「ただのコメディには終わらない傑作映画」世界にひとつのプレイブック キューブさんの映画レビュー(感想・評価)
ただのコメディには終わらない傑作映画
デヴィッド・O・ラッセルは私のお気に入りの監督の1人だ。作った映画の一つ一つが別々のトーンを持っていて(皮肉的な笑いは一緒だが)、毎回違った映画の楽しさを提供してくれる。そして今回も今までとは全く違うのに、素晴らしい時間を過ごすことができた。
この映画に登場する人々はみんな騒々しくて“イカれている”。自分の想像通りにいかないと不満を露にし、挙げ句の果てには大声でがなり立てる。だが大げさで極端な描写かと言うと、そうではない。むしろ自分たちとの共通点を嫌という程見つけられる。つまり「映画的な面白さ」と「リアルな人物描写」が絶妙に合わさっているのだ。これこそがこの映画を忘れがたいものにしている要因だろう。
ではその見事な相乗効果は如何にして生み出されたのか。最も大きいのは役者たちの目を見張るほどのハマり具合、そして巧妙な脚本だろう。
まずは完璧な配役だが、最も評価すべきは躁鬱病のパットを演じたブラッドリー・クーパーだ。彼が登場した瞬間、その目を見るだけでパットがどういった人物なのかが分かる。自分の考える理想郷(つまり元妻と寄りを戻すこと)を再生できると信じて疑わず、その(ある意味で)まっすぐな眼差しは周囲の人間を困惑させる。だが、ひたすら自分のゴールに向けて突っ走るのではなく、自分が問題を抱えていることをある程度認識している点が非常にリアルだ。ただ時折自分のやりたいことができなかったり、元妻のイメージを思い出させる物に直面したときにキレてしまうのだ。自分の感情をコントロールできずに混乱するパットの姿は真に迫る。
パットのダンスパートナーとなるティファニーにはジェニファー・ローレンスが扮しているが、相変わらず魅力的だ。彼女のすごいのはどんな映画であっても完璧にその雰囲気に同化する演技力だろう。とても21歳の女の子が撮影したとは思えない。
ティファニーもまたパットと同じ“キレる人”だ。実はこの点が重要であり、観客がパットとティファニーに共感できる要素となっている。ティファニーは事あるごとに、自分の苛立ちを隠そうともせずに暴言を吐きまくる。だが彼女はパットと違って、“自ら”キレている。いや感情が高ぶって中にあるものを吐き出す点は一緒だが、リミッターがどう外れるかで違うのだ。実際、劇中で多くの人間はそれぞれの方法で押さえきれない感情を吐き出している。そういう意味ではパットと何ら変わりないのだ。だからこそ観客はティファニーを初めとする周囲の人々の存在を通じて、パットに共感することができる。もちろん、「躁鬱ではないがキレやすい」という微妙な性格を演じるには高い演技力が要求される。ジェニファー・ローレンスは見事その要求に応えたと言えるだろう。
だが「世界にひとつのプレイブック」は脇役に至るまで、よく考えて俳優を選んでいる。特筆すべきはロバート・デ・ニーロとジャッキー・ウィーヴァー演じるパットの両親、そして久々のクリス・タッカーだ。
「ラッシュ・アワー3」以来の映画への出演となるクリス・タッカーは、いつものような積極的に笑いを取りにいくキャラクターではなく、ほんのりユーモアを漂わせるだけに押さえている。彼もまたパットと同じく精神病を患っているが、微妙に噛み合ない会話などから、はっきりとそれが分かる。
デ・ニーロとウィーヴァーは文句なしだ。デ・ニーロは最近「役になり切る」というより、「役を“デ・ニーロ”にする」という新たな“デ・ニーロ・アプローチ”を生み出しつつあったが、今回はそれが功を奏した。というより役柄が彼にぴったりなのだ。アメフトの試合に金を賭けて事業の資金にしようとするし、割りかしすぐに暴力沙汰を起こす。彼も“キレる人”なのだ(といっても「グッド・フェローズ」ほどではないが)。
しかし今回の彼が最も素晴らしいのは息子への複雑な思いを体現していることだろう。今まではロクにパットと接していなかったから、躁鬱病になって帰ってきたら余計に困ってしまう。それでもアメフトのげんかつぎを理由に、息子と接点を持とうとする姿はホロリとさせる。若干パットに自分の気持ちを伝えるシーンは唐突な気もする。しかしそれまでの細かい部分にも行き届いた演技が、その経緯に至った理由をしっかりと裏付けている。
ジャッキー・ウィーヴァーはデ・ニーロの陰に隠れてしまい、自分の持ち味を生かし切れていない。だが躁鬱のパットとどう接すれば良いのか戸惑っている母親に成り切っている。唯一と言っても良い落ち着いたキャラクターだから、ストーリーに現実味を加える点でも一役買っている。だが何と言っても、息子への愛情が言葉に出さなくてもはっきりと感じられるたたずまいが称賛に値する。
もちろんこの一見極端な人物たちを一つの話にまとめあげるには見事な脚本が必要だ。監督のラッセルは主演の2人にスポットを当てつつも、中に込められた様々なテーマをきちんと描くことで、ただのコメディには終わらせていない。1つ挙げるとするなら、ダンス大会のエピソードがあっさりしすぎていることか。もちろんこの映画はそれをメインに据えていないが、パットが自らに向き合う点で重要なファクターとなっているのだから、クライマックスとしてもっと感傷的になっても良かったのではないだろうか。
言い忘れていたが、「過去を忘れる」というのもテーマの一つだ。パットとティファニーを決定的に分けるのは、自らの過去を乗り越えられたかどうか、でもある。パットはいつまでも元妻に執着し、ティファニーの心の動きに気づかない。反対にティファニーは夫の死と決別しようとし、ダンスを通じてパットと仲良くなろうとする。この遠回りで何とも言えないもどかしい関係がロマンチックな要素を深めることに貢献している。(もちろん一方的なパットの気持ちもブラッドリー・クーパーの演技あってのことだ)
古めの曲が好きなパットの趣味と合わせたような映画の挿入曲も、それぞれのシーンとマッチしている。主張しすぎず、かつ記憶に残る理想的な曲ばかりだ。これもあってか、映画のシーンそのものも忘れがたい場面が多くあった。完璧すぎるくらいなのに、息苦しさを感じるどころか、すべてが心地良い。
既存のコメディ映画とは一線を画す存在でありながら、しっかり笑えて泣ける。最後のシーンもびっくりするぐらい感動的だ。今年度の映画でも5本の指には入るであろう、紛れもない傑作だ。
(13年3月26日鑑賞)