小泉八雲京日記
解説
日本に帰化した英国人作家・小泉八雲の目を通して、明治の激動期に生きた人間像を描く。主に記録映画・児童劇映画を作っていた八雲プロの佐々木勘一郎監督の第一回長篇劇映画。
日本
ストーリー
明治23年4月に来朝し、松江尋常中学校で英語の教鞭をとっていた英国人ラフカディオ・ハーンは、翌24年2月に旧侍出の娘・小泉節を妻に迎えた。同年5月11日、日本に立ち寄った露国皇太子ニコラスに、警備に当っていた巡査・津田三蔵が斬りかかったいわゆる「大津事件」が起こった。当時、ロシアは日本の十倍近い軍事力を擁していたために全国民は色を失った。そんな時、千葉県出身の畠山勇子という女性が国を救うべく遺書を持って京都府庁の前で自害した。ハーンはこの勇敢な女性に感動し、広く海外にこの事件を報道した。やがてハーンは熊本第五高等学校へ転勤、三年後、神戸にあるクロニクル新聞社の記者となった。そして、日本へ帰化し、小泉八雲と名乗った。明治28年秋、八雲は平安遷都千百年祭がとり行なわれる京都へ足を踏み入れた。八雲は島原で畠山勇子に瓜二つの京女とかかわりあいのある男と知り合いになった。そして、八雲は男から、その京女が、かけおちまでして愛した男を日清戦争によって死なせてしまい、日本へ引きあげてみると家族は数年前の大雨によってこの世にはいなかった、という悲愴な境遇を聞いた。男は島原で初めて客をとろうとしていた京女を連れて来たのだが、八雲と同宿と知って、女を帰そうとすると、女は自尊心が傷つけられたとして怒って部屋を飛び出していった。京女に去られた男は、無性にその女がいとおしくなり後を追った。翌日、八雲は、京女と男の仲むつまじく肩を寄せあう姿を見た。やがて、八雲は畠山勇子の墓のある未慶寺という寺院を訪ねたが、そこでまた、あの男と再会した。八雲は男に勇子との関係をたずねた。彼は、勇子と結婚の約束をしていたのだが、事件の時はハワイに親類の者を訪ねていたため、帰国した時には、彼女は自殺していた。今は彼女ゆかりの京都の土地を訪ねに来たのだった。翌日、ハワイへ帰る男と別れた八雲は、祖母と妹が生きている事を知ってあわてふためいている京女に会った。八雲は女に男の後を追うように説得し、女もやっと男と一緒になる決意をした。八雲は、男を追っていく女の後姿をいつまでも見送っていた。