最後の一兵まで

解説

「スパイ戦線を衝く」と同じくカール・リッターが製作・監督した映画で、一九一八年春のドイツ軍の攻勢作戦“ミヒャエル計劃”を脚色した戯曲を映画化したもの。脚本は監督者リッターが主演者の一人マティア・ヴィーマン及びヒルデブラントと協力して、原戯曲及びハンス・フリッツ・フォン・ツウェールの助言によって執筆した。なお撮影は「スパイ戦線を衝く」のギュンター・アンデルス、音楽は「朝やけ」のヘルバート・ヴィントがそれぞれ担当している。出演者は「魂を失える男」「黒衣の処女」のマチアス・ヴィーマン、「ジャンダーク」のハインリヒ・ゲオルゲを始め、「スパイ戦線を衝く」のヴィリー・ビルゲル、「猫橋」のハンネス・シュテルツァー及びオットー・ヴェルニッケ、パウル・オットー等殆ど男優のみである。

1937年製作/82分/ドイツ
原題:Unternehmen Michael

ストーリー

ドイツは一九一八年の総攻撃によって戦局を一気に決定せんとし、参謀本部は数ケ月に亘って準備を進め、その総攻撃作戦を「ミヒャエル計画」と呼んだ。二月二五日の夕方、ドイツ六十九軍団の歩兵は五日に亘る突撃の後、兵力六割を失いながらイギリス軍の陣地へ肉迫していた。イギリス軍は優勢な兵力を有し、一九一六年に完成した迷宮陣地に拠っていた。ハッセンカンプ少尉の率いる偵察隊は、迷宮前方の集落ボールヴォアルを占領した。午後六時に司令官を始め、ヘゲナウ中佐、参謀リンデン少佐及び、ノアック、フォン・グロートの両大尉からなる司令部が附近に到着した。リンデン少佐の作戦は、明朝六時を期して三十七突撃大隊を先頭に、迷宮への総攻撃を敢行する。それには重砲二門が今夜中に到着しなければならぬ。イギリス軍捕虜の口から、敵は新鋭部隊をもって襲撃を策してる事が判ってるにも拘らず、総司令部の使者として到着したシェルテンベルグ少佐は、重砲は他の方面で必要ゆえ此陣地へは到着しないと告げて去った。リンデン少佐は自ら突撃部隊の指揮を委ねられん事を志願したが、司令官は許可しなかった。夜、三十七突撃大隊が前線へ出発したが間もなく隊長ヒル大尉は重傷を負って後送される。かくて遂にリンデン少佐は突撃大隊の隊長として第一線に立つ事になり、彼は一箇中隊を率いてボールヴォアルに到着した。イギリス軍の戦車隊はこの集落を包囲した。かくてドイツ軍はこの陣地を砲撃すれば、リンデンとその部下まで犠牲に供さねばならぬ。敵の包囲を破ったドイツの戦車が一台、リンデンを脱出させるためこの集落へ這入って来たが、彼は部下と共に飽くまでここへ踏留る事を主張して帰らなかった。間もなく司令部へ少佐から伝書鳩によって報告書が届けられた「ボールヴォアルを砲撃せよ。それによって迷宮陣地は陥る」。少佐は自分達が味方の砲火で粉砕する覚悟を決めたのだ。司令官は涙を飲んでリンデンの作戦通りに命令した。猛烈な激戦が展開され、ドイツ軍の戦況が有利となった時、最後に生残った少尉からリンデンの戦死を告げた伝書鳩が司令部へ到いた。味方はボールヴォアルを過ぎて迷宮へ突進して行く。その陣地も間もなく陥落するであろう。愛する部下を失った司令官は、「我々の価値は勝利の大きさでなく、犠牲の深さによって量られるのだ」と呟くように言うのだった。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

3.5ナチスドイツのプロパガンダ映画の、負の遺産にみる戦争の愚かさ

2020年4月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

強弁な映画だ。ナチスのプロパガンダとして制作されただけに、戦争肯定の確信的立場の意気込みは、戦争の実体を知る由も無い者にも強烈な印象を残す。日本公開の1940年、開戦直前の日本人は、強硬な敵軍攻撃を遂行するドイツ軍司令部や一部隊の犠牲の内容を観て、既に国家総動員法に統制された覚悟や義務、そして責任を再認識せざるを得なかっただろうか。時代の証明としてキネマ旬報ベストテンでは、戦前最後の外国映画の選出で第4位の評価を記録している。真珠湾攻撃直前まで映画上映をしていた状況下でも外国映画は数が限られていたと想像するが、国威発揚や民族主義に偏った内容は別にして、作品の出来としては平均の域を脱していて、決して駄作ではない。当時のナチスが遺した負の遺産としての記録性の価値は充分あると思う。
物語は、第一次世界大戦末期の西部戦線におけるイギリス軍の(迷路)と呼ばれた頑強な陣地に対抗する”ミヒャエル計画”が軸になっている。主人公のひとりは、参謀本部でその計画の策略を練るツァ・リンゲン少佐(マティアス・ヴィーマン)で、彼の命令を受けていた37突撃隊の指揮官が負傷してしまい、急遽代役として念願の前線に送られることになる。司令官(ハインリッヒ・ゲオルク)の反対を押し切っての決断であり、リンゲン少佐の頭脳明晰を高く評価する司令官の葛藤が描かれる。そして、リンゲン少佐率いる37突撃隊は、イギリス軍の先制攻撃に遭い四方を包囲されて身動きが取れなくなる。膠着状態を打破する唯一の方法は、37突撃隊もろとも一気に集中砲火する作戦に追い詰められる。リンゲン少佐は、その作戦に同意して司令官に命令を促す。彼は、軍人として、またドイツ国民として任務の遂行を願い死を覚悟する。司令官は、悲痛な面持ちで作戦命令を出す。作戦は成功しドイツ軍の勝利に終わるが、そこに最期を遂げたリンゲン少佐の知らせが届く。ラスト、司令官は「我々の価値は、犠牲の深さによって計られるのだ」と呟くのだ。この台詞が、この映画のすべてを語っていると云える。
結局は第一次世界大戦に敗北したドイツが再び戦争を引き起こし、その戦意高揚の為に過去の失敗の犠牲を描く暗鬱さが、ただ残るだけなのだが。そこに勝利の予感はない。敗戦の結果を知っているからではなく、映画全体が悲壮感に包まれていて、希望がないからである。思えば、日本軍の大東亜戦争末期も、そのような投げやりな戦略と追い詰められた使命感に包まれていたのではないだろうか。人間の価値を犠牲の深さに当てはめる時点で、戦略として終わっている。それが戦争の愚かさと肝に銘じるべきである。
   1976年 7月8日  フィルムセンター

このカール・リッター監督の演出は、ドイツ映画の特長を持っていて感心したが、同じ年に制作された「誓いの休暇」の方が秀作だった。ソビエト映画のグリゴーリ・チュフライ監督の名作と同じ題名の日本未公開作である。軍部の検閲に引っ掛かりお蔵入りになってしまったが、どうしてももう一度観たい作品にある。主人公プレトリウス少尉の恋人インゲを演じたインゲボルク・テークに会いたい。彼女の美しさに一目惚れした青春時代の淡い記憶が今でも忘れられないでいる。

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Gustav