赤と白のあいだで
――『ST 赤と白の捜査ファイル』をめぐって
2015年の映画『ST 赤と白の捜査ファイル』は、事件を解く物語ではない。少なくとも、私にはそう見えた。
ドラマの映画化作品であり、ジャンルとしては刑事もの、科学捜査ものに分類されるのだろう。だが、物語を動かしているのは事件ではない。赤城左門という男の、訳の分からない行動原理そのものだ。
彼は天才だ。だが、その天才性は推理力や知識量にあるのではない。彼が何を考えているのか、なぜそう動くのかが最後まで明確に説明されない点にこそ、この人物の異質さがある。
視聴者の立ち位置に置かれるのは、ユリネキャップだ。彼は赤城を理解しようとし、追いかけ、振り回される。その姿は、物語の中での案内役であり、同時に観る側そのものでもある。
警視庁科学特捜班――サイエンティフィック・タスクフォース、通称ST。ここに所属する面々は、どう見ても警察官らしくない。専門分野に特化しすぎ、協調性に欠け、社会性も怪しい。現実の警察組織を思えば、ほとんど漫画的な設定だ。
だが不思議なことに、物語の根幹にある倫理や信頼、責任といった普遍的な部分は、まったく崩れていない。設定は極端で、人物はデフォルメされているのに、守るべきものだけはきちんと守られている。このアンバランスさが、作品の軽やかさと説得力を同時に生んでいる。
「赤と白」とは何なのか。タイトルが示すこの色の対比は、物語の随所に顔を出す。冒頭に置かれた信号機、ミドリの服装、そしてSTメンバーの名前の色。
私には、赤は事件そのもの、白は解決や理性、科学を象徴しているように感じられた。血の色、危険の色としての赤。説明と決着をもたらす白。そのあいだに立つのが、白――ユリネという存在だ。
進むことも止まることもできる中間色。判断の猶予を与えられた色。彼は常に、赤城の判断を理解しようとしながら、まだ完全には踏み込まない場所に立っている。
事件そのものは、比較的早い段階で見通しがつく。むしろ警視庁の捜査や組織的な判断が、事件解決の妨げになっているようにさえ見える。赤城の中では、物事は驚くほどとんとん拍子に進む。
そこにミスはない。ユリネの昇進を傷つけないという条件さえ、あらかじめ織り込まれている。この物語は、偶然や失敗によって転がらない。すべてが「引き受けられた判断」として配置されている。
構造を眺めると、いくつもの既視感が重なっている。絶対的天才と観察者という関係はシャーロック・ホームズとワトソン。真面目さとおふざけの同居はルパン三世。STメンバーの専門特化した能力はサイボーグ009を思わせる。
それでもこの作品が古びないのは、それらを模倣としてではなく、モジュールとして組み合わせているからだろう。シリアスコメディという外皮の内側に、確かなヒューマンドラマが忍ばせてある。
とりわけ印象に残るのは、ナオミの娘と、その父をめぐる問題だ。極めて重く、扱いを誤れば物語全体を壊しかねない要素である。
赤城は言う。「話せ」と。彼特有の命令形だ。
それは冷酷にも見える。しかしそこには、母子関係にすべてを委ねないという強い意志がある。幼い娘にも「知る権利」があるという考え方。赤城が見ているのは現在ではなく、娘の将来だ。そしてその将来は、今この瞬間の判断によって形作られる。
だが、物語はその後を描かない。娘がどう受け止め、どう生きていくのか。そこは完全に余白として残される。
この「描かなさ」こそが、この作品の最も誠実な部分だと思う。答えを示さないことで、判断を観る側に返している。
物語上の警視庁には、驚くほど良き上司が多い。その根幹にあるのは「信頼」だ。ぬいぐるみ作戦という、見た目には馬鹿馬鹿しい行為も、その信頼があるから成立する。そこには、かつて信じられていた「古き良き時代」の名残がある。
事件をモチーフにしながら、この物語が本当に描いているのは、ユリネを守ること、そして語られない真実とどう向き合うかだ。それをあえてコメディとして包んだのは、真実を消費させないためだろう。
最後の別れのシーン。STを離れるユリネと赤城。娘の父が誰なのかという真実は、ついに語られないまま終わる。
そこにあるのは、日本的な照れくささであり、同時に美学だ。
多くを語らず、答えを決めず、余白を残す。その余白こそが、この作品を「なかなかいい」と感じさせる理由なのだと思う。