エレファント・マン : 映画評論・批評
2020年5月19日更新
2020年7月10日より新宿ピカデリーほかにてロードショー
※ここは「新作映画評論」のページですが、新型コロナウイルスの影響で新作映画の公開が激減してしまったため、「映画.com ALLTIME BEST」に選ばれた作品の映画評論を掲載しております。
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今年40周年を迎えた、妥協なきリンチ映画にして普遍的傑作
デヴィッド・リンチの出世作「エレファント・マン」が、今年で40周年を迎える。実話を元にした本作は一見、ストレートで感動的なドラマとしてこの監督のフィルモグラフィのなかでは異色に映るが、じつはリンチらしさに溢れた作品だ。わたしも今回久々に観直して、あらためてそのことを実感させられた。
記憶ではホラー映画より怖かったエレファント・マンのマスクは、いま観ると、映画が進むにつれ、だんだんチャーミングにすら思えてくる。目が慣れてくるということもあるが、それ以上に、マスクの奥にあるメリックの人間性、純粋さや清らかさに心打たれるからだ。声やジェスチャーなど、フィジカルな名演技を披露したジョン・ハートに負うところも大きい。
母親が妊娠中に野生の象に襲われたことで、極度の変形や頭蓋骨の増殖を帯び、「エレファント・マン」と呼ばれて見世物小屋でこき使われるジョン・メリック。そんな彼の噂を聞きつけ、ロンドンの高名な医者トリーブス(アンソニー・ホプキンス)が研究のために彼を引き取る。病院の特別室をあてがわれ、初めて人間的な生活を送るメリックは、トリーブスを「僕の友だち」と呼ぶようになるが、そんな純真な彼を前にしてトリーブスは、自分も彼を利用する連中と同類ではないかと悩み始める。
モノクロの実験的な映像、夢のシーンにおける怪奇な描写、そして疎外された者に寄り添う視線は、リンチの初監督作「イレイザーヘッド」と共通する。エレファント・マンのごつごつとした皮膚感は、「イレイザーヘッド」に出てくる“おたふく娘”にそっくりだ。リンチは当初、エレファント・マンのマスクを、自身で造ろうとしていたという。だが、生身の俳優に着用させるには技術的スキルを必要としたため、「スター・ウォーズ」などに参加していたクリストファー・タッカーに依頼することになった、というエピソードは、この監督のクリーチャーに対する執着の深さを物語っている。
もっとも、ここで肝心なのはリンチがメリックを、詩的な心を持った人間として描いていることだ。彼が聖書を朗読し、文学を解することを知って、トリーブスは彼を理解する糸口を見つける。
もちろん詩的でなくても、知性に欠けたとしても、人間であることに変わりはない。だが異形のものに対して、恐怖と偏見に捕われ排除しようとする人々の残酷さを、メリックの詩的な魂と対比させることで、リンチは人間の醜い本性を浮き立たせるとともに、映画に詩情をもたらしている。
メリックが部屋でひとりお洒落をして、うきうきと詩を朗読するシーンは、リンチ的な微笑ましいユーモアが漂う。一方、群衆に追いかけられ、公衆トイレに追いつめられて、「僕はエレファント・マンじゃない。人間だ」と叫ぶ場面は、どんな恐怖映画に勝るとも劣らぬ戦慄をもたらす。ハリウッド映画で、よくぞここまで暗く、衝撃的な映画を作りあげたものだと思うが、結果アカデミー賞8部門にノミネートされ、リンチの名は世界に知られることになった。
(佐藤久理子)