海ゆかば(1974)
劇場公開日:1974年10月5日
解説
1941年12月7日日本軍による真珠湾攻撃に端を発した日米の第2次世界大戦の模様をジョン・フォード撮影指揮による米海兵隊指令部が撮影したドキュメント・フィルムを、山田洋造と御法川清一が編集した。音楽は利根常昭が担当。1974年作品。
1974年製作/アメリカ
原題または英題:Remember Pearl Harbor
配給:NCC
劇場公開日:1974年10月5日
ストーリー
1946年夏・・・熱く照りつける真夏の太陽の日々が崩壊した長崎の街にめぐってきた。広島に原爆が投下されたときにはまだ日本は終戦を決定していなかった。だが、長崎に投下され一瞬のうちに24、000余名の命が失われたとき、終戦は決定的となった。飢えと虚脱感の中で、日本国民はなぜに日本が敗れたかを考える余裕すらなく、敗戦の真相を知る者さえいなかった。/1941年12月初頭のホノルル。暗雲が全世界に垂れ込めようとしていたが、アメリカ軍兵士たちは何の不安も恐れもいだかず夕暮れの心良い風にふかれていた。だが、すでにヨーロッパでは独伊機甲軍団が次々と戦場に変えていた。この戦争に参加するアメリカ国民の気運はまだ高まっていなかったが、政治舞台裏では日米のし烈な交渉が行なわれていた。ヨーロッパ、アジアの2大戦場を構えることを避けたいのがアメリカの腹であった。ホノルルの街は当時、アメリカ最大の軍港パールハーバーがあり、水兵たちが休日を楽しんでいた。1941年12月7日朝(日本時間8日未明)/この静かな日曜日アメリカ海軍首脳部たちも楽しい1日を過ごすはずだった。だが、そのもくろみも一瞬のうちに打ちくだかれた。雲間からキラリと光る銀翼がかい間見えたかと思うと爆音がうなりを上げて軍港パールハーバー(真珠湾)に浮かぶ巨大な戦艦群に向かって急降下してきた。統制のとれた編隊飛行の爆撃機の翼に、誰もが信じられぬ思いで日の丸を見た。戦史上、例を見ない日本軍の奇襲攻撃は大成功を納めたかに見えたが、米海軍にとり幸いなことが2つあった。攻撃された軍艦はすべて旧式戦艦群であり空母鑑が無傷で残ったこと、修理用ドックと燃料貯蔵庫が残ったことだった。この日本軍の攻撃によって、アメリカ国民の戦争参加への気運は燃え上がった。時の大統領ルーズベルトは“リメンバー・パールハーバー”をスローガンに立ちあがった。1942年6月5日ミッドウェー洋上。南雲中将率いる機動部隊は、米機動部隊に先制攻撃をしかけるために108機の功撃隊を発進させた。一方、この日本軍の動静を暗号でキャッチしたニミッツ元帥は空母エンタープライズ他2鑑から雷撃攻撃隊を発進させた。正面攻撃で空中戦が始まったが、しかし、戦力の違いは明確だった。この戦いを機に、着実に米軍の反撃は開始されだし、日本軍の広大にのびきっている太平洋上の攻略の島々分断を開始した。1942年末。小さな島々の日本の飛行場を破壊してゆく米軍はニューギニヤ、ガダルカナルを奪回した。レイテ沖決戦/連合艦隊壊滅。サイパン、グァム島で敗走を続けていた日本軍はレイテ沖決戦に最後の勝負をかけた。日本軍に残された道は艦隊も特攻、飛行機も特攻とまさに一身を捨てて死ぬことしかなかった。だがそれも空しく、戦いは米国の圧倒的な勝利に終わった。しかし兵士たちの精神的動揺は激しいものがあった。これは物的勝利の米軍首脳部にとってこれからの戦闘に嫌な材料として残った。崩壊してゆく日本軍を追いつめるべく米機動部隊はまた艦首を次の戦場に向ける。海に消えてゆく戦友たち、損傷機をふり返る余裕すらなく兵士たちは戦場がある限り、闘い続けねばならない。祖国というもののために若者たちは戦場へ向かってゆくのだ。
スタッフ・キャスト
- 撮影総指揮
- ジョン・フォード