僕がはじめて見世物小屋を観たのは、おととしの花園神社だった。口上を語るおばちゃんの粋ないでたち。わずかな隙間から聞こえる、中で行われているいかがわしさ。ついふらふらっと人混みにまぎれて入っていくと、そこは集団トランス状態の異空間。出し物に歓声をあげ、笑い、喝采を送る。そして小屋から出てくると何事もなかったかのように夢から覚める。みごとなエンターテイメントだった。
この映画、今年で10年目の上映。花園神社の酉の市の時期に毎年上映している(たしか)。
全盛の江戸後期安政年間に数百軒もあった見世物小屋は、昭和で40軒、平成には4軒、今ではたったの1軒。それがこの映画にでてくる大寅興行社。
ある程度はタネのある出し物にしても、かつては"かたわもの"を引き取って見世物にしただろうし、目を覆うような過激な出し物もあっただろう。ライバルの小屋を出し抜こうとすればそうなるものだ。「昔、7軒も並んでいた時は緊張感があった」の言葉にうかがえる。映画でも、蛇を食いちぎり生き血を飲み込むシーンが出てくるが、今のご時世、これもそろそろ見納めになろう。だいたいこれを演れる人もいなくなるだろう。そりゃ、どのエンタメも時代とともに隆盛と衰退を繰り返すものだが、ちょっと寂しい。正月以外は年中国内を旅回りする仮設興行稼業。その苦労の対価はおそらく少なく、興行を守りたい一念であろう。おまけに動物虐待やらとやかく騒ぐ連中の多い昨今のこと、おそらくここが辞めれば見世物小屋の火は消える。いろんな人が集まって一緒に生活しながら商売をする旅一座。そのドキュメンタリーとして記録に残した意義は大きい。
落語に「一眼国」という演目がある。興行主が、旅人から聞いた"一つ眼の娘"を捜しに東北へやってくる。巡り合ったその娘を拉致して去ろうとするも、逆に捕まり、お白州の場へ。そこに居並ぶ奉行与力の面々はなんと皆一つ眼だった。そして奉行は言う。「なんだこいつ珍しい、眼が2つあるぞ」と。マイノリティを蔑み、物笑いの種にした。また貧村では口減らしの子供を売った。映画の中に出てくるかつての興行主も「俺ももらわれてきたんだよ」と言っていた。そういう時代は終わろうとしている。僕の観たこの見世物小屋は、時代にあわせた見世物で楽しめたが、それも早晩憂き目を見る日が来るのだろうな。なんとか来年、花園神社でまた観れることを期待して。
この日、初日舞台挨拶で奥谷監督のトーク。
コロナ禍の中、小屋は今年一切なしだという。消滅していくのかと思いきや、若い劇団からやらせてほしいと申し出があるそうだ。ただし、芸を見せたいパフォーマーと、客の回転を調整して売上げをあげる商売人との思惑の違いはあるという。