許されざる者 : 映画評論・批評
2013年9月10日更新
2013年9月13日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
巧みな翻案で伝説的傑作の再創造に挑んだ骨太な日本映画
本作の元となる映画は、クリント・イーストウッド監督・主演の米アカデミー作品賞受賞作であり、イーストウッドの最高傑作とも評される一作。当然リメイクするにはかなり敷居が高いが、「フラガール 」「悪人」の李相日監督は、どっしりとした骨組みのオリジナル脚本を巧く翻案して伝説的傑作の再創造に挑んだ。
とくに、同じ辺境でも、1880年ワイオミングというオリジナル版の舞台をまったく同じ西暦年である明治時代初期の蝦夷地(北海道)に持って来たのは大成功だ。イーストウッド映画に通奏低音として響きわたる「マイノリティへのやさしい眼差し」まで、アイヌというモチーフを通じて投げかけているのだ。脚本がいいと、やはり映画はおもしろく観られる。
ただ、諸手を挙げて賛辞を送れない理由が2つある。ひとつは、佐藤浩市演じる大石一蔵が小悪党にしか見えないことだ。オリジナル版は“善”と“悪”をはっきりと分けずに、「主人公も保安官も“許されざる者”」として描いていて、リトル・ビル(ジーン・ハックマン)は暴力的な方法で町を牛耳っていた保安官だったが、目的は町の人々の平和を守るためだった。本作では残念ながら大石の「見果てぬ夢」の描写がないので、人間的な深みがなく、彼の暴力性だけが際立ってしまっているのだ。
もうひとつは、主人公・釜田十兵衛がラストで「神話的存在」になっていないことだ。なるほど、渡辺謙はいつも通り、自分の役に高密度なエモーションを注入しているので、浪花節的なカタルシスはある。しかしエピローグにおいて、彼の旅の「動機づけ」を壊してはいまいか。神話的で崇高なはずのストーリーが、オリジナル版同様に観る者を深い余韻へと誘ってくれないのは、本当に惜しい。
それでも笠松則通キャメラマンによる撮影は全編を通じて素晴らしく、IMAXバージョンを観てみたいと思わせるほどだ。これほど映像に力がある骨太な日本映画は滅多にあるもんじゃない。
(サトウムツオ)