風立ちぬのレビュー・感想・評価
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期待しないほうがいい映画でした
いくつか映画のレビューを見て、あと簡単な映画宣伝文句をみて、この映画を見にいきました。元々の直感とレビューからあまり期待はしてませんでしたが、それでも何らかのインスピレーションをもらえるのではないかという期待で見に行くことになりました。
それと、レビューの中には「時代を先取りしすぎた映画」だとか「恋愛があるとおもったらあまりなくてひたすら戦闘機作りばかりだった」とかいう感想があり、そういう部分にも期待していました。
さて、見た後の私の意見ですが、レビューは嘘が多かったということ(笑)。時代を先取りしすぎてわけがわからないような部分もなければ、恋愛がすくないというのも間違い。半分くらいは恋愛もので、私的には目的とちがって期待はずれでした。
ひとことでまとめると、「特にとりたてる部分はない普通の映画」です。
今回、とにかく、レビューをみて先入観をもつのが一番危険だと痛感させられました。
宮崎監督の信念と良心を垣間見ることが出来た。
映画の内容について、ほとんど予備知識のないままに見に行った
が、素晴らしい映画であると感じた。
宮崎監督の信念と、今の日本に伝えたいメッセージはしっかりと
受け止めることは出来たのではないかと思う。日本の一番暗く重
い時代を、腐りもせず、自傷にも批判にも走らず、自らの仕事を
全うする青年の姿に、監督が本作に込めた、今の日本へのメッセ
ージを感じない訳にはいかない。
その時代を断罪することができるのは、同時代に生きた者にのみ
許された特権である。監督もそのあたりのことは重々承知のはず
。
本作の中で非難らしい非難を受けたのはナチス党であり、作中人
物を通して、ならず者の集まり、とまで言わせている。それ以外
は日本の軍部、会社組織、上流階級、来日中の枢軸国人、そのい
ずれに対しても監督の描写はあくまで中立を貫いている。その辺
りに監督の配慮、そして良心を感じた。
堀越氏の生い立ちにしろ、零戦の設計者としての知識ぐらいしか
もっておらず、堀辰雄の「風立ちぬ」もだいぶ前に読んで以来、
ほぼ内容を忘れかけていた。
なので、本作が史実に合致しているか、については私自身それほ
ど重要視していない。むしろ、日本が一生懸命に輝こうと悪戦苦
闘していた時代の美しさを、監督が愛好する、紅の豚の世界にも
似た飛行機乗りのロマンに絡めた着眼に拍手を送りたい。
どうすれば、今の日本はかつてのように輝けるのか、どうすれば
少子化を克服できるのか。そして、人は何ゆえに生き抜くのか。
ラスト近くで菜穂子が語りかける言葉に、全てが集約されている。
2013/8/24 イオン・シネマつきみ野
本作への批判、堀辰雄との類似性に関して
--本作への批判、堀辰雄との類似性に関して--
この映画を一緒に観た友人は、非常に怒っていた。彼女いわく
「軟弱な世界観。当時あったはずの悲惨さを全く描いていない。まるで夢物語だ」と。
私はその言葉を聞きながら、ある種の既視感を覚えていた。
この映画への批判は、堀辰雄が文学史の中で受けてきた批判と同質だったからである。
「素寒貧」「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
三島由紀夫、大岡昇平らが堀を評しての言葉である。
本作への批判を、堀文学と比較しながら考えていきたい。
...
本作は、堀文学へのオマージュが散りばめられている。
二郎が軽井沢のホテルで菜穂子の部屋を仰ぎ見るシーンは『聖家族』からの、菜穂子がサナトリウムを抜け出して二郎のもとへ赴くエピソードや喫煙シーンなどは『菜穂子』からの引用であろう。(余談であるが『甘栗』における喫煙シーンは文学史上屈指の美しさであり、堀辰雄は煙草を大変上手に扱う作家でもあった。)
エピソードのみならず、本作と堀辰雄作品は、その表現方法も酷似している。
堀辰雄はアクテュアリティー…現実性を徹底して排除した作家であった。
「私は一度も私の経験したとほりに小説を書いたことはない。」と、自ら語っているように、
結核を患っていた己の療養生活をそのまま描くのではなく、美しい虚構に再構築して小説に仕立てた。
私小説として現実の悲惨さを描くのではなく、ラディゲのような純粋な虚構を書く事、「現実よりもつと現実なもの」を描く事が堀辰雄の目指すところだったのである。
それは、この映画における、戦争や死に触れながらも悲惨さを排除し、美しさ純粋さを際立たせた演出法でもある。
このような表現方法は熱狂的なファンも獲得するが、前述のような批判を生む。
堀辰雄に対して
大岡昇平は
「きれいなことだけ書く」
「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
「変にセンチメンタルなことを書いてるのは、人の憧れをそそろうという策略」と断じ、
三島由紀夫は
「文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはない」という、表現者にとっては切実な問題を充分理解しつつも、
掘文学を「青年子女にとって詩の代用をなすもの」(大人向けではない)と評するのである。
小説の発表当時だけではなく、むしろ戦後あけすけな堀批判がなされたという事は、大戦を経た社会では、堀辰雄的表現の限界を感じていたのかもしれぬ。それとは別に、あまりにも自己完結された堀文学への羨望にも似た揶揄だったのかもしれぬ。
大岡らの評と、我が友人の本作への否定的な論は、非常によく似ている。
現実をあえて描かない事を、甘えとみるか、作品世界の完成度を上げるための手法と認めるかの、瀬戸際の論なのである。
本作への否定は、宮崎駿やジブリという特異性に対してのものと勘違いされがちだが、堀辰雄的な表現法への批判であり、それはもう何十年も前から行われてきたことなのである。なんら目新しいものではない。
当然、宮崎駿自身も「美しいものを描く」表現法が賛否を呼ぶ事は承知の上だったのであろう。
アクテュアリティーが無いという批判は、宮崎が目指したもの…堀辰雄的世界により近づいているという賞賛でもあるのだ。
堀辰雄を最大のエクスキューズにし、徹底的なアクテュアリティーの放棄をやってのけたとも言えるのである。
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--堀辰雄との相違性に関して--
では、本作と堀文学が全く一緒かというと、そういう訳ではない。それぞれの作家性が当然のごとくある。
その相違を考えていきたい。
...
宮崎駿は堀越二郎という一人の天才を描いたが、
堀辰雄も一人の天才をモデルに用いた。堀の師でもあった芥川龍之介である。芥川をモデルとした人物が『聖家族』『菜穂子』などには出てくる。
天才をモデルにし、作者本人との類似性を提示したという点では一緒なのだが、そのスタート地点が決定的に違う。
映画では、二郎の夢を追う道程を描いた後に、愛する人の死と敗戦という深い喪失が提示される。
堀の小説は逆である。
最初に芥川の死という喪失を提示するのである。
映画のラストから、堀の小説はスタートするのである。
芥川の自死。芥川を理想としていた堀にとっては、どれだけの絶望であったであろうか。その上で、
「(芥川の死は)僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります」とし、物語を紡ぎ始めるのである。
喪失そのものと対峙し新しい価値を与えることが小説の第一義なのだ。
であるがこその「いざ生きめやも」なのである。
宮崎駿は美しき夢を描き、堀辰雄は夢の果てた後の無惨さを美しく転化して描いたのである。
...
ここから先は個人的な所感である。
映画を見た際に、若干ひっかかりを覚えたシーンがあった。
軍部との会議のシーンと、特高警察の登場シーンである。
(これらのシーンに対して史実と違うという批判は無効だ。なぜなら本作がアクチュアリーの排除を前提とした作品だからである。)
他のシーンが圧倒的な美しさに溢れていたのに対し、あまりにも戯画化され過ぎていて、ありきたりな印象しか残さない手垢の付いたシーンであった。宮崎駿の観客をリードしようとするその方向性が、容易に見透かされるのである。
これらのシーンは、個人と全体の対立という非常に重いテーマをはらんでいるのだが、その表現法はあまりに安易だ。
観終わった後しばらく気になっていたのだが、宮崎駿本人がこう述べていた。
「(会議のシーンなどは描きたくないが)やむを得ない時はおもいきってマンガにして」カリカチュア化して描くと。
戯画化され過ぎているのも、宮崎の計算のうちだった訳である。
映画全体のバランスを考えれば、それが正解なのかもしれない。
そう判りつつ、堀辰雄だったらこれらの場面をどう描くのかを、考えてしまう。
堀辰雄だったら
作品全体のバランスが悪くなったとしても、判りやすいカリカチュア化ではない方法をとったのではないか。
もし描ききることが出来ないのであれば、その場面をカットしストーリーそのものを変えてしまったのではないか。
その堀辰雄の潔癖性こそが、純化された作品群を生み出す源であった。
三島由紀夫が「素寒貧」と酷しながらも、「小説を大切に書くこと」を堀から学んだと表する所以は、そこにある。
そして堀から表現に対する実直さをとったら何も残らないのである。
宮崎駿は、堀辰雄よりも遥かに老練な表現者なのかもしれぬ。その手管の豊富さは批判されるべきものではないのであるが、
堀辰雄への共感と同等のものは持ち得ない。
カリカチュアを良しとする老練さは、純化された作品には向かないからである。
宮崎駿がその老練さを捨てた時、真に純化された作品を作った時、
本当の傑作が生まれるのではないか。
もう少し
圧倒的じゃないか、我が否定派は!
賢明なる公国の市民らよ、敢えて言おう パヤオは最早「カス」であると!
あれら軟弱の信者どもが讃える『風』など、かの『天空の城』を抜くことは出来ないと私は断言する。
連邦のステマどもが何と言おうとも、たとえ菜穂子にだけは不覚にも少し萌えてしまおうとも、
Yahoo!映画レビューにおけるあの圧倒的な★1つへの賛同数こそが紛れもない真実の声なのである。
・・
・・
・・
但しネットの中だけだがな、、_| ̄|○
我が戦友たちが、Yahoo!映画でステハンで★1つの一点レビューをどんだけ量産しようが
ステマに成りすまして、一部の右翼団体のようにほめ殺し作戦に打って出ようが
家族連れに成りすまして退屈した子供が走り回り出したと、館内の様子を嘘八百並べ立てようが
友人も同僚も全員つまらないと言っていたとか、マジョリティー・オピニオンのフリをしようが
そんなもんは公開から1ヶ月を過ぎてもなお、ブッチ切りの動員数V5という過酷な現実の前には
まるっきり蟷螂の斧だ、ごまめの歯軋りだ!
コンクリートの壁に生タマゴをぶつけるほどの意味すらもない陳腐なデマゴーグだ。
おまえら揃いも揃って福島○穂か辻○清美かよ!簡単にバレる駄ボラこいてどうすんだよ!
かくの如きいわゆるこすき輩は、行為としても為人としても戦友としても全くもって頼むに足らぬのだが、
もし映画として掛け値無しホンマもんの駄作と言うのであれば、とうに動員ペースなどは落ちているはずなのだ。
5週間変わらぬペースで動員が続いている現実を、本気で敵方のプロパガンダだけに起因出来るのか?
我が軍は圧倒的なはずなのに戦況は日増しに不利になり敵が本土に近づいているのは何故だ⁉
心強くも頼もしかった、精強なる酷評レビューの質もどんどん低下して来た。
曰く、私の金を返せ、内容が薄っぺらい、眠い、中途半端、全く心に響かない、戦争に対する葛藤が無い
煙草、初夜、結核キスシーンは非常に不快、庵野の棒読みマジあり得ない、、まるでクローン培養のような
駄レビューの連続は、ステマの絶対礼賛駄レビューとコインの表裏の如き対称性で、全く没個性の極みだ。
『腹たちぬ』なんてタイトルなんぞは、本人は気が利いてるつもりかなんか知らんが、俺は少なくとも
15回は見かけた。我が戦友たちながら足先まで萎える思いがした。
2ちゃんねるの最底辺ラインの野グソ級コメでも『アレ勃ちぬ』くらいは書いているというのにだ!
全くなんという度し難いモンキー野郎どもなのだ!
もはや我が軍の技倆優秀だったパイロット達は皆ガダルカナルの空に散ってしまったのだ、
撃ちてし止まんと、★1つレビューに一所懸命《役に立ったボタン》を押し続けるのも疲れたしもう飽きた。
ヴェネチアに続いてオスカー賞の前哨戦と言われるトロント映画祭にも
主催者側からの懇請でスペシャル・プレゼンテーション部門に出品決定だと?
これでアカデミーまでノミネートされた日にゃポツダム宣言受諾も同然の惨禍だ。
なぁ歴戦の戦友たちよ、
もういいんだよ。さぁ、ジブリアンチスレの懐かしい仲間たちが24時間待っている、ヤフコメ並みに
あの生暖かくDQNな2ちゃんねるアニメ映画板へと帰還しよう。
ステマなんて、リアルの人間が知りもしない用語使ってる失態にすら気づかなくなった時点で
俺たちは既に敗北の坂を転げ落ちていたのだ。
今はアニメ板に帰って、動員は仮面ライダーにも及ばないのに、レビューだけは常に満点全開の
『劇場版銀魂』でもカルトに称えてマッタリしようや。
俺は六本木ヒルズの7番スクリーンで、土曜日の13時5分の回で観て来た。
9割くらいの入りだった、ガキ連れなんてザッとみても3組くらいだった
午後のいい時間なのにな
圧倒的に高校生以上の奴らしかいなかった、それでもこの大入りぶりだ
途中で席立つヤツなんて一人もいなかった
終わったあとも、沈黙とビミョ~感だけが館内を覆い尽くす沈鬱な空気なんてのはなかった
俺は俺の意見をもっともらしくするために、こんなことで駄ボラを吐くことは出来ん。
俺にとって最強に面白くなかったのは間違いない、ゲドの次くらいに確実につまらん、
何故なら俺の魂は常に「バルスッ!」と叫びたいからだ!
漠とした『風』なんて吹き散らす程に熱い、そんなお前らの熱い「バルス!」の
シュプレヒコールを俺の魂は共にしてると信じていたからだ。
ジブリにおけるインテリジェンスや文藝などは理解し得ても、なお俺には別に全然お呼びじゃないからだ!
しかし、我が否定派が圧倒的だなんてのは、ネット内だけの肥だめのような妄想に過ぎなかったのだ・・
試写会の直後はあれだけ強盛を誇った否定派も、今やパヤオの繰り出してるメタファーも解らないくせに
俺の最も憎む、夜郎自大な賢しらさで罵ってるだけの厨二病ばかりだ、、要するに「知らぬを知る」ことすら
こいつらは理解出来ておらぬのだ
実に無残だ。
感動
腹立ちぬ
駄作。
しかも、何ゆえにこんな子供向けではない内容を夏休みに、しかもジブリを語ってやる必要があるのでしょうか。
何が言いたかったのでしょうか。
あの中途半端にイタリア語で出てくるセリフは何だったのでしょうか。
夢と現実の描き分け、登場人物がそれぞれに登場する意味、場所、時間の移り変わりの描き分け、すべてごちゃごちゃです。
そういう理解しにくいストーリーも、刃のように飛び出たセリフの配置も大勢の子供が見るであろうということを想定に入れていればもっと違った作品になっていたはずです。
自分の周囲の人たち、同僚、またweb上のいろんなレビューを見ていても同じ意見です。
完全に宣伝負けだと。
内容に自信があるなら、あんな取って付けたようにユーミンの曲を使わなくてもオリジナルで勝負できたはずです。
ユーミンの曲のメジャー性を利用しただけじゃないですか。
こんなに内容が薄い映画なのにステマがあちこちのサイトに歯の浮くような高評価、それも同じ内容を投稿しまくるわ、
他人の評価に監視するように張り付いては低評価レビューには上から目線の、『あんたが悪い』と言わんばかりのコメントを書きまくるわ、恥ずかし。。。
こういうの見てるだけで恥ずかしいし、みっともないと思う。
商業消費映画の舞台裏ってこういうことなんだな、って納得。
何より、あそこまで実際の二郎と違った二郎を描いてしまうと、本人に失礼でしょう。
よく『堀越二郎の生涯』などと宣伝文句に入れましたね。
ジブリと言えばもはや社会的立場もありますよ。
子供を連れていった親の責任ですか?
今までのジブリとは異うもの、だけではあまりに言葉足らずすぎて詐欺まがいですよ。
タバコや初夜のシーンや売春婦のシーンなど、注意喚起をもっと広告に織り交ぜるべきだったと思います。
フィクションなのかノンフィクションなのかも、どういう姿勢で作ったのかをきちんと世間に伝えるべきだと思いますね。
実在の人物を扱うのなら。
そのあたりの製作者やプロデューサー側の誠意や配慮がまったく伝わってこず、ただの金儲けに走っただけの非常に残念な映画でした。
お金払ってまで見る価値なし。
メカおたくの本領発揮!これぞ宮崎映画(わかる人なら)
低い評価が多いのに意外ですが•••、
いやー、久しぶりに監督らしい作品です。機械文明のもたらす残酷さ、それを駆使できずに破滅をもたらす人間の愚かさはすでに「未来少年コナン」から始まる巨神兵やらラピュタやらとかで実証済み。
••• 本来、この人、緻密な機械の絵を描く(描きたがる)職人です。機械(あるいは道具、建築)にまだ美しさが残っていたあの時代への強烈な憧憬、それが本作に込められた監督の想いのひとつだとも思います(あるいはそれだけかも笑)。
近年の「無条件に、お年寄りから子供まで楽しめる」自分の作品に、たぶん少し嫌気がさしていたのかもしれませんね(笑 )(お許しください、それでも戦争の生々しい描写や残酷なシーンはいっさい出てきませんので大丈夫!)。
••• 「紅の豚」がロマンとノスタルジアとをテーマにしたほのぼの作なら、本作は飛行機に技術と機能の美しさを追求した男たちの熱いドラマであります。
貧しい日本が、世界に劣っていた日本が、自信にあふれる戦闘機を創り出す夢を見た男のロマン。僕はべつに、反戦映画でも、ラブロマンスでもないと思う。(ごめんなさい)純粋に楽しめた。子供じゃあ、まず無理だろうなあ•••。
••• ちなみに、避暑地にいた変なドイツ人は実在の多国籍スパイをモデルにしているのでご確認してみてください。(不要な情報)
好きです
否定的なレビューが多い事を承知で観に行きました。
冒頭の夢の中の風景が簡略的でポニョっぽかった事、そして二郎の第一声を聞き[あれ?やっぱりハズレだったかな。]と感じつつも観続け..十数分後には作品の世界に深く入り込みました。いつの間にか、という感じです。
二郎の声は、私はキャラクターに合っていたと思います。優しげで朴訥としているけれど、強い信念があるから周りの些細な事には構わないという様な性格がよく現れていました。
内容は、宮崎監督からの[現代の日本を生きる人たちへの応援]に感じられました。
国が貧しくても、政治が上手くいってなくても、将来が見えなくても、財政が厳しくても、夢を見て努力して真剣に人を愛して、[生きねば]。
もっと若い頃に(小学3年生位で)この映画を観られていれば、もっといろいろな事に頑張ったかもしれない..
設計士に限らず、どんな人の人生もピークと終わりがあって。
意識するにしろしないにしろ、20台半ばから30台半ばの10年に最大の成果が得られるとしたら..
無為に半分過ごしてしまった自分を歯痒く思いながら観ました。
若い人に観てほしいです。
最後に..二郎がかっこよかったですよ。
さらっと[学校が本郷の方で]と言ってました。笑
菜穂子も、健気で芯が強く愛に素直で、素敵でした。
2人の関係はまるで文学作品のよう。
[二郎の菜穂子に対する愛情が感じられない]とレビューしている方もいらっしゃいますが、そうは思いません。
菜穂子が喀血した報せを聞き走って会いに行く様、ベッドに横たわる菜穂子に駆け寄る様、図面を引きつつ片手を握る所..
たわいもない会話にも、深い愛情が感じられました。
悲しい別れが待ち受けていても、いるからこそ、一緒にいられる一瞬一瞬を輝かせる2人に憧れました。
僭越ながら、最高傑作です。
言葉で理解する前に、とにかく「感じて」欲しい映画です。
登場するのは・・映画史上最高に、一切、自己弁護しない主人公。
むしろ作者は、彼を否定すには格好の材料を映画全編に散りばめています。
言語的な理解能力に富んだ方は、そっちに目が行って酷評に繋がるのかも知れません。しかし、こんな描き方自体、映画史上類を見ないものです。
彼が多くを語らないのに、本来、目には見えないはずの、風や、ざわめき、わくわく感、ドキドキ感、虚無感、絶望、悲しみ・・私には、それらが目に見えたような気になりました。
どうしても、宮崎さんには時代へのメッセージみたいなものが求められて、「生きねば」という言葉を発せられてますが、この映画にあるのは「生きねば」ではありません。
とてつもない悲しみや、救いようのない空虚を突きつけられても、それでも人を生の衝動に駆り立てる、言葉にならない何か。静かな映画の奥底から、そんなものが迫ってきました。
そもそも、世界的名声が確立した72歳の巨匠が、クリエーターとしての人生を全否定するような要素を持った作品に対して、とてつもない労力で、まるで少年のように大好きな飛行機を描き、初めて大人の男女を描き・・その情熱の源を言葉で説明するのは、ご自身でも無理なのではないでしょうか?
未来少年コナンに夢中になったのが、小学生。中学生で、カリオストロ。高校生で、ナウシカ。ラピュタ。。私も40代のいいオッサンになって・・・まさか72歳のご老人から、こんな贈り物を頂くとは思ってませんでした。
誠に僭越ながら、最高傑作です。
爽やかな風を体全体に浴びたような気分です^^
宮崎駿監督は本当に自分の好きなように、本作を作られたんだなあと感じました。豚は一切出てきませんし(笑)、客を喜ばせようというシーンも全く出てきません。
ただ二郎が、ゼロ戦を作り上げるまでの過程が淡々と描かれているだけです。しかし僕はそんな世界をもっと見ていたかった、爽やかな風をもっと浴びていたかったと思ってしまいました。
本作で描かれる二郎は、監督ご自身の姿だと思います。二郎も監督も非凡な才能を持っておられます。そのために、二人に求められるものというものは大きくならざるを得ない。おそらくそれは、周りがそこまで求めなかったとしても、自分の意識がそれを求めてしまうようなものだと思います。
そんな二人(二郎と監督)には普通の生活を送ることはできません。二郎は菜穂子と一緒に療養所に行きたくても行けません。菜穂子は一緒に療養所に行きたいとはいいません。それはなぜか。もし一緒に行ったとしても、そこにいる二郎は菜穂子が愛した本来の二郎ではなくなるからです。やはり二郎はゼロ戦をつくるしかないんです。それが二郎だからです。
二郎にも葛藤はあるはずです。妻のためにはこれではだめなんだ。しかし自分にはこうすることしかできない。菜穂子の体にとって最善ではないかもしれない。しかし二郎と菜穂子の関係においては、菜穂子に側にいてもらうあの形が最善となってしまうのでしょう。
二郎ほどの人間であっても、やはり一人ではゼロ戦はつくれない。菜穂子が自分を支えてくれたからいい仕事ができた。本作は、監督がご自身の奥さんに向けてつくられた映画なのかもしれませんね^^
劇中に出てくるもの全てが美しいです。人も自然も人口造形物もなにもかもが美しい。潔い。真剣さを隠すレトリックも全くありません。醜さも派手さも全く用意されていません。
僕はスポーツやマラソンを見ているような感じで、本作を見ていた気がします。監督の人生を感じながら、僕はそれに自分の人生を重ね合わせたり、振り返ったりしながら…
妻への感謝の気持ちと、「いろいろあったけど、俺頑張ってきたなあ」そんな気持ちから、監督は涙されたのかなあと思いました。
実際の人生は、映画やドラマのようなシーンはほんの一部分で、それ以外は本当に淡々としていますよね。でも、その淡々とした日常がいいんだよなあ、なんて思ってしまうのですが、日頃はまた忘れているんだろうなあ^^
やはり頑張って何かを成し遂げた喜びというものは、何ものにも代えがたいものがありますよね(*^-^)
儚く切なく色々な事を想う映画…
こんなに悲しい話とは思っていませんでした…
世界で一番早く、美しい飛行機を作りたい、その夢を愚直な思いで成し遂げながらも、それは人を殺める兵器となり、日本人を特攻という自爆行為に導く棺桶になり…思いを裏切る結果の切なさが突き刺さりました。
もう一方で、次郎さんへの思いを遂げて、彼の夢を見届けて最後は身を静かに引く菜穂子さんの純真に心を打たれました。山を自ら降りてくるほど次郎さんと寄り添いたかったのに、彼の邪魔にならないように、成功を見届けて去る…泣きました。
夢を追いそれを叶えることが幸せになるとは限らない、物作りと利害得失の絡んだ仕事の矛盾、本当に人を愛する事の切なさ…沁み入りました。
驚いたのは、これだけ歴史背景がはっきりしている映画なのにそれを感じさせず、戦争という一番インパクトの大きい時代を扱いながらもそれを微塵も感じさせない仕上げ方が、二つの儚さをより強調している様にも思えました。
映像の秀逸さもあいも変わらずで、菜穂子さんの嫁入りシーンはあまりの美しさと厳かさに涙しましたし、震災シーンには震え、ユンカー社の爆撃機のお目見えのシーンには飛行機の美しさにため息しました。
久々に映画館で泣きました…
断言はしないけれども・・・あらゆる点でミスマッチ
渾身の一作
自分には、たまらない2時間6分だった。
あと1時間くらいは、
この世界にひたっていたかった。
監督宮崎駿氏、渾身の一作だ。
宮崎監督、
これを世に問うことができたのなら、
ある意味、もう思い残すことはないのでは。
画面のすみずみにまで心を尽くし、
これまでに蓄積してきた持てる技術と、
これまでに心に思い描いてきたイマジネーションを、
生かしきったのではなかろうか。
脚本、構成、音楽、
どれも揺るぎがない。
賛否両論らしい主人公の声も、
自分には適任としか感じられなかった。
なによりも、
昭和の薫りがどの場面からもただよってくるのがうれしかった。
宮崎監督が昭和初期の映画や残された写真を緻密に入念に研究、観察した上で、
画面に再現していることが伝わってきた。
現代日本人の骨柄、顔つきは当時の方々とは異なってしまっているし、
些細な小道具からは作り物臭さ、にせもの臭さを消すことができず、
衣装にも貼り付けたようなとってつけた感がまとわりついて、
実写ではもうすでに払拭しきれなくなってしまったいま、
それらのことを画面から微塵も感じさせないのは、
アニメーションの持っている特性を生かしたとはいえ、
おそるべき手練としか言いようがない。
そして、
零戦の設計者である堀越二郎と、
堀辰雄の小説世界、
この2つをひとつにするという着眼点、
宮崎監督が表現者として卓越した発想の持ち主であることを如実に示していて、
その創造された世界のなかで、
ある表現者の創作したものに自らの身をゆだねる悦びを、
豊潤に味わったのだった。
自分はジブリのファンというわけではないし、
宮崎監督の信奉者でもない。
監督作品できちんと鑑賞したものは、
「紅の豚」「となりのトトロ」「もののけ姫」
3本に過ぎない。
そんな自分ですら、
絶賛してしまいたくなる映画。
映画にかぎらず、
創造・創作することについては“覚悟”がなによりもたいせつで、
その“覚悟”を君はもっているか?
ぼくの“覚悟”を見ていただこう、
そんな宮崎監督の心の声が聞こえてくる映画。
大人が観ても楽しめる、何を伝えたいのか~色々な想いを込めた作品だと思います。。
期待してはいけない
監督が飛行機マニア?というのを知っている者としては期待していました。
その期待も、公開前のCMを見ているうちに不安へと変わってしまいます。
何度となく放送されたCMを見た限りでは、菜穂子とのラブストーリーなのか?と思わされました。
それならそれで構わないのです。そういうのも嫌いではないので。
いざ劇場で最後まで見た感想は中途半端。
やはり飛行機に対しての想いをこめた描写が多いのです。
じゃああのCMはなんだったんだと思うのですが、菜穂子との絡みは結構短い。
監督は菜穂子との絡みはそれほど描くつもりはなかったのではないでしょうか。
ですが飛行機に重点置き過ぎると商業的な面で危うい。
そこであのCMではないかと。菜穂子との恋を前面に押し出したCMです。
切ない恋模様を描いた作品、と知れば興味をもつ人も増えるでしょう。
正直あの手の話には弱いので涙が出そうにはなりましたが。
声の出演で話題になった庵野さんですが、やはり無理があったと思います。
一番初めのセリフを聞いた瞬間、心の中でずっこけました。すみません。
監督の思惑もあるんでしょうけど、受け入れるのは難しかったです。
最後に、ジブリ映画はほとんど好きです。
「風立ちぬ」も嫌いとは言いませんが好きになるには時間がかかりそうです。
ジブリらしからぬ作品
感動なし!声優は個人の趣味で決めると駄作になりやすい典型的作品。
主人公の同僚の声優が良かっただけに、感情のない主人公のセリフが気になって
夢と現実が分かり難い。唯一、大震災の描写が“らしさ”が出ていたか?
良くもなく、悪くもなく
子供連れが多かったので注意しておきます。若い年代には、心に響く要素が少なく、ただの退屈な映画になる可能性が高いでしょう。
飛躍した認識かもしれませんが、この映画で一種の感慨を得られるのは、宮崎駿自身、つまりは同じような年代、同じような方々ではないかと。
正直ジブリアニメとして作る必要性は無く、残念ながら新鮮味もありません。諸々方向性に疑問を感じます。
この映画は宮崎駿監督の実写映画として撮れたら、印象も違ったかもしれません。
過去最低のジブリ作品へようこそ。
YAHOOのレビューでもそうなんですが、こんなに高評価の多いことに憤りすら感じます。
一体全体、どこからどうみたらこんな高い評価を与えることができるのでしょうか????
とにかくとにかく、つまらな過ぎて呆れて物も言えません、こんな駄作がこのような高い興行成績を得て、高評価を受けるとは、、、、、、もはやジブリは宗教と化しています。ジブリ教の信者達の美辞麗句に惑わされてはいけません、迷っている方がいたら、見に行かないことを強くお勧めいたします。恐ろしいくらいに高い確率で後悔することになりますから。もう一度、言います、高評価を与える方々、あなた達は、本当にそう思っているのですか????? 本当にお勧めできない映画です。堀越二郎の声を聞いた瞬間、必ずやそう思うことでしょう。
「主人公が、どこか客観的に戦争を感じている」ことが、逆にリアルで恐ろしかった
「主人公が、どこか客観的に戦争を感じている」ことが、逆にリアルで恐ろしかった。
他のレビューでも語られている通り、主人公は富裕層のエリートで、かつ飛行機バカで、元々どこか世間とは一線置いたような場所にいる人間だ。
歴史的な出来事である震災も、恐慌も、彼はどこか客観的に見ている節がある。
だが、それを差し引いても、本格的な開戦の前で、更に戦争で連勝を重ねていた当時の日本で、"戦争への危機感"をリアルに感じていた人間なんて、一体どれほどいたのだろうか。
軍からの依頼で兵器を開発していた主人公でさえ、頭の中は"飛行機"と"愛する妻"でいっぱいだった。(新妻が不治の病であったことを考慮すれば当然かもしれないが)
その周囲の人間たちも、多少差はあれど、ごくごく普通に生活を送っていた。
恐ろしい世の中だが、その中で必死に普通の生活を守っているとか、そいういった特別なものが根底にあるわけでもなく、淡々とした普通の生活だ。
思い返すと、震災も、恐慌も、当事者たちはものすごい形相で混乱しているが、それを真横で眺める人々は主人公に限らず、ぽかんとした表情で、どこか客観的見ているように描写されている人物も少なくなかったように思う。
この映画を通して、当時の戦争とは、決して特別な、異常な状況ではなく、普段の生活の中にあっさりと溶け込んでいたのではないかと感じた。
戦争の身近さと、そして、その狂気がすぐそばまで迫ってきている状況であったとしても、自分自身に直接被害が及ばない限り気づけない人間の鈍感さに恐ろしさを感じたので、印象として「怖い」を選択させてもらう。
追記:
戦争の悲惨さを描きたいなら、激戦区に住んでいた方々や、安全な場所に逃げられなかった弱者の方々を描けばいい。
しかし、それをせず、あえて他人事のように戦争を傍観する立場であった主人公を出すのは、当時実在した「そういう人々」への一種の痛烈な批判のようにも感じられる。
ユーミンの歌にもある「今はわからないほかの人にはわからない」
悲惨な戦争の体験をされた人々の見たものも感じたものも、その当事者でなければ「わからない」
これも、現実の戦争の一面なのではないだろうか。
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