わたしは生きていける : 映画評論・批評
2014年8月25日更新
2014年8月30日より有楽町スバル座ほかにてロードショー
思春期の少女が抱える不安を、戦争というモチーフに置き換えて語るサバイバルドラマ
ロンドンで核爆弾が使用され、第三次世界大戦が勃発するというあらすじや、ディザスター映画を連想させる不穏なビジュアルに惹かれて劇場へ足を運んだ観客は、実際には作品が「見捨てられた子どもの物語」であることに気づき、その意外性に驚くはずだ。「わたしは生きていける」が、崩壊する世界を通じて描くのは、行き場を失った子どもたちが繰りひろげる過酷なサバイバルと逃走である。
アメリカからイギリスへと旅立った少女デイジーは、他者とのコミュニケーションをいっさい遮断するかのようにヘッドフォンをつけ、髪をブロンドに染めて鼻にピアスを開けた、いかにも不機嫌そうな主人公である。未成年の娘がひとりで海外へ出かけているにもかかわらず、いつになっても父親からは連絡がこない。彼女はいとこの住む家へ到着するが、保護者は不在であり、台所には汚れた皿がだらしなく積み重なっている。デイジーがひと夏をすごすイギリスの家は、見捨てられた子どもたちが集まる場所なのだ。
子どもだけが住む家に、いっときの自由なパラダイス空間が出現するという展開は「誰も知らない」(04)を連想させる。子どもたちが見せる自由な表情や快活さは魅力的であり、イギリスの美しい自然風景とあいまって、映画の枠をはみ出すようなエネルギーで観客を惹きつけるのだ。見捨てられた子どもは、か弱いようでいて思いのほかたくましい。自由を奪われた少女は、あたかも「狩人の夜」(55)に出てくる子どものように逃亡をくわだて、森を抜け、山を越えて移動をつづけるのだ。
あたかも周囲を威嚇するかのように染められた金髪も、時間が経つと共に根元から黒髪が伸び、少女の精神的な変化を暗示する。恋愛を知り、小さな子どもに頼られる経験をすることで、身構えがほどけ、愛する他者が待つはずの場所へともどっていくためのエネルギーがもたらされる。物語は、しだいに変化していく少女の内面を繊細にとらえた美しくスタイリッシュなフィルムであると同時に、10代へ向けた作品ならではの切実さを感じさせるのだ。
(伊藤聡)