ザ・トライブ
劇場公開日 2015年4月18日
解説
聾唖(ろうあ)者の登場人物により、全編が手話のみで描かれる異色のドラマ。セリフが一切ないため、字幕も吹き替えも存在しない作品で、2014年・第67回カンヌ国際映画祭の批評家週間でグランプリを受賞。これが長編初監督となるウクライナの新鋭ミロスラブ・スラボシュピツキーがメガホンをとり、プロの俳優ではない、実際の聾唖者たちが役を演じた。聾学校に入学したセルゲイ。一見平和で穏やかに見える学校の裏には、暴力や売春を生業にする組織=族(トライブ)が幅を利かせていた。セルゲイも次第に組織の中で頭角を現していくが、リーダーの愛人アナに恋をしてしまう。そのことがきっかけで組織からリンチにあったセルゲイは、ある決断をする。
2014年製作/132分/R18+/ウクライナ
原題:Plemya
配給:彩プロ、ミモザフィルム
スタッフ・キャスト
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2021年7月19日
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鑑賞方法:DVD/BD
聾話学校の物語。
僕の学生時代、
隣接地が聾話学校だったのでした。
ある日の“事件”をここで報告します・・
下校する子どもたちが僕の学校の前を毎日通ります。
みんな手話で、何やら楽しそうにやってますね。学校での出来事かな?テレビか何かの話題でしょうか?無音だけれど実に賑やかな手話での彼らのおしゃべり。
強度の難聴の子は、左右の両胸のポケットに補聴器を付けて、友達との手話で夢中ですね。
ワイシャツにポケットが2つ付いていない子たちは、手作りのホルダーにトランジスターラジオ型の補聴器を入れています。体の小さい一年生だと補聴器の大きさがとても目立ちます。
ホルダーはお母さんの手作りっぽいです。
あの聾話学校は、うちの学校法人がお分けした土地に建てられたものですし、我が校の「学校案内書MAP」にも隣接地としてその存在が載っている。
僕は当然彼らの姿を、毎日毎日見ています。
ところがある日のこと、
僕も寮生だったのですが、外出から車で戻ったときがちょうど聾話学校の子どもたちの下校時間でした。
ちょろちょろ動き回る小学生って危ないですよねー。丘陵地帯の自然豊かな小径です。僕は最々、最徐行であの子たちの後ろにつきました。
彼らの歩くスピードで。ゆっくりと離れて。しばらくそのままずっと。
誰も振り返りません。
彼らは通学路を左に折れて行き、そして僕は寮に戻るために右手の校門へ。
と、その時、二人の子が僕の乗用車の50センチ前に突然飛び出しのです。
「あ”ッ!え!なんで?」
ブレーキは間に合いましたが、呆気に取られて冷や汗でした。
つまり・・「耳が聴こえない」ということはそういうことだったのです。
ゆっくりと、だんだんすぐ後方に近づいてくる車のエンジン音も聴こえないし、さわれるほどすぐ横に並んだ自動車の姿も、急ブレーキ音も、もちろんパニックで咄嗟に鳴らすクラクションでさえも子どもたちにはまったく聴こえない。
(鳴らしませんでした、そんな余裕などなかったので)。
聴こえないんですよ本当に。
【「視覚」に入らないとこちらの存在は、聴覚障がい者は分からない】。
隣接地の学校なのに、5年もそこにいたのに、僕はそのことが実体験としては分かっていなかったですね(汗)
分かっているはず、
聞こえているはず、
通じているはず。
― これらは僕の持っている“常識”に過ぎず、危険な思い込みでした。
皆さんも気をつけて下さい。世の中には聴こえない人たちがいるんです。
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映画は、
寄宿舎が舞台なので、登場人物みんなが聴覚障がい者というわけです。
特に身内に聴覚障がい者がいなければ、外からは伺い知れない「手話」という手段による会話の世界が、そこに展開されています。
入室者の存在を知らせるための、「ドア上のランプの点滅」が興味深いなぁ。
若者たちの青春と、喧嘩と、恋愛のストーリー。
ダークで暴力満載。文科省は絶対に推薦しないギャングエイジ。
お涙ちょうだいの福祉物語は期待しないでね。バイオレンスなんです。福祉とは対極です。ヤクザ映画ですよ。可哀想じゃないし、誰もあんな連中とは関り合いたくないでしょ?
そしてそれらが全て手話で伝えられる。
意欲作です。ひとつの実験映画としては革新的で、成功している。
字幕は無い。だから、
・見ようとする者にしか見えない。
・聴こうとする者にしか聴こえない。
健聴者に挑戦する、超不親切な映画なんですが(笑)、でも見ようとするなら、そして聴こうとするならば、人間はそのコミュニケーションの相当の部分をやり取り出来るんだと、あの無音の画面から僕は語りかけられました。
ほら、初めての外国旅行で、僕らは五感を研ぎ澄まして人間の“声”を聴こうとするじゃないですか、あの時の感覚に似て。
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殴るのも言葉。
水責めも言葉。
セックスも言葉。
「言わないケド、なんとなくこちらの思ってることを忖度して空気読んでね」という我々馴染みのお利口さんの言語体系ではなく、とにかく相手の肩を叩いて相手を振り向かせることからしか対話が始まらないその“強引”さに、(=聴覚障がい者の有り様に)、この映画から学ぶことは小さくないと思う。
すなわち、
相手を呼び止めること、
相手の目の前に回り込むこと、
相手の歩みを止めさせてでもこちらの言い分を伝えるための気概、
そして相手が用いる言語への接近。
通訳無用の、これは直接対話のススメだ。
(了)
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追記①
最近の支援学校は、以前のような失聴者同士の会話(=手話)よりも、健聴者との会話コミュニケーション習得のために、読唇と、口話による発声会話法に重点を置いているようです。
でもちょっとした手話を知っておくと、そりゃあ楽しい。
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追記②
昨年、「パラサイト半地下」のレビューにも書いたけれど、「殴る」、そして「わざと相手に殴らせる」という僕にとっては“未知の言語の世界”を、僕は扉を少ーし開けてみたので。
拳(こぶし)も言葉の世界の一角として、物事を語ってもいるのだと知ってから、当作品への印象は前向きに少し変化したかも知れない。
星半分プラス。
2020年1月30日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
映画の表現方法は様々。
中でもこれほど異色のものは無い。
登場人物たちは聾唖者故、やり取りは全て手話。
が、状況説明や字幕は表示されない。
決してサイレント映画ではない。周囲の音はある。
ただ台詞が無いだけ。
何とも実験的と言うか意欲的と言うか、果たして話が伝わるか心配になるが、これが意外と伝わる。
おそらく舞台は製作国のウクライナ。
とある聾唖寄宿学校に一人の少年が転入して来る。
一見穏やかそうに見えるが、その内部では不良たち(族=トライブ)が幅を利かせていた。
転入早々目を付けられるも、彼らの下っ端として仲間入りに。
売春などの犯罪に手を染め、やがて売春少女と関係を持った事から…。
登場人物たちは役者ではなく、実際の聾唖者たち。迫真の演技を披露。
また、これがデビュー作となるミロスラブ・スラボシュピツキー監督の演出は終始、ヒリヒリとした衝撃と緊迫感漲る。ただ者ではない。
確かに一本の作品としては独創的で才気溢れ、素晴らしいのであろう。
が、自分はどうしても好きになれなかった。
まず、手話オンリーというのがどうも不自然。
聾唖者同士だったら何ら不自然さは無いが、時折健常者も交じり、それで一言二言一切発しないというのも…。
ひょっとしてこの表現には、もし私たちの世界から言葉を配したら…という意味が込められているのかもしれないが、リアリティーの中にアンバランスな“創作”を感じてしまった。
しかしそれら以上にゲンナリさせられたのが、その生々しい描写の数々。
不条理で理不尽な状況下、痛々しい暴力、AV並みのSEXシーンもさることながら、あの中絶シーンはまともに見ていられなかった。
聾唖者たちはただでさえハンデを背負っている。これが愚かにも人生を浪費する健常者の若者たちだったら自業自得だが、何故聾唖者たちにさらに過酷な運命を強いる?
社会的マイノリティーの声なき声を訴えているように見えて、実はこの作品こそ差別や偏見を禁じ得なかった。
もう一度。作品としては素晴らしいのであろう。
が、個人的には疑問や不快や憤りすら感じ、二度は見たくない。
2019年2月20日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル
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小林勇貴監督がその年のベストで、すごい不良映画であるとおっしゃっていたのをようやく見たら本当に不良ばっかだった。主人公がやたらとリンチに合っていた。暴力も派手さはないのだが痛そうで、心も痛くなる感じがした。手話で話しているのを見ていて、内容はともかく感情はよく伝わった。
字幕なし、吹き替えなし、無音、手話、聾唖。専門家、カンヌ騙されましたね。音響入れてるやん。実は、昔、高校の文化祭で映画作りして音響の担当した。この映画、会話以外の音入れてるから、感情移入できない。わざと健常者、管理関係者外すから、余計混乱する。激しい愛と暴力を、生い立ちや環境のせいにする仕掛けには、ウンザリする。学園もの、若者弾ける映画としては良く出来ているので、外国で映画を見たと思えば佳作とも言える。
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