「では、悪い子は誰??」きみはいい子 アルバータさんの映画レビュー(感想・評価)
では、悪い子は誰??
進んだ社会に住む大衆ほど、社会がより完璧であることを望む。しかし、社会がどんなに完璧に近づいても、決して完璧は訪れない。民主主義によって大多数は救われる世の中になったが、民主主義に選ばれなかった少数者は常に存在する。ネットの発達によって、苦しむ少数者の声は以前より拡散されるようになり、そんな人を無視する行政に対して外野から批判する活動家の声も大きくなった。
しかし、「迷惑をかけてはいけない」という意識が深く根付いている日本社会では、少数の大きな声「ノイジー・マイノリティ」のために必要性が疑われる行政対応がなされる場合がある。
本作にもその気配がある。「花びらを掃除するのが大変だ」という理由で学校の桜の木を切ることを求める近所の声に仕方なく従ってしまう学校。行き過ぎた男女平等意識から児童をみんな「さん」で呼ばないといけないルール。などだ。
もちろん市民の声が漏れなく掬い上げられることが悪いと言いたいわけではないし、少数者は諦めろと言っているわけでもない。むしろ、少数者の問題の中には無視できない重要なものも多い。
ただ、どうでもいい少数意見には従うのに、本当に苦しんでいる少数に対して行政が上手く立ち回れないことはあまりにも多い。虐待やいじめ問題などはその槍玉に挙がる典型だ。マスコミもネットも、虐待を見逃した児童相談所、いじめ隠蔽に走った学校を見つけては、強い口調でセンセーショナルに報道し炎上を引き起こす。
行政が分け隔てなく機能して欲しいのは確かだ。しかし我々はどこまで期待すればいいのだろうか。皆がコレ欲しいアレ欲しいと言うことが全て満たされる世の中などあり得るわけがない。ある問題を解決するために別の問題が生まれたりする。どんな名医も患部に傷を残さずにメスを入れることはできないのだ。
「きみはいい子」はそんな問題に板挟みされる現代社会と、それを構成する多様な人々を描く。
本作の登場人物のキャラ設定はある意味分かりやすい。...発達障害を持って授業中に時々発狂してしまう子とその母。知らないうちに万引きしてしまう認知症の老婆。虐待を繰り返す母と、帰ってこない父。虐待する父と、帰ってこない母。持病があって授業中にお漏らししてからかわれる子。いじめられる子。いじめる子。そんな我が子を愛する親たち。…などだ。
「壮絶で陰湿ないじめ」や「残酷な虐待」というホラーでドラマチックなものではなく、本当にありそうな程度の事例を映像にしているため嫌なほどリアルに感じられる。それらを掻き集めて一本の映画にしているから極端に見えるかもしれないが、これと相似する物語はどんな町を舞台にしても現実として起こっているだろう。
主人公の一人である小学校教師である岡野(高良健吾)も小学校を中心に起こる問題対応に奮闘する若手教師だ。
さて、小学校は大変だ。閉じた環境は必然的にいじめを作り出し、いじめ以外にも様々な問題が起きる。そして子供に何かあれば親は学校を責める。教師たちは肝心の勉強よりも各方面から来るノイズキャンセリングと調整が業務の大部分を占めている。岡野がそんな学校に疲れて姉の家に愚痴を言いに行った際、姉の5歳くらいの息子が岡野を「よしよし」と抱きしめる場面がある。それに感銘を受けた岡野は後日「家の人に抱きしめられて来る」という宿題を児童たちに出す。次の日、いじめる側の児童、いじめられる側の児童、目立つ子、目立たない子も恥ずかしながら宿題をやってきた報告をする。そんな子供たちの罪のない純粋な表情が、小学校の主人公は子供であることを思い出させてくれる。
もう一人の主人公である水木(尾野真千子)は虐待をする側の母親として描かれる。水木自身が過去に虐待を受けており、その恐ろしさを知っていながら、我が子には同じように虐待をしてしまう。ある日の些細な出来事から、水木が娘に虐待していることをママ友である大宮(池脇千鶴)は気付く。優しい母として育児をこなす大宮も実は子供の頃虐待を受けていた。虐待をしてしまう水木の心の危うさは大宮に理解され、やはり大宮に抱きしめられると言う形で水木は愛の温もりを思い出す。
心理学の研究で「幼少時代にストレスが多かった子供はストレスに弱く育つ。」というものがある。多くのストレスに晒されれば鍛えられて耐性が付くという根性論はデータに否定されている。しかもストレスでDNAが書き換わりその弊害は遺伝するとも言われる。
虐待する親も心の闇を抱えていて、それは外部の人間が強引に解決できるものではない。
要所要所で描かれる抱きしめるシーンは愛に期待しなくなった現代社会に愛の力を思い出させてくれる。行政の不行き届きの問題も、最後は当事者同士の愛で補いなさいというメッセージを伝えているようにも感じた。愛で世界は救えるというのは絵空言葉かもしれないが、愛は自分くらいなら変えてくれるかもしれない。
三番目の主人公である認知症の単身老婆もあるテーマを物語っていた。自分が万引きしたことを覚えていない、発達障害の他人の子を家に上げてお菓子をあげては、彼の発達障害に気づいてもいない、ありもしない桜の花びらを綺麗だと言うなど、彼女の目に写る日常はズレている。もちろんそれは彼女が認知症を患えているからである。それ以外の理屈で彼女の見る世界を肯定するのはなかなか難しい。しかし、理屈で切り込みづらい問題が、理屈外の力でなんとなく良い方向へ運ばれる例を彼女は体現していた。
最後、父から虐待されている神田さんが、岡野が例の宿題を出した次の日から学校に来なくなってしまった。もちろん彼の問題は愛で解決できる類のものでないことは岡野自身も予想していたはずだ。親子関係から見れば岡野は部外者である。しかし岡野は意を決し、幻の桜の花びらが舞い散る道を駆け抜けて彼の家へ向かう。そして、ドアをノックするところで物語は終わる。
神田さんの父はどうして虐待しているのか。それを深掘っていくことも彼の救済劇の顛末も描かれなかった。そのため、映画の鑑賞後にはモヤモヤとした感覚が残る。しかし、もしスッキリする終わり方をしてしまえば観客である我々はこの問題を映画の中で終わりにしてしまう。そうしてしまうと誰かからノックされることを待っている現実世界の神田さんは救われないのだ。
きみはいい子だとしたら、悪い子は誰なのだろう。本作品は悪役を名指しするようなことはしていない。むしろ、複数の視点から悪い子にも実は罪がないことをしきりにほのめかしている。
だからと言って、この物語に出てくる人々を一括りにして「きみ”たち"は誰も悪くない」と言うことは違う。なぜなら、自分たちは悪くないと錯覚した集団は、その外に「悪い子」を探すようになるからだ。
そうではなく、「きみはいい子」だと慰め合える個人の関係を皆がこっそりと築くことが大事なのだ。そして、その一対一の関係を愛と呼ぶのではなかろうか。
なんとなくドラマ「夜行観覧車」のエンディング曲だったAIの「Voice」を思い出した。世の中、愛が足りてませんな。