セッションのレビュー・感想・評価
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マイルズ・テラーの表情が
とても良かった。周りとの関係性に応じて容易に変化する自我の危うさ。庇護すべき無力な息子と、セクシャルな意味合いも含めて人を食う危険な存在を行き来する。JKシモンズの教師役は狂気が感じられず、陰険・凡庸な印象。ドラマーが候補が全員白人なこと、初日のレッスンに遅れたことの伏線回収がやや引っかかり。
獅子は子を谷底に
明日川荘之の率いるジャズバンド、
このバンドのライブ盤CD「シチリアーノ」が面白い。
ジャズ・セッションは、互いに目配せしながら、そして息遣いを読み合いながらの一夜限りのナマ物なんだが、
このライブステージで、あろうことかメンバー同士が マジで殴り合いの喧嘩をおっぱじめる。
火花の散るような演奏が“目からも火が出る!”、“拳も出る!”という惨憺さ(笑)
そんな珍しい音源⇒特に3曲目。
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本作は
追い付いてこようとする若造をば毛嫌いして、谷底に突き落とそうとする困ったオヤジの物語だ。
見込みのある光る原石は、大人たちにとっては脅威。
徹底的にいじめ抜くJ.K.シモンズのあのパワハラは、今どきならもう許されないことなんだろうが、世代交代を予感させるミュージシャンたちの戦いぶりには痺れる。
鬱屈したフレッチャー(シモンズ)と、
卑屈さをバネに闘うアンドリュー。
そして息子を受け止めきれない弱い父親。
アフリカから連れてこられた奴隷たちの、怒りと悲しみの中から生まれたジャズだから、穏やかならざるこのような黒いストーリーも、そのDNAゆえに引き起こされるのだろうか。
血で血を洗うセッションは、(ありがちな)感動のステージで幕というハッピーエンドではなく、個々人のみの達成感と自己満足だけで終わっている。
後味の悪さを残してのエンディング。
美談ではない。友情もない。
子獅子は親獅子の喉笛に噛み付いて、いつかその息を止めるのだと思った。
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監督は次に「ラ・ラ・ランド」を撮るのだが、そこでも夢やぶれて壊れていくミュージシャンを描く。
彼も、どこか普通ではないのかもしれない。
スカッと
良い意味で思ったのと違った。
フレッチャーが鬼すぎて怖い。
昔はこういうのよくあったのかな、、
主人公とフレッチャーがどのようにして立ち直ったか
2人が再び師弟関係になりショーも大成功して丸く収まるのかと思ったが全然違った。
フレッチャーは自分を摘発した主人公を恨んでおり、主人公が練習していない曲を本番で披露するという鬼畜さ。
それに負けずフレッチャーに教えてもらったことを完璧に身につけびっくりされるほど上達した主人公。
2人が音楽を通して意思疎通した、、。
あらすじとしては↑だが、個人的にはそれでいいの!?って感じだった。
お互い復讐してスカッとしたからいいのか、、
最後演奏して終わるのかなと思ったら、そこからまた見所(フレッチャーの復讐)があったのはとても良かった。
最高
もうめちゃくちゃにオモロかった、初めての洋画がこれでマジで良かったと思う。
フレッチャーが最後までヒールとしてブレやんかったからこそのセッションやと勝手に思ってる。
実際優秀な師ほど飴と鞭の使い方が非常に上手い。
半端じゃない映画。
心臓に悪かった
ざっくり言うと、若いドラマーが野心バリバリで成長しようと頑張るが、パワハラによって挫折するという話なんですが、自分も学生時代に打楽器をやっていたので、まるで自分が怒られてるようで怖かったです。
なかなか楽譜通りに叩けないもどかしさなども思い出して、三人で次々に試されるシーンなどは本当にいたたまれない。
パワハラする側は、一見教育熱心が高じて厳しくやってしまった、風に語られますが、実は執念深いキチ◯イ親父だったというオチはなかなかでした。
自己表現は、羞恥心との闘いなのだ!
最高の音を求め、めくるめく陶酔の境地へ上り詰めていこうとする教師と生徒。
芝居なのか本性なのか区別がつかないJ・K・シモンズの演技も相まって、最後は少々変態チックな余韻さえ残して幕を閉じる本作。 しかし、作品としてはなかなかに見事な芸術性を魅せてくれる快作となっている。
鬼教師の指導は常軌を逸しており、誰が観ても理不尽にしか映らないレベル。 最初のうちは、この生徒がどういう形で潰されていくのかを固唾をのんで見守ることになるのだが、どっこい生徒の野心と負けん気も相当なもの。 なんと、教師の狂気に共鳴し、さらにそれ以上の狂気で応えるのだ。
ここから、二人の奏でる魂のぶつかり合い、つまり「セッション」が盛り上がりを見せ始める。 狂気な二人だけに色々とすったもんだがあるのだが、そこがこのドラマの面白いところ。 最後の最後、二人の間に驚くべき調和が生まれ、一瞬だけ生徒の演奏が眩しい輝きを放つのである。
ラストシーンで繰り広げられるその 「魂のセッション」 は、衆目の中で大々的に演じられる。 しかしそこには、観客と感動を共有し合って盛り上がるコンサートの一体感はない。 指揮者(教師)とドラマー(生徒)がぶつかり合う激しいセッションの内実は、偶然にも激しく響き合った二人の間だけで繰り広げられる、ステージという閉ざされた空間での出来事に過ぎない。
ラストを少しだけ変態チックに感じたのも、二人の攻撃的な対峙の仕方の裏に潜む、自己表現の衝動に駆られる人間だけが抱える、抑圧に歪んだ心の有り様までもが透けて見えるからだろう。
鬼教師の変質狂的なまでの音に対する拘り、そして、それに食い下がる生徒の異常なまでの野心。 双方とも、魂を抑圧する何かに喘いでいるに違いない。それ故に、本来なら強い羞恥を伴う自己表現が、彼らの中で、なおさらその反動を伴って激しい表現衝動に転換されるのだ。
とにかく、狂気を孕んだ心理描写も含め、見事な「セッション」だった。 ラストシーンでは、「おぉぉ」と驚くと同時に、「うむむ―」と唸ってしまった。 私も自己表現は恥ずかしいので立ち上がりはしないのだが、心の中ではスタンディングオベーションだった。 (立てよ!)
本来なら決して表には出ない、「舞台裏で起きている真実」に強烈なスポットライトを当てた点で本作を高く評価したい。 人間の激しい自己表現欲求が芸術を生み出すプロセスとその瞬間を、ドラマの中で見事にクローズアップして魅せたのは、脚本も手掛けているデイミアン・チャゼル監督。
1985年生まれということだが、いや若い! その後、「ラ・ラ・ランド」で評価を固めたが、 「だろうな」の才能だ。 これからも本作のような小ぶりでも強烈な説得力を持つ次作品を待ちたい。
ちなみに、このハゲ教師のような自分の土俵内で暴君と化すクソサド親父は、結構どこにでもいる。 親父じゃなくてもいる。 私は、そういう輩の自慰行為に付き合うようなことは、たとえ最高な結末が期待できるとしてもやらない。
やっぱムカつくよ。
人生において目指しているすべての方にとって必見の映画です。
人生で目指しているすべての方にオススメの映画です。
*笑いどころは、1ミリもありません。
目標を達成するためには、努力を積み重ねることはもちろんのこと、
優先順位を変えて集中することの大切さを学ぶことができます。
目標達成のために、「そこまでやるの?」と、おそらくは、大半の方が感じると思います。
プロセスではなく結果にのみフォーカスして、心身の限界に挑みながら努力し続ける主人公の想いに、誰しもが心動かされ、自然と応援したくなるようなストーリーには、見応えがあります。
とはいえ、後半部分には、やはり、人のメンタルの脆さや、周囲からの誘惑、いろいろなシーンがあり、ハラハラドキドキの展開です。
裏切り、裏切られ、でも最後は、腕力ですべてを解決するクライマックスには、皆が驚愕するはずです。
「昨日の敵は、今日の友」
自分の管理下にあることで、
すべてを引っ繰り返すことが出来るということを目の当たりにする凄い映画です。
良くも悪くも、井上道義(嘘
どこからどう見ても、狂気に走った井上道義にしか見えません(嘘
とにかく絵がシャープですね。
演出も映像もスタイリッシュです。
最後のシーンの「セッション」は特に見事で(果たしてこれがセッションと呼べるのかどうかも含め)
色々と問題作たる切り口を見せつけてくれます。
小説としての面白さと、映像的なセンスには満ち溢れている その一方で、
物語自体は(登場人物と共に)破綻しており、特に、
音楽を扱った映画なのに、音楽面で残念に感じてしまったのが、なんとも残念で
どうも、作品のテーマが活きてこないのですね。
主人公である若きドラマーである彼も、師(であり、対等なミュージシャン)である彼も、
とにかく、見果てぬ技術とクオリティの先にある音楽を、それぞれ、狂人のように目指すのですが、
その手段に囚われたまま、結局、彼らの目指している音楽の姿が見えないのですね。
楽譜も、テクニックも、リズムも、ジャズも、グルーヴも、手段でしかなく、
観客と共有した先にある現象こそが音楽で、すべての音楽家の到達すべき目的地のはずなのです。
ところが、この映画はそうではない。
観客も、場合によっては音楽そのものすら、必要でなく、置いてきぼりにしてしまいます。
ですので、いわゆる従来の価値観に照らし合した形での、
音楽を、セッションをテーマと捉えてしまうと、まったくの見当違いで、非常に面白くないのですね。
ですので、どちらかというと、手段こそが目的というか、
セッションや音楽という概念に一石を投じるの映画なのだと思います。
その割に、スポコンめいたパワハラに近いレッスンや、狂気めいた行動など、
切り口の時代性としては古いものを感じてしまい、果たして、これが新しいものを表現できているのかというと
映画らしい、あり得ない展開を納得させるだけの迫力に乏しく、映画力としても、そう高いとは思いません。
ただ、芸術というのは、トータルの完成度だけでは語れないのですね。
映画としては実は破綻しており、しかし、
その尖った、言語では表現し得ぬ、収まりきらぬ魅力が、詰まった問題作であると思います。
「良くも悪くも」、が、この映画にはピッタリの表現だと思います。
鬼気迫る白熱の演技の連続
思っていた内容と全然違った。師弟関係にありがちな、反発からの信頼へ変化していく感動的な熱血青春モノと思いきや、結構ドロドロの展開でこんなにもハードだったとは。交通事故からのシーンはちょっと引いた…
ストーリー展開としては、一つひとつのシーンは深掘りせずさらっと流しているので、少々物足りなく感じた。アカデミー賞3部門受賞と言うところで期待し過ぎたか。
でも、演奏シーンは、練習・本チャン問わず迫力満点!観終わったら、顎が疲れてた…鬼気迫る白熱の演技で思わず力んじゃうな(^-^;
それにしても、J・K・シモンズの演技は濃い!(良い意味で)
魂のセッション
誰の中にも眠っているであろう野心に火が付いた時の人間の怖さや、追い込まれた時に発揮される熱量や底力に圧倒された。
ビンタやイスが飛び、暴言でひたすら圧迫。汗と血が滴る極限状態。踏み込んではいけない領域に来てしまったようで胸が抉られた。
人を追い詰めて陥れる悪魔なのか?
究極のジャズ愛で若き才能を限界の向こう側へ導く教師なのか?
今もわからない。ただ、ふたりの魂がぶつかり合い、共鳴し合って生まれたあのセッションは興奮で胸が高鳴った。空気を・流れを・リズムを完全に自分のものとした彼の成長ぶりが気持ち良かった。
「見せる」演出に疑問
もちろん、JKシモンズの怪演については、アカデミー賞をはじめさまざまな評価を得ているので、文句はないのですが、ジャズマンにとっての最高の演奏とはなんなのか、もっと分かりやすく提示して欲しかった。
フレッチャー教授が有望なジャズマンを指導するのに「怒り」を利用して潜在能力を引き出す技法は、劇中でも破綻をしてしまい、バンドは空中分解する。
音楽に大切なのは、演者と聴衆が一体となって音を楽しみ、感動を分かち合うこと。過去の名演を紐解いても、テクニックよりも、情念の爆発にこそ、人の胸を打ち、語り継がれる要素が詰まっていると確信しました。
「怒り」は、その場の緊張感や、努力を惜しまないというモチベーションには、良いカンフル剤になるでしょうが、ほとんどの場合は悲劇的な結末しか生み出さない。
主人公が、事故を起こしながらも演奏を続けようとしたその負けん気や、積み重ねてきた努力は認められても、そこに居た聴衆は感動を得られず。
演奏家としての最大の義務は果たされないまま、になってしまう。
それ以前に感じた疑問についてですが、彼らの「良い」「良くない」の基準がなんなのか、分かりやすく映像で見せてくれていたなら、もっと感情移入できていたのではないかと思います。
多くの場合は、ミクロな視点で、パートごとの出来不出来をいじる指導法ばかりの描写に終始していたので、もっとマクロな視点で、イマイチだった演奏が、フレッチャー教授の指導で一気に引き締まるような場面が、なかったことが残念です。
2016.2.29
強烈な毒にあてられて、悪酔いする。
JAZZは詳しくないが、好きだ。
『ケルンコンサート』でキース・ジャレット氏を知って、トリオの来日公演に行った。この世に、こんな演奏があるのかと、震えた。
コロナ前まで開催されていた、近所のフェスで、Sr.Edmar Castanedaのセッションや、もう解散しちゃったけれど、フライドプライドのセッションにも酔った。いつか、ブルーノート東京やコットンクラブにも行ってみたい。それまでは、『死刑台のエレベーター』『ハスラー』『ブリット』や、CDに酔いしれて、と、この程度だが。
他の方が指摘されているように、JAZZの映画としてこの映画を見てはいけないのだろう。
演奏は見事だが、酔えない。技巧は称賛に値するものなのだろうが。
描かれている物語のせい?
『死刑台のエレベーター』も登場人物は倫理にはずれる人々だったが、それでも、ジャンヌ・モローさんの演技もあって、切なく、揺さぶられるものがあった。
『ハスラー』のエディも人生のどん底に落ちて…。『ブリット』もしてやられてからの巻き返し。
そんな、物語をより際立たせてくれていたJAZZ。
この映画では、JAZZは劇伴として使われていない。映画で描きたいものを描くための道具だ。
コンクール前の練習・コンクール、スカウトに目を止めてもらうことを期待したフェスでの演奏がほとんど。だからか、”正確””テクニック”が重視された音楽として演出され、演奏されているように聞こえて、そこに”心”が感じられない。お店でのライブ演奏も、曲は良いものなのだが、浸れない。
演奏のせいか、そこに起こっている物語にあてられて、私がJAZZを楽しむゆとりがないからなのか。
ショービジネスの厳しさ。
コンクールに勝ち残るためには、相当の鍛錬が必要なのだろう。『シャイン』でも、かなり追い詰められていた。『ファーストポジション』での、少年少女たちに課されるもの。
演劇界でも、実際に蜷川氏は灰皿を投げたと聞くし、井上ひさし氏も、一時期はDVが問題になっていた。ワイラー監督のような、驚異的なテイクの多さが語り継がれる監督もいる。
最高のものを作り上げる。自分を、演者を追い込み、高みに飛翔する。産みの苦しみ。
ドラムのリズムがずれていたら、まずいだろう。特に、コンクールでは。
ここまで高みを目指すようなものでなくとも、技能を上げるためには、「頑張った、よくやった」とアンドリューの父が言うような適当なことを言われるよりは、はっきりと指摘してくれた方が、伸びる。
学校の”先生”ではなくて、”師”につく難しさ。”学校の先生”は、世間が求めるある最低ラインの技能・学力を身につけさせることがその責務だが、”師”は違う。”師”のイメージしている世界にいかに近づくか。自分の代わりなんでいくらでもいる。”師”とて他にもたくさんいるが、自分が求めたその”師”に認められるかは別問題。
オーディションの厳しさ。スカウトの目に留まるチャンス。
映画でも、イメージが違う他で交代する配役。『イヴの総て』等、そのことを題材にしてきた映画はあまたある。
努力なしにはつかめないが、努力したからと言って掴めるものではない。
遅刻は、社会人としてのマナーの問題。まだ19歳、でも、もう成人した19歳。交通機関の事故とは言え、報連相は当然必須。
演奏場所。ホームを持たない、渡り鳥なら、チャンスを求めて、やりくりしているのだろうな。どんなプロも。
と、考えれば、フレッチャーが、特に無理難題を押し付けているわけではないのだが…。
自己中な二人。似た者同士。
才能があると過信したい中二病的なニーマン。
己の理屈を押し付けるフレッチャー。
皆と”音楽”を作ろうという発想はない。
頭と心を占めるのは、己のことのみ。
その怪我で、登壇したって、演奏できないだろうと小学生だってわかりそうなものなのに、しがみつくニーマン。怪我したのは自分のせいなのに。トラックも巻き添いをくらい、他のバンドメンバーのチャンスをつぶす。それなのに、さらに…。
「天才を作る」という主張の元、メンバーの心をもてあそぶ、フレッチャー。あのトロンボーン奏者との会話はなんなんだ。ドラマーを3人。競わせるまではまだ許容範囲だが、そこでの鼓舞の仕方はなんなんだ。己が、この世界の神であることを自分自身が確かめるために、トロンボーン奏者をなぶり、ドラマーに圧をかける。そうすることによって、他のメンバーを支配する。反社会的勢力のリンチと同じ。俺に逆らえば、お前もこうなるぞと。だから、その演奏に伸びやかさがない。軽やかさがない。遊びがない。きっちりしているけれど。
「音楽をやる理由がある」ニーマン。だが、それは、自分を認めさせる手段。故郷で、一緒にディナーする家族の鼻を明かしたいから。それゆえ、ここから外されてしまってはとしがみつく。視野狭窄。他の可能性には目を閉ざす。そこに、JAZZへの愛は感じられない。
フレッチャーも同じ。フェスでの仕打ち。ニーマンへの腹いせまでは理解する。けれど、元々のこのバンドのドラマーや自分が指揮するバンドメンバー、お金を払って、すてきな音楽を聴きに来たフェスの観客のことは全く考えていない。己の欲が満たされれば、それでよい。そこにJAZZへの愛は感じられない。
そんな演奏を聞きたいと思う人がいるのだろうか。
作中、フレッチャーがJAZZが衰退した理由をもっともらしく語るけれど、私からしたら、そんなふうに、JAZZを手段としてしか考えないあなた方が衰退させたのだと言いたい。
ラスト。
映画が始まった当初は、猫背で上目使いでおどおどしていた少年が、終盤、真正面から相手を見据えて立ち向かっていく。
いつも逃げ場所を用意してくれるが、故郷のディナーでのように肝心なところでは庇ってくれない、肯定しているふりして否定してくる、成長を止める真綿のような父を振り切って。
そこを、ニーマンの成長譚と言えば、そうなのだろう。
けれど、
自己中×自己中、自己満と自己満のぶつかり合い。
そこは、全く変わっていない。自分たちの求めるものの為なら、他者なんて存在しない。
ニーマンとフレッチャーにとっては至福の世界なのだろうが…。
二人の毒がまき散らされて、悪酔いする。
そんな音楽なんて聴きたくない。楽しめない。
『ラ・ラ・ランド』の開設で「監督のJAZZへの愛が~」という文を読んだけれど、
監督は、本当にJAZZを愛しているのだろうか?その教育課程で愛憎まみえたものと化しているのか。
二人の男の絡み合い。
この先も業火に焼き続けられるのだろう。周りに毒を振りまきながら。
世間の片隅で。でも、本人たちは世の中を支配できるんだと思い続けるのだろう。
☆ ☆ ☆
映画自体は、私にとって不愉快なものだった。
でも、フレッチャーを演じられたシモンズ氏の怪演と、
ドラム演奏を披露してくれたテラー氏、ストウェル氏、ラング氏、
酔えなかったけれど、すてきな演奏を当ててくれたJAZZマンに、
☆2つ。
常人を超える試練
常識の範囲内では、スターは生まれない😫
見出した才能を一流にするためには、職を辞そうが、犯罪まがいになろうが妥協しない😫
狂気をはらんだプロ意識😫
技術なんて習得して当たり前😩
一流のスターが生まれるためにはこんな先生が必要なんだなー、超名作です😭😭😭
作中の演奏の緊張感とジャズの音楽がとても合っていてカッコいい。 夢...
作中の演奏の緊張感とジャズの音楽がとても合っていてカッコいい。
夢を追う情熱、狂気、だけどそれに伴う身勝手さと弱さ。
才能や努力が必要だからこそ、普通とは次元が違うストイックさがあるのだろう。
あの終わり方も最高でしたね。あのアイコンタクトに2人の空気が全て表れているようだった。
そんな男たちの世界がカッコよかったです。
狂気の潰し合い
これほどまでに高エネルギーで興奮する愛憎劇を初めて観た。
ジャズドラマーとして一流になることを目指すニーマンと一流育成に手段を選ばない鬼スパルタ教師フレッチャーの強烈な絆を描いた本作。
若きジャズドラマーにマイルズテラー、信じられない程のスパルタぶりを発揮する伝説の鬼教師にJ.Kシモンズを据え、激しい魂のぶつかり合いが繰り広げられていた。
ストーリーが進むにつれ、フレッチャーの狂気がニーマンにも乗り移り、文字通り音楽に魂を売った2人のやり取りは目が離せなかった。
この映画最大の見せ場であるラストのセッションシーンでは2人だけにしか分からない激しい憎しみ、激しい愛が爆発的に行き交い他者を介在させない圧倒的な空気感を築き上げていた。この2人の壮絶な潰し合いは演奏と共にヒートアップしていく。血と汗が飛び交う魂の演奏が終わった時、信じられない程が心拍数が上がっていた。
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