道(1954)のレビュー・感想・評価
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どうしてこんなに泣けるのだろう?
絶品。
"旅芸人" という、通り過ぎて行った時代の風景(今でいうサーカスや大道芸なんですね)
粗暴な旅芸人ザンノパ、彼に買われて助手となる知的障害の娘ジェルソミーナ、サーカスでピエロを演じる口が達者なマットの話。
「僕は、本を読んだよ。この小石だって、何かの役に立つんだ。(だから君だって、何かの役に立つんだ)」
「この小石が、何の役に立つか? わからないよ。もしそれがわかったら、全知全能だよ」
「でもこの小石が役に立たないなら、何だって役に立たないよ」
「僕はしがらみを持たないように生きるんだ」
ああ、大好きなのに、そのことをうまく言えない人たち...
どうしようもない、どうしようもないんだね...
残念だが、これ以上書けない。涙が止まらないから。すばらしい経験だった。
ザンパノみたいな男嫌だー
見終えて道というタイトルが素晴らしい
人生は道であり、心は波であり
フェリーニの代表作と言われるだけのことはあります。
観ながら、決して美しいわけではないジェルソミーナが、どんどん愛おしく感じてくるのに驚きました。
孤独感と後悔が波のように押し寄せるラストは、映画館だと滲みますね。
「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」で、初めてスクリーン鑑賞できましたが、テレビモニターとは比べ物にならないくらい没入できました。
後悔と孤独の極み
アンソニークイン扮する旅芸人ザンパノは、ジュリエッタマリーナ扮する頭の弱いジェルソミーナを奴隷として雇って旅に出た。しかし、ザンパノは置いてきぼりにするなどジェルソミーナにつらく当たった。ジェルソミーナは、ひとり故郷に帰ると言ってザンパノから別れた。それでもジェルソミーナはザンパノの元へ戻った。乱暴者のザンパノは、けんかの末人を殺め逃げ出した。ジェルソミーナは、現場を見て錯乱し泣いていた。ジェルソミーナが眠り込んだうちにザンパノはジェルソミーナを置いたまま出発していった。ある日、ザンパノは町でジェルソミーナが口ずさんでいた歌を聞いて思わず声をかけた。ジェルソミーナは何も語らず亡くなったそうだ。何とも不思議なふたりの旅だったが、テーマ曲の節回しが妙に残ったね。
文句なしの名作である
西條八十作詞、古賀政男作曲の「サーカスの唄」という歌がある。1933年の発表だから本作品を遡ること21年である。
(一番)
旅のつばくろ淋しかないか
俺も淋しいサーカス暮らし
とんぼがえりで今年の暮れて
知らぬ他国の花を見た
(四番)
朝は朝霧夕べは夜霧
泣いちゃいけないクラリオネット
流れ流れる浮藻の花は
今日も咲きましょあの町で
西條八十(さいじょうやそ)は「東京行進曲」などで知られる、センチメンタルな詩人である。市井の人々の物悲しい人生をときに明るくときに暗く謡いあげる。本作品にも西條の詞のセンチメンタリズムと通じるところがある。
冒頭のシーンから心を敲たれた。娘を大道芸人のザンパノに売った母親が得た当の娘に金を見せて、これでしばらく暮らせるしあんたがいなくなれば口減らしにもなると嬉しそうに話すが、いざ娘が行ってしまう段になると行かないでおくれと縋りつこうとする。この母親が身勝手なのではない。貧乏すぎて心が壊れているのだ。
売られたジェルソミーナはドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵よろしく、従順で欲がない。おまけに少食で、贅沢よりも歌ったり踊ったりが好きな女だ。昔は欲のない人間は馬鹿だと思われていたようだ。日本でも「欲がないのは駄目なことだ」という教育が罷り通っていた。いまだにそうやって教えている教師もいる。欲は文明を発達させ、生活の向上に寄与した、欲がない人間は努力しない人間になり、文明と人類の発展から取り残されるのだと。しかしそこには文明が発展することが本当にいいことなのかという反省はない。
ザンパノは欲の塊である。しかし他人に指図されるのを嫌うから独立した大道芸人で生きている。行きたいところに行き、やりたいことをやって生きる。ジェルソミーナを買ったのは盛り上げ役のピエロがいたほうが稼げるからだ。ザンパノの頭には今日と明日のことはあるが、それ以降のことはない。将来がどうなるかなんて考えても意味がない。
ジェルソミーナはザンパノと対照的に善意の塊で、欲があるとすれば承認欲求だけである。残忍で粗暴なザンパノにさえも認めてもらいたいと願う。それはストックホルム症候群かもしれないが、ストックホルムの銀行強盗事件が起きたのはこの映画よりも19年も後のことだ。人が喜ぶことをしたいジェルソミーナは、同じ意味で人が嫌がることをしたくない。本質的にはザンパノのことが嫌いだ。
人は時間と空間を移動し、出会い、別れる。ささやかな喜びがあり、少しの寂寥がある。人間は愚かだ。人生はつらい。本作品の結末は物悲しいが、世界中の至る所で同じような人々が同じような結末を迎えているだろう。
死にたかったジェルソミーナは死にたいと思わなくなった。それでも何のために生まれてきたのかという疑問は残る。人類すべてに共通する疑問である。他人の死を悲しむことは自分の死を悲しむことだ。死にたい人も死にたくない人も、いずれ死ぬ。自分の死を肯定するためには他人の死を肯定するしかない。
本作品には生も死も善も悪も、すべてひっくるめて肯定するような力強さがある。ときに人混みと熱気に高揚し、ときに寒さと寂しさに顫える。人はそうやって人生をやり過ごすのだ。意味を求めてはいけない。道があれば歩くだけなのだ。文句なしの名作である。
新年あけおめです。今年もいい作品をたくさん見たい。名作の呼び声高い...
メロディが残ります。
久しぶりに見ました。 最後に見たのは数十年前だったので。
何もかもが辛い映画です。
マット、って名前でしたっけ、彼の存在感大きかったですね。
それからザンパノ、ラストで空を見上げてましたね。
どうぞその目に星が映ってますように。
うーん。結末を知っていたからかな。 どうも感情移入的なものが出来な...
小石
名作中の名作
ジェルソミーナは元々は白痴ではないと思う
多分13か14才位の中学生程度の設定ではないか
確かに頭の回転は良く無い方だけども
だからあの程度の知恵なのだと思う
ザンパノにすぐ女にされて、恥じらいながらも性に目覚めて喜ぶさま
ザンパノに愛想がつきたと逃げ出しながら、連れ戻しにきたザンパノを見たときのぶたれながらも嬉しそうにしたがう、なんという名演技!名演出!
白痴となるのはザンパノが殺人を犯してからのこと
彼女の幼い小さな精神のキャパでは 整合できず神経の衰弱していく様の演技もものすごい!
これが終盤の海沿いの村で、村人が何とか世話を施そうとしたのに、本人が生きる意欲を無くして衰弱死していったさまがハッキリとザンパノと観客に伝わるように活きている
ザンパノがそのはなしを聞いてからアイスクリームを買い食いするシーン
あれを撮るフェリーニ監督は神がかってる
あれがなければ渚で泣くシーンが活きてこない
ザンパノもまた彼女をむげにしているようで実は女房として扱っている
それを各シーンで滲み出すようにわからせる演出、それに応えた演技
補強する脇役のセリフ
あいつは吠えることしかできない
本当に凄い映画だと思う
正直フェデリコ・フェリーニはあまり好きではなかったのですが、友人に...
共依存。
感慨深い哀愁漂う映画
ジェルソミーナと何度も呼ぶのに
正直、あんまり好きではない。
理由は推して知るべし。
だから、星が全部はつけられない。
でも、見入ってしまい、ストーリーに引きこまれてしまう感じは超一流。
辛いと思いながらも見続けてしまう。
イタリア映画の悪しき伝統であり、1番の魅力であるから日常に潜みじわじわ迫る悲劇は、ストーリーに欠かせない。
誰のせいでもありゃしない、という言葉もチラチラ浮かぶ。
それはそれとしてザンパノは、ルックスが超好み。私は騙されてもよい。
とっても悲しい
不思議な世界を観終えて、込み上げてくるのは悲しみ以上の何か。
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