「如何なるものでも揺るがない、”海場"という名の小宇宙・・・」白鯨との闘い 平田 一さんの映画レビュー(感想・評価)
如何なるものでも揺るがない、”海場"という名の小宇宙・・・
ここで使う"海場"の読みは"うみば"でなく"かいじょう"で行きたい。本来“かいじょう"の漢字変換は、“海上”であって“海場”じゃない・・・。実際漢字を探してみると、ヒットするのは“海上”だった・・・。それでも語彙力に等しい僕が“海場”を使いたかったのは、本作が“海の上”でなく、“海という場所”の話な上、そこに足を踏み入れてしまった男たちの話だったから・・・。
これを見てるとジェームズ・キャメロンが海に魅せられるのも分かる気がする。『タイタニック』は海底探査の最中から始まるし、製作のみの『ソラリス』だって原作は海が舞台ってあったし、ドキュメンタリーに何度もするほど、謎と神秘があるんだろうな。考えてみれば人の身体も解明されずな謎もあるし、共に自然が起源なわけだし、因果関係は深いんだろうな。
今回の『白鯨との闘い』はそんな海への好奇心が、息苦しいほどのサバイバル劇に交ぜて描いているのが良かった。自然は時に中立であるのは、テレンス・マリックが教えてくれたし(『シン・レッド・ライン』)、人智を超えた存在であるのを(ローランド・)エメリッヒが描いてくれた(『デイ・アフター・トゥモロー』『2012』)。『白鯨~』の場合“白鯨”という強いて言うなら身近に絞った。鯨は自然そのものと違って、倒す術はありそうだし、いくら巨大であろうが人には殺せないということはない。それがオーウェン・チェイス含むエセックス号乗員全員の“共通項目”。それを傲慢にし過ぎないのがハワード監督の凄さだね。
あんまり僕はロン・ハワードの映画を見たことないんだけど、『ダ・ヴィンチ・コード』と『身代金』『ビューティフル・マインド』は見た。特に『ビューティフル・マインド』は描き方が好きだった。“統合失調症”という精神障害に苦しむナッシュを“病人”として描かずに、ちゃんと“人間”で描き切ってて、最後のアリシアへ向けた賛辞に真実味が宿ってたから。勿論映画は記録じゃなくて、脚色前提のメディアだから、映画で描かれた事全てが事実であるとは思ってない。でも“統合失調症”の描き方を一度見れば、監督が如何に題材に対して、真摯に取り組んだが分かる(同じ理由で志村貴子さんの『放浪息子』も大好きです)。
本作でもハワード監督の描き方は顕著に尽きる。特に白鯨襲来後こそが“本番だ!”と言わんばかり!勇猛果敢な海の男、だけど短期な一面と名士の家柄を直接嘲笑・・・傲慢な面も目立つオーウェン。家柄から船長に選ばれ、現場経験も欠如で無謀・・・実績も信頼も備えたオーウェンに対抗心を剥き出しのポラード。容易にどちらかに寄り添わず、まるで公平なレフェリーみたいに、双方の内に宿る感情(軽蔑・卑下・敬意等)が巨大な白鯨襲来で如何に変異してゆくか?それを“映さぬ人肉描写”のパワーも駆使して描いてるから、拳に力が入りまくりで思わず目を瞑りかけた。根本に宿る人間ドラマ(14歳のニカーソン同様“新米乗員”なポラード船長が如何に一人の“漢”へ変わるか?屈強が尽きる極限の中でオーウェンが自我を保てるか?)も正真正銘の迫真だから、退屈という漢字二文字が全く一度も浮かべなかった。正直ここまでの映画だとは、まるで思っていなかった。
『白鯨』は一度も読んでないし、原作本の『復讐する海―捕鯨船エセックス号の悲劇―』も未読。でも全然問題ないって映画見終えた僕は思う。一つの海洋映画としても、サバイバル映画としても、役者目当てで見に行っても満足できる映画なんじゃないかな(対立から敬意へ変わるヘムズワースとウォーカーが良かったし)。
少し不満を挙げるとしたら、上映時間の短さかな?140分以上で撮っても、普通に見れると思うんだけどな・・・。あと過去への繋げ方がイマイチだったところかな・・・。