの矛盾や、同時進行や、逆方向へのファクターを内包した=大きな人間のドラマがあるのだ。
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【1936年.フランコによる内戦勃発〜第二次大戦前夜】
ずいぶんとあの内戦はサグラダ・ファミリアの建造工程を妨害してくれたようで ―、
「日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている」と、
・・Wikipediaしていたら突然の日本の名前の登場に戸惑った。
【カタルーニャ語への弾圧について】
カタルーニャ語を捨てなかったという理由で、モンセラ修道院の修道士21人が、フランコ政権の民族同一化政策のもとで殺害されるのだが、そのカタルーニャ人であるガウディが学生時代に通ったそのモンセラで、後にサグラダ・ファミリアのあの尖塔のモチーフとして、紛れもなく造形のインスピレーションを得た「その現地」。「後方の山々との瓜二つの姿」。
あれには息を飲む。
フランコ政権は1960年代、
「カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一部では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対してバスク祖国と自由(ETA)によるテロなどが活発化した」。とのこと。
1975年フランコの死。そして
フランコの指示により後継者として指名されていた王政の復活。とのこと。
( いずれもWikipedia「フランコ将軍」より)。
当サグラダ・ファミリアは、「聖家族贖罪教会」との正式名称が表すとおり、
「例外を認めずに反目する者たちが起こしてきた戦争」への悔いと
「許容と共生、平和の時代へのたゆまぬ招き」を我々に思い出させる。
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【エンディング】
教会の落成の暁にはどうしても欲しかった前庭の広い敷地。残念ながら2ブロック丸々とすっかりと住宅地に取られしまった教会だけれど。もう取り返すことは出来ない “幻の前庭” を想像しながらドキュメンタリーは終わる。
このドキュメンタリーを貫く骨格は、建設史における二面性だ。
構成の妙は「賛否両論があった事」に着目して、そこをクローズアップした事だ。
このサグラダ・ファミリアをば途切れることなく翻弄してきた「正と否」「死と命」「歴史の裏と表」を、鑑賞しながら
テーマを辿らせてくれるプロットに称賛を贈りたい。
詩のようなドイツ語の柔らかいナレーションが心地良かった。スペイン語と現地のカタルーニャ語(?)がまた音楽のようで。
そしてロ短調ミサが流れる本編。北ドイツのプロテスタントでありながら、南のカトリックの典礼のために偉大なるミサ曲を書きたバッハの「ユニティ・スピリット」をも強く想った。
「聖家族」をその名に戴く教会であるならば、敵対する人間たちも互いに家族にならないといけないのだと、インド系の宗教哲学者が
観る者に教え諭していたっけ。
2回鑑賞。
未完成な世のために、いまだ未完成のこの教会が存在するのだ ―と呟く冒頭のナレーションに、改めて打たれた本作だった。
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
( 詩篇133)