ゼロ・ダーク・サーティのレビュー・感想・評価
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「社会現象」ではなく「社会問題」を引き起こした映画
CIA局員の活動を描く実話に基づいた作品と言うところだけを取れば「アルゴ」と同じ種類の映画. 証言に基づいたノンフィクションということだったので「アルゴ」のようにCIAの功績をたたえる映画なのかと思ったが,まったく違った. この映画は決して特定の人物に感情移入させるような方向に観客を誘導するような作り方はしておらず,あくまでもCIA局員の女性の様子を中心に事実を淡々と描写することで,ビンラディン殺害作戦という世紀の大捕り物の全貌を明かしていく.とくにクライマックスはスリル満点.作戦の結果は既に知っているのに,思わず見入ってしまう.クライマックスだけでもチケット代の元は取れる そして最後まで作り手の作戦に対する明確な主張が打ち出されることはなかったように思った.それでもビンラディン殺害作戦とは何だったのか,正義とはいったいなんなのかなどなど,見る側に提起された問題は結構多かったように思った.158分と長尺の映画だが,見終わってからも考えることが多く,非常に長時間味わえる映画だった PS.ニュースでは既出の通り,この作品,拷問描写が大きな議論を巻き起こしアメリカ議会でも問題として取り上げられました.当事者へのインタビューに基づく映画であればこそできる,社会に向けた問題提起なのかもしれないとおもいます. 「社会現象」になる映画はすくなからずありますが,作品それ自体が「社会問題」となって議論の的となるような映画は珍しいなぁ.
『アメリカ ケジメに過ぎぬ 砂時計』
9・11テロの首謀者ウサマ・ビンラディンの捕獲を命じられた女性CIA捜査官の執念深い追跡を描いた作品。
あの悲劇に向かい合うアメリカの正義や苦悩を主題にしたアプローチは典型的プロパガンダ映画の一つだが、『ブッシュ』『グリーン・ゾーン』『華氏911』etc.とは極めて異なる位置を発する。
冒頭のアルカイダ捕虜に問答無用の拷問を強いるシーンの時点で、アメリカの正義感・愛国心は既に置き去りと化しているからだ。
多くの犠牲を目の当たりにし、主人公が疲弊していく様は同監督の『ハート・ロッカー』の第二章に通ずる。
現場で実際に血を流す兵士とは違い、本部から指示をする立場としての客観性が、砂まみれの血生臭さを若干和らげてくれるのが、希少な救いの一つかもしれない。
報復行為で仲間をテロに殺されたり、他の事件に追われた国家が作戦の協力を疎かにされる苛立ちがビンラディン追跡への原動力に繋がっていくのは哀しい皮肉である。
そもそもビンラディンを仕留めたからと云っても、世界が平和に戻るワケではない。
喧嘩を仕掛けられ、面目を潰されたアメリカのケジメの一つに過ぎず、虚無感の砂塵にまみれる主人公の気怠い表情が、疲労困憊したアメリカ社会そのもののようで、尚更、後味が重苦しく感じた。
北朝鮮の動向次第で、日本も同じ悲痛の道を辿るのかもしれへんなと思うと、主人公の濁った瞳が
「日本人だって他人ごとではないわよ」と忠告しているような気がして仕方ない。
日本の今を憂いながら、最後に短歌を一首
『イヌ吊し 悪夢も霞む 砂時計 ケジメ射抜けど 見失う的』
by全竜
迫真力に満ちた力作だが、詰まるところは米国のプロパガンダ映画?別視点からの作品も同時に観ることをお薦めします。
こんにちは。
グランマムの試写室情報です。
『ゼロ・ダーク・サーティ』★★
オスカー作品賞ほか、5部門ノミネートされ、最有力候補と言われている本作。
GG 主演女優賞をジェシカ・チャスティンが受賞するなど、多くの映画祭で最高の評価を受けている。
ストーリーについては、多くの皆さんが既にご存知と思うのて、ネタバレも気にせず書いてゆく。その辺、ご容赦願いたい。
9.11の首謀者と目されるオサマ・ビン・ラディン捜索調査に関わったCIA 女性捜査官が、作戦の遂行の中心人物だったという事実。
それを知ったキャスリーン・ビグロー監督と脚本家の『ハート・ロッカー』コンビが、極秘事項だった全貌をサスペンスタッチに仕上げた作品だ。
断っておきますが、政治情勢に関しては疎いし、知識もない、純粋に映画を語りた いがために、記している日記だ。
なので、これから書く内容について、異論反論の向きもあろうが、政治的な反論に関しては、ご容赦願いたい。
冷戦終結後、予算削減されていたCIA が、9.11同時多発テロを機に、復活した。
若い優秀な分析官が登用され、その1人が本作の主人公マヤだ。赴任するなり、捕虜の水責め拷問場面に立ち会うが、あまりの惨さに目を背ける。
ところが、その後、眠らせない、強力な光を当て続ける、爆音で音を聴かせ続ける(注:本作にはないが、ウィンターボトム監督、ドキュメンタリーなどで散見)といった“身体に痕跡を残さない”やり口で、吐かせるのだから、冒頭の目を背ける表情も偽善に映る。
同僚(ジェニファー・イーリー『高慢と偏見』などで好演)たちが、自爆テロの犠牲になり、死んでしまうに至り、執念的に追い始める。
莫大な予算を要したにも関わらず、ビン・ラディンの消息情報すら得られない現状に、CIA はプレッシャーをかける。
人為的ミスにより、要注意人物のリストを見逃す失態を犯すチーム。マヤは、独自調査と無謀とも言える追跡を重ね、潜伏先の邸宅を突き止める。
だが、国からの実行ゴーサインがでない。イライラを隠せないマヤ。ビン・ラディン捕獲作戦の実行部隊は、ネイビーシールズだ。
大統領への直訴が実り、2011.5.1、深夜0時半(ゼロ・ダーク・サーティ)作戦は実行される。レーダーに映らないステルス型戦闘機に乗り込む隊員に、マヤは言う。
「私のために殺して!」
殺す??捕獲作戦じゃないの?殺害作戦だったの?と思いながら観ていくと、屋敷に潜入した隊員たちは、無抵抗な寝間着姿の男女たちをバンバン殺して行く。
目の前で、両親、家族を殺され、恐怖に泣き叫ぶ子どもたち。
ついにビン・ラディンを見つけ出した隊員たちは、躊躇なく撃ちまくる。やはり、殺害作戦だったのだ。
手柄を立てた、と賞賛され、たった1人で専用機を仕立て、帰国するマヤに、笑顔はない…。
プレスシートには、“狂気を孕んだ執念で”と書かれているが、マヤは終始、正気のままだったように映った。
ビン・ラディンを、9.11同時多発テロの首謀者と断定し、作戦を実行した米国。
素朴な疑問として、裁きは国際裁判で司法の手に委ねるのが、本来ではないのか??殺したら真相は分からない。
生きたまま捕獲し、喋られたら困ることでもあるのだろうか??政治に疎い自分でも、この作戦には、素朴に疑問感を持つ。
ハリウッドだから、自国の立場で製作するのは、仕方ない。だが、昔から世論を喚起するほどの批判精神旺盛な米国映画は、どこへ行ったのか??
作品のクォリティーについて、語りたい。
キャスリーン・ビグローは、第一作目の『ニア・ダーク/月夜の出来事』から魅了されていた監督だ。
ヴァンパイアの世界をリリカルに描き、月夜に浮かぶ儚い恋物語を紡ぐ映像美は見事だった。
続く『ブルー・スチール』『ハート・ブルー』『ストレンジ・デイズ』とも、透明感があり、グラマラスな映像で楽しませてくれた。
前作『ハート・ロッカー』でも、冒頭のハイ・スピードカメラには、圧倒的な映像の喚起力があった。
本作では、その豊かな表現力が、いつ観られるのかと期待するも、平凡な映像の連続。
強いて言えばラストの緊迫感溢れる深夜の捕獲作戦場面にみられるが、前述したように、武装していない無抵抗な女の人まで、次々と撃ち殺していくのだ。
上手く撮れていても、気分が良い訳がない!
問題作であることには違いないが、結局のところ、「捕まえた〜!撃った〜!殺した〜!」という単純な闘争本能に訴えるプロパガンダ映画になっているとしか思えない。
本作と、同じくオスカー候補の『アルゴ』しか観ないとすると、観客の世界観は、どうなってしまうのだろう。
様々な視点から、世界を捉えることのできるのが、映画の良さだ。本作を観た人には、同時にマイケル・ウィンターボトム監督作『グァンタナモ 僕たちの見た真実』、そして『スタンダード・オペレーティング・プロシージャー アブグレイブ刑務所の証言』も、観ることをお薦めする。
『グァンタナモ〜』は、パキスタン系の英国人が、アルカイダのテロリストに間違えられ、過酷な拷問を受けた事実を、『スタンダード〜』は、米軍によるイラク人捕虜虐待の真相に迫った力作である。
確かに、9.11は米国にとって衝撃で あり、それを引き起こすテロリ ストへの警戒心があるのは理解できる。
し かし、それが法を適用せずに虐待行為を引き 起こし、首謀者と目した人物を殺害してよいという理由にはならない。
オバマ大統領は、これらの収容所閉鎖を打ち出したが、未だに達成できていない。
私たち日本人にとって、友好関係にある米国だが、エンターテイメントの世界観は、国際的な視野に立って観ることを忘れることなく、オスカーの行方を注視したい。
本作は、2月15日から全国公開されます。
真実と虚構のベール、その向こう側。
心せよ 亡霊を装いて戯れなば 汝 亡霊となるべし ゼロ・ダーク・サーティ。午前0時半を示す軍事用語。それはオサマ・ビンラディン襲撃作戦の決行時刻であり、この映画においても大きなターニングポイントとなる瞬間だ。 映画は闇の中から始まる。スクリーンを覆い尽くす漆黒の闇の中から、あの9月11日に交わされた無線や電話の断片が次々に聞こえては、消えてゆく。悲痛な声、励ます声、瀬戸際のギリギリのエッジを、遺された音声がまざまざと物語る。あの時、たしかに存在した、それぞれの物語、それぞれの感情、それぞれの痛み。 そして、沈黙。 その後に続くアルカイダの容疑者への拷問は、アメリカの執念の実体化であり、尋問を行う担当官は復讐の擬人化だ。 当初、主人公のマヤはその光景に強烈な嫌悪を覚え、目を背ける。「釈放は?」と問いかける彼女の立ち位置は、まるで容疑者の弁護士だ。そう、彼女はビンラディンを追跡する狩人、CIAの精鋭でありながら、この時点では容疑者に同情を覚え、その立場に立って発言しているのだ。 だが、諜報活動の困難さ、さらに苛烈を極めるテロ攻撃にさらされる中、彼女の意識は次第に変貌を遂げてゆく。彼女自身も生命の危険にさらされる中、ついに同僚がテロリストの手にかかる時、なにかが崩壊する。あれほど拷問を嫌悪していた彼女が、正気を疑われるほどに捜査に執念を燃やし、ビンラディンへと繋がるかすかな可能性を死に物狂いで辿ってゆく。アメリカという国家の憎悪、執念、妄執をまるでマヤ一人が全て体現するかのように。 そして映画は、運命のゼロ・ダーク・サーティを迎える…。 関係者への地道な取材を重ねに重ねて練り上げられた脚本は、映画のための脚色を含みながらも、真実のピースをふんだんに盛り込んでいる。驚くべきは、世界にその名を轟かせるCIAの、綱渡り的な危うい諜報手法だ。逮捕した容疑者への徹底した尋問。時には拷問をいとわず、自白させた情報から新たな獲物をあぶり出す。目の前の端役から連絡役へ、よりビンラディンに近い幹部へと繋がる糸を手繰るべく、情報を得ること。当然、嘘もガセネタも混入するし、目の前の苦痛から逃れたいがために事実を歪曲される恐れもある。しかし確たる裏付けのないまま(そんなモノをいちいち取っている余裕はない)、状況証拠や口述の情報をかき集め、ひとりの男を描いたパズルを完成させようとCIAの最前線は盲目的に突進を続ける。そのさまはまるで霧の中を手探りで歩いてゆくかのようだ。 テレビ、新聞、雑誌、さらにインターネットに囲まれ、進化したケータイからは手のひらに世界中の情報が届く現代。あらゆるものが自明のものであるかのように錯覚しがちな社会にあって、しかし諜報の最前線にあったのは、光を求めることも叶わないまま闇を歩き続ける人々の姿だ。なにが正しく、なにが間違っているのか、確かな手応えが存在しない世界。 興味深いのは、この映画もまた、虚構と真実を巧みに織りあげて作られている点だ。たとえば、ビンラディン襲撃の際に用いられたステルス・ヘリは存在するが、そのデザインや性能諸元は現在も公開されていない。似せて作られているが、本物ではない。登場人物達もまた、当然ながら本名は異なるし、実際には遙かに多くのスタッフが諜報活動に携わっている。 緻密な取材という強固な基盤はあっても、全てを知り得ているわけではない。シナリオの隙間を埋めるモノは、やはり虚構だ。映画製作そのものも闇の中を手探りで進行していったのに違いないし、鑑賞する我々もまた、この映画の何が真実でどこが虚構なのか、と疑いながら付き合うことになる。 つまりこの映画は、真実と虚構が作品・制作・観客のあいだに横たわる構造になっているのだ。それはメタフィクションであり、現実とはなにか?という問いに対するひとつの回答でもある。 ゼロ・ダーク・サーティを迎えてから、映画は怒濤の進撃を行う。果たして邸宅の深奥に待ち受けるのは本当にビンラディンなのか?幾重にも重ねられた闇のベールの向こうに見いだされるものは真実なのか。その問いは、作品完成の命題を背負った制作サイドのものであるし、真実を見極めようとする我々のものでもある。 だから、この映画が本当の意味で映画となるのは、実はここからであり、架空のキャラクターであるマヤがその答えを迫られるのもまた、この先にあるのだ。 実は主人公も、実在の人物をモデルとした架空のキャラクターだ。ビンラディンを特定した実在のスタッフは女性だが、名前はマヤではない。その虚構の名「MAYA」はサンスクリット語で「幻影」を意味する。仮の名を託する時、なぜこの名が選ばれたのか。これは単なる偶然なのだろうか?
最高級のノンフィクション
CIA職員がこんなに亡くなっていたとは。知らなかったことがたくさんあり、歴史を知るという意味でも貴重な一本。映画としてもラストに向けてうまく盛り上げて作っている。中東で、よくもこんなロケができるもんだ。
世界が変わって見えてくる
ビンラディン殺害まで何があったのか、それを知るためにこの映画を見る必要がある。テロ首謀者とされるビンラディンを見つけ、殺すことにより、CIA、つまりアメリカは次々と起こるテロ事件を終わらせたかったはずなのだが、それはテロ事件への報復としての「殺害」といった形に見えてしまう。テロを終わらせたいはずがテロ集団への復讐、そしてテロを行う奴らへの憎悪、それは憎しみの連鎖でもあるのではと思わせられる。ぼんやりと知っていたオサマビンラディン殺害事件をこの映画を見ることで、その意味するものについて見る者に様々な感情を引き起こす。テロ首謀者ビンラディン殺した後に見えてくるものは何か?それを観客一人ひとりにつきつけてくる。2度、3度と見たくなる映画ではない。しかし、見た後では自分を取り巻く世界が必ず変わって見えてくるはずである。必見の映画。
報復の連鎖は、いつになったら・・・
911アメリカ同時多発テロ事件が起こったのは、もう11年以上前の2001年だ。
その時の様子から始まる。
音声のみで。
これだけで、緊張感は高まる。
キャスリン・ビグロー監督は、事実の断片をかき集め、証言を検証し、物語を構築されたようだ。
11年以上も前の事なので、私の記憶から抜け落ちていたことも、この作品で再び思い起こされることとなった。
CIAは、人権を無視して捕虜を痛めつけ、証言を得ようとする。
でも、その証言は、信じられるのか??
信じられないのか??
そして、国家の威信とは?!
ビンラディンを追い詰める間にも、ロンドンで同時多発テロが発生した。
また、同僚をテロで亡くした。
マヤのスイッチが入った瞬間だ。
ビンラディンが亡くなったことは知っているので、展開はわかる。
でも、そこへ辿り着くまでの過程が、凄い。
マヤの孤高の執念だ。
感情を表すことが少なく、憔悴しきった様子がよくわかる。
カナリア達も、ステキな軍団だったのですね。
ゼロ・ダーク・サーティとは、アメリカ軍用語で、午前0時30分のこと。
でも、最後にマヤが流す涙は、達成感ではなく喪失感。
やり遂げた嬉しさではなく、悲しさ。
心に残ったのは、どこへ行くともわからない漂流感でしょうか。
この作品が伝えたいのは、復讐の達成ではない。
報復の連鎖から生まれるものは無い。
そのことでしょう。
難を言えば、少し時間が長いので、緊張感が持続しにくく、中だるみがあった。
それも、作品中のCIA現場と同じ空気だったのかもしれないけれど。
テロ戦争の現実を直視
9.11の映像とそれに続く拷問シーンから始まるこの映画は、日本人の我々が知らないテロ戦争の最前線の現実を事実に沿って忠実に再現している。あのオサマ・ビン・ラディンを追い詰めたのがうら若い女性のCIA分析官だという意外感も手伝って、その後の息をつかせぬ展開にぐいぐい引き込まれてゆく。 現実を直視させるその説得力とビグロー監督の手腕に圧倒される。この映画に余計な感想や評論は無用だ。
アメリカの正義
ビンラディンを殺すまでマヤもアメリカも怪物を殺すつもりでいました。
しかし、ビンラディンの死体を見たとき、彼女が執念に取り憑かれ、殺そうとしていたのは1人の人間だったことを認識します。
その時、彼女を襲ったのは虚無感。
この10年間、なんだったんだろう。。
アメリカ人はきっとそう思ったはずです。
重く、衝撃的な映画でした。
迫真を体感。
証言を積み重ねてターゲットに迫る推移をただひたすらに見守る。 リアリティ溢れる緊張感と臨場感を、 混乱に埋没していくような疲労とともに満喫。 達成感ではなく喪失感に満たされるマヤの涙が脳裏に焼き付く。 エンドレスの不毛を直視した硬派に溜め息。
物足りない!
『ビンラディンを追い詰めたのは、ひとりの女性だった』というコピーに惹かれて見た映画。
ビン・ラディンの死については謎に包まれた部分も多く、この映画を見れば、新たな事実が分かるかもしれない。と思い期待に胸を弾ませて見に行きました。
期待外れだったなーというのが正直な感想。
まず、出演者全員の人となりが最初から最後まで殆ど分からない。
CIAを題材にしてるから当然なのかもしれないが、もうちょっと深く切り込んで欲しかった。
そしてもう1つ、ビン・ラディンを殺害するに至った経緯(生け捕りにしなかった経緯)も描いて欲しかった。
とにかく色々と物足りない映画でした。
ただ、主演のジェシカ・チャスティンは素敵でした。
これが創作のCIA映画で色々な表情をもっと見る事が出来たらもう少し魅力が分かったかも。
この映画を見るのであれば、ヒストリーチャンネルの『ビンラディン殺害計画の軌跡』でも見た方が良いかもしれません。
最近新しさが殆どない映画業界、もっと革新的なものを今後期待します。
世界は変わるのか、彼女はどこへ行くのか
最後の突入作戦のところは緊迫感ありすぎて、見終わってグッタリ。もちろん、本物の映画をみたなという疲労感ですが。
どこまで本当なのか……本当だとして主人公の女性分析官も実在の人物なわけで、あの後どうなったのか……いま何を持っているのかと考えてしまうと、なんとも筆舌に尽くしがたい。
最後「どこに行くんだ?」と問われた彼女がなにも答えずに終わるラストシーンが非常に印象的で、余計にそう感じさせられました。緊張は強いられる作品ですけど、終わったあとはむなしさもあったり。
おりしも現実社会ではアルジェリアで人質事件が起こり、あれも結局はアルカイダ系組織の犯行なわけで、ビンラディンを捕まえても世界は簡単には変わらなかった。そう思うと、なんだか主人公の執念の結果がなにをもたらしたのだろうと考えてしまいますね。
主人公がなぜそこまで執念をもってビンラディンを追うのか…その詳しい動機は説明されませんし、マヤという人間のバックボーンも、映画冒頭で赴任してきたときに「若いけど優秀らしい」と言われているくらいしか観客にも情報がない。
でも、そうした余計なドラマが付け加えていられないのが逆にリアルで、彼女は何を思っているのだろう、どうするのだろう…と思って思わず見入ってしまいます。
ビグローの追うもの
アルジェリアの人質事件のように、中東・アフリカの爆弾テロも 他人事だとは考えられないようになってきた。 アメリカ9.11事件に端を発したアメリカと中東アルカイダの暗闘を 描いた作品であるが、なんともやりきれない気分になった。 幕開けは、9.11の被害者の言葉の録音テープだろう。 これで怨念に火をつける。 その犯行の首謀者ビンラディンを追うドラマがはじまる。 追跡劇といってもカッコいいもでは全然ない。 それは拷問であり、情報のだましあいだし、同僚の死である。 それでも、いや、だからこそ追跡するのだろう。 自分が自分でなくなる、訳もわからないまま、ただひたすら追うのだ。 キャサリン・ビグロー監督は前作「ハート・ロッカー」でも、 善悪を問うことはなかった、事実を描いていった。 なるべくその心情も出さないようにしていた。 この作品でも同じだろう。その代わり、より綿密な取材と、 その情報による事実を映像にしていく、積み重ねていく。 正義とはなにか? そんなものは神のみぞ知る。 人間とはこんなに不完全なものであるということを 僕らの目の前に突きつけてられたような気がした。 目的を達成した後、流したエマの涙はなにを意味するのか?
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