いただいたフライヤーに載っていた言葉。
それが素直に心に響いてくる映画。
移民問題を扱った小難しい映画かと思っていたら、
笑えて、楽しくて、しんみりして、元気をいただける映画だった。
トルコ系ドイツ人の監督とその妹の共同脚本。
それをこう言う風に演出し、編集して見せる妙。
テンポも、音楽も良い。
加えて、登場人物≒役者の魅力。正直、初めての役者さんばかりだったけれど、映画が終わるころには近所に住んでいる一家のような顔見知り気分になってくる。
それまでの人生を醸し出して、だんだんと魅力的に見えてくる祖父母世代。
生きることにかつかつで余裕がない疲れた顔をしていた二世たちの顔が終盤変わってくる。
そして、それなりの問題を抱えながらも、未来を感じさせる孫世代が、話の軸となる。
「僕はトルコとドイツどっちなの!」「両方じゃダメかい?」「だめだよ。どっちのサッカーチームに入ればいいの?」
サッカーチームの組み分け方法にはクレームつけたいが、小学校低学年なりの”自分”というものの捉え方。
その孫がこの旅を通して、自分なりの着地点を見つける。
とにかく、おじいちゃんが粋。
そして、孫息子がかわいい。
話は、孫娘が「自分はドイツ製。トルコに産まれていたならどのように育ったのだろう?」という自分への問いかけから始まる。
祖父が言いだした、とんでも里帰りの道すがら、家族のルーツを、第一世代・第二世代が聞いている中で、大学生の孫娘が小学生の孫息子に語るというかたちで進んでいく。
その中に表現される二つの故郷をもつ様々な事柄が、面白おかしく表現される。
一緒に暮らした期間によって違う家族としての感覚。
宗教上の感覚。
躾。
友達。
衛生観念の違いと、慣れ。
一度手にした”便利”は手放せない。
長女が憧れる職業と、兄弟の反応(イスラムでは女性は表では働けない?)。
長男・三男の職業がなんだかは語られていないが、次男は失業している。
どこに埋葬されるか。”想い”だけでは決められない現実。
そして、言葉の問題。
今回の上映会の企画者が教えてくださったが、三世代で違うのみならず、二世に当たる四兄弟、それぞれの話すドイツ語・トルコ語が、何歳でドイツに来たかで微妙に違うのだそうだ。
三男の話すトルコ語が、微妙に間違っているらしいのは字幕でも表現されていたが、他は字幕だとほとんどわからない。
幼い長女が医療通訳している場面でも、唸ってしまった。もし、重い病気だったら。でもこの子しかいない。
そんな、今や私の周りにもいる多国籍の住民たちとその子ども達と重なるあれこれ。
つい”問題”として”ことがら”として考えそうになる。
”困った”部分を指摘して、”知識人”を演じたくなる。
だが、彼らは私たちと同じ”人間”ということを思い出させてくれる。
家族が笑顔になる生活を求める”人間”なんだと。
孫娘の相手が、かってトルコを窮地に陥れたイギリスの血をひく相手であろうとも、それが孫娘の幸せにつながるのなら、受け入れてしまえる度量。
そんな彼らの歴史と今を、笑いながら経験できたからこそ、”問題”という”事柄”ではなく、袖すり合うも他生の縁的な、どこかで頑張っているかなてきな身近な”人”として、心の中に住まわせておくことができると思ってしまえる。
映画では、二つのアイデンティティに根を張る。祖父は生涯豚肉は食べないであろうが、落としどころを見つけようとする。
”グローバル”なんていう、どっちつかずの、根なし草には逃げない。
なんて映画だ。
”移民問題”なんてふうに”ことがら”として語るよりも、この魅力的な一家をもっとたくさんの人に知ってほしいと思った。
(上映会にて鑑賞。素敵な映画をありがとうございました)