そして父になるのレビュー・感想・評価
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父親になってからもう1回みる
鑑賞後、何も言えない完璧な映画だと思いました。僕なりの答えをしばらく考えましたが、それでも答えが出ませんでした。自分がもし小学1年生の父親でこの映画を見たら、トラウマになるだろうなっと思いました。脚本のつくり、特に双方の家族の社会におけるディティールなんかは演出もプラスされて、すごいなぁと思いました。子供の演技は今までの作品から比べると少し芝居臭いところがあったと思いました。
子供と暮らしたい
福山がとにかく嫌な男で実子が家に戻されるのが可哀想で仕方がなかった。あんな暗くて楽しくない家で暮らしていたら精神を病んでしまうんじゃないかと心配だった。
この物語で一番の解決方法は福山一家がリリーさんの家の近所に引っ越すことだと思う。リリーさんが子供と戯れる様子は、心底楽しそうで幸福の極みを描いていると思う。
オレは子供が欲しいと願っているのだが、実際子供と暮らした場合、自分が福山的に子供につらく当たってしまうのではないかという不安が強くある。そういう意味で怖くなった。
良いドラマ
夫婦で鑑賞しましたが、前評判で期待が大きすぎたせいか特に感動なし。
妻は横で涙・涙・涙でしたが、男の私には予想通りの当り前な展開でした。
あの様な状況なら誰でもあんな状態になるでしょう。
それを普通に表現されていた映画。
普通のテレビドラマと変わらない感じ。
普通の展開で、中途半端な終わり方。
最後に出演者名がスクリーンに出ますが、
普通は、そこで退館すり人が多いのに、
この映画は、そんな人が少なかったです。
感動したと言うより、終わり方が中途半端なので、
その後にまだ何かあると思った人が多かったからだと思います。
それでも何もなく終わったので、皆さんは普通に退館していました。
子の心親知らず
いつも思うのだが、是枝監督って子どもの演出を一体どう付けてるんだろ?
オトナの役者さん達も自然体の演技で魅せるが、
子役の演技はまるで“演技”を撮っていないみたい。
親に向かってぽつぽつと話す会話のリアルな感じとか、
「なんで? なんで?」と冗談めかした言い方で不安をごまかす所とか、
子どもの演技のリアルさ(あるいは切り取り方)に舌を巻いた。
ハリウッドリメイクが企画されているという本作だが、
もしアメリカの方が演技レベルの高い子役が多いとしても
この子どもの“生っぽさ“を演出するのは至難の業だと思う。
小物や細かな仕草での表現も見事。
連弾に重なる包丁のリズム。噛み潰したストロー。
優しいウィンク。壊れたロボット。手形のメダル。ちぎれた造花。
一見なんでも無さそうなものが感情を激しく揺さぶる。
役者さん達の自然な演技、ドキュメンタリックな撮り方、
細やかな感情表現の演出など、是枝監督作品に特有の
リアルで繊細な雰囲気は相変わらず素晴らしい。
ただ、この自然な空気と遊離しているとも思えるのが、人物設定。
演じた福山雅治本人も「野々宮は少し極端な例」と語っていたが、
妻とも子どもとも常に一定の距離で接するこの感じは
なかなか親近感を抱きづらい……高給取りという点も含めて。
後半その性格の要因は登場するし、これはそんな彼の成長を
描いた物語でもある訳ではあるが……。
そして、リリー・フランキー演じるもう1人の父親・斉木。
素敵な役なのだが、やや理想的“過ぎる”父親像だったと思う。
野々宮と対比させる為のキャラとして『配置』されたという作為
が感じられ、そこが映画の自然な空気にそぐわないように感じた。
(野々宮と同じように、我が子に対する戸惑いや苛立ちを
多少描いた方が、もっと現実味が出たのではと思う)
また本作は、野々宮が『自分はケイタの父親だ』と
自覚するまでの物語としては完成されていると思うが、
その周辺の人々の物語にはやや消化不良な想いが残る。
特に最後、自分を棄てた親が数ヶ月経って突然「さあ帰ろう」
と訪ねて来ても、子ども側は納得できるのだろうか?
当然ケイタは家を飛び出し、主人公が彼を追いかける訳だが、
子どもを傷付けた事に対する謝罪の言葉は最後まで無い。
『あの子はまだ釈然としない気持ちを抱えたままだろうか。
父親は勝手に“赦された”などと解釈していないだろうか。』
そんな考えが頭をよぎって、子どもを抱き締めた
父親が微笑む姿に、素直に喜びきれなかった。
とまあ、相変わらずグチっぽいレビューで申し訳ない(笑)。
そういった不満点を含めても4.0判定!と見ていただきたい。
何をもって親子は親子になるのか?
それは親が一方的に決められる事なのか?
その答えのひとつを発見するまでの葛藤の、驚くべき繊細さ。
細かなシーンや表情のひとつひとつが静かに心を揺さぶる。
終盤、子どもが撮った写真を発見するシーンに泣いた。
子どもも親も、『自分は親に/子に愛されているんだ』
という実感を得た時に、初めて親子になれるのかもしれない。
以上、好評も納得の良作だったと思います。
ところで、この前の週に『凶悪』を観たばかりだったので、
リリー・フランキーとピエール瀧が法廷の場面で
一緒に登場した時はちょっと動悸が早くなった(笑)。
〈2013.9.21鑑賞〉
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追記:
病院関係者が言っていた「こういうケースではほぼ100%交換が
選択される」というのは本当なのかしら。子どもの気持ちを
考えると、逆の選択だってもっとあっても良いと思うのに。
結局は親の気持ち優先なのかねえ。
それにしてもあの病院側の対応のお役所仕事っぷり……
ムカムカしましたよぃと。
さすがの是枝クオリティ
「横道世之介」が今年のダントツと思っていたところに、大人の貫禄が登場。とはいえもう是枝監督の新作はネタを聞くだけでドキドキ感はまったくないので正直観るかどうか迷ったけど、観れば観たで破綻のない堂々とした映画でした。淡い色、淡い音楽、力を抜いた芝居、こどもたちの自然な振る舞い、、、
いなくなった子供の痕跡、それは死んだ人のようで、幽霊のようで、そこが泣き所ということもしっかり理解されている。あと淡くはあるが、両夫婦のここまでかというコントラスト。福山一家のザ・東京ハイセンスの描き方が画一的ではあるけど、こういう東京の表情をしっかり描く映画は東宝デート映画などでは鼻くそ程も期待できないので、まあ、観てよかったな、と。熟練すぎてなんかつまらなくはあるが……
ちょっと残念・・・。
妻と一緒にこの映画を鑑賞しました。妻は感動したらしいです。(女性が観るのと男性が観るのでは感じ方が違うかもしれませんね。)
なんだか、細かいところが端折られていて、「えっ、何でそこはそうなるの?」というところが何箇所もありました。気になりだしたら考え込むたちなので、最後まで映画を楽しむことができませんでした。
素人にはわからない、是枝監督の演出が隠されているのでしょうね。それにしても、端折りすぎです。もう少し、納得したかった。
徹底的に考え抜くこと。
今は亡き、ギリシアの映画監督、テオ・アンゲロプロスが、いい映画を作るにはどうしたらいいか、との問いに、「徹底的に考え抜くことだ」と云い切っています。この映画を観終わってから、このことばを思い出しました。
突然、現れる、裁判の場面がありました。そのなかで、女性看護師が妬みから、わざと子供を交換したと告白しています。エリートサラリーマンの福山雅治の幸せそうな家庭を妬んだらしいのですが、いかんせん、唐突すぎます。もう一方の被害者であったリリー・フランキーに対して、この看護師がどのような気持ちを持っていたのかは一切、語られていませんでした。それから、尾野真千子の出身地が群馬県でリリー・フランキー一家も群馬在住ということでしたが、リリー・フランキ―一家のことばには、どこか関西弁の匂いがしました。リリー・フランキーも真木よう子も関西出身で途中から群馬に移住したのでしょうか。よく判りません。最後になって、福山雅治が息子が撮っていた写真を見て、涙し、腹を固める場面がありますが、あれしきのことで、一度、決めたことが根本から崩れるのでしょうか。私には疑問です。また、リリー・フランキ―が育てた子供が事あるごとに「オ―・マイ・ガ―」(oh my God と云う事なのでしょう)を連発していましたが、今の日本でそんなことを云う子供はまず、いないでしょう。インターナショナルスクールにでも行っている設定だったのでしょうか。大きな違和感を感じました。
テーマ、役者と、いい素材がそろっていただけに、散見される破綻した箇所には失望しました。前述のように脚本にかなりの難があるのです。詰めが甘いのです。そうは云っても、一見の価値はある映画です。これから、観に行こうと考えている方は、全国共通鑑賞券1300円をお求めになってから行かれた方が良いかと思われます。当日券1700円では、ちょっと高いかな。
なんだかなあ
この映画のような事態が実際に起こったとしても、ちょっとこの映画のような展開を辿るとは考え難い。
こういう法的にも微妙な問題を含み、かつ弁護士もそれなりに重要なポジションも与えられているストーリーであれば、リーガル面をあんまりおろそかにされると全体的なリアリティを大いに損ねることにもなる。
この映画ではその辺のリアリティが露ほども感じられなかったのは残念であった。
こういったケースに巻き込まれた場合、まず病院側から一定の慰謝料を提示したうえで、被害者側もそういった金銭面での補償も支えにしながら、家族をどう建て直していくかが焦点となる。そもそもリリー・フランキーなどのっけのシーンからどれだけ搾り取れるかに、並々ならぬ関心を抱いていたではないか。また、福山が二人共引き取れないか?などと考えたのもその辺の補償を差し出すことなども想定されていてしかるべきであるが、映画ではそういったサイドストーリーは全く眼中に入れられていない。
ところがそれにもかかわらず、映画中盤で唐突に裁判所でのシーンが描かれる。これはストーリー上重要なシーンではあるが、そもそもこの裁判がなんの目的で、何を裁くために行われたのか、観客にはさっぱりわからない。
通常この手の裁判が開かれるのは病院側と被害者側で条件面での折り合いがつかず、紛糾した場合であろうが、そもそも条件面でどう、といった交渉などそれまで映画のどこにも登場していないし、単に病院側から事件の原因がわかったので当事者から説明させることを企図しているのなら、わざわざ裁判所で行う必要はまったくない。(当然刑事事件としては時効が成立しているということなので、検察から起訴されて、ということでもないだろう)
そもそもこの映画の制作スタッフは裁判には刑事と民事があるということすらわかっているのかどうか。
いかに刑事事件としては時効だろうが、民事消滅時効は損害発生が認識されて初めて起算されるため、本件では絶対に時効が成立ということはなく、故意に赤ん坊の取り違えを行った看護師は莫大な慰謝料を請求されて然るべきであるが、そのへんも全くスルーである。
ラスト近くで福山がくだんの看護師を訪うある程度重要なシーンがあるが、その点を考慮すると、あんなものは茶番にすらならないのではと思われる。
ミステリー小説ではないので、そこまでの検証が必要かと思われる方も多いとは思うが、やはり最低限のところは押さえておいてもらわないと、人によっては安心してみることができない、ということも少しで良いから制作者側にはご理解いただきたいものである。
小学1年生の父親です
これだけ、映画を見終わった後に考えて、話して、思い返したい映画に出会ったことはありません。アクション映画の見終わった爽快感、喜劇の見終わった後など、この映画は全く違う後味を自分に残しました。出演者一人一人の簡単な紹介で、この人生ドラマは鑑賞した人にとてつもない問題提起をしてくれました。本当に出会えて良かったと思う映画です。
血か過ごした時間か、それとも子供の意思か…見た人それぞれ考えさせられる
見たかった映画である。
カンヌで賞を穫ったからではなく、是枝監督の次回作が決まった時から心待ちにしていた。
子供の取り違え。
お昼のドロドロ愛憎劇で展開しそうな題材を、ここまでの作品に昇華させたのは、何より是枝演出に尽きる。
淡々と描きながらも、役者たちの感情を丁寧にすくい上げ、見る者の心を揺さぶる。
子供にもドライに接し、冷淡で嫌みすら感じる勝ち組エリート。その一方で苦悩し、不器用な父の愛を感じさせる。スーパー人気者で近寄りがたいオーラを出しつつも、良い人柄が伝わってくる福山雅治の雰囲気が巧く活かされ、この役に合っていたと思う。
リリー・フランキーは全く対称的な父親像を演じ、見る者に理想的な父親像とは?…と問い掛ける美味しい役所。「凶悪」での演技も評判のようで、年末、多くの賞を手にする事だろう。
真木よう子の肝っ玉母さんもイイが、印象に残ったのは、尾野真千子。良妻賢母故の悲しみと夫への不信感を募らせる抑えた演技は出色だった。
そして今回も是枝演出は、子供たちから自然な姿を引き出している。特に慶多少年の無垢な瞳は忘れられない。
こういう事例は戦後には稀にあったそうだが、現在も全く無いと言い切れないらしい。
その場合、100%交換すると言う。
まだ子供が居ない自分からしてみれば、血か過ごした時間か、どっちが大事かなんて無責任な事は言えない。
実の親子の繋がりは深い。しかし、血の繋がりの無い親子の関係だって深い。実の親子以上の時だってある。よく映画でも描かれる。
共に過ごした時間は尊い。とは言え、やはり同じ血を分けた子。その血に熱く強いものを感じてしまう筈。
ならば、子供の意思は? 子供はどちらを望み、子供にとってどちらが幸せなのか。
一番大事なのは子供の意思ではないのか。例えそれが、当事者の親にとって悲しく、いたたまれないものになっても。子供の将来を思うなら。
明確な答えなど無い。見た人それぞれ思いを馳せ、考えさせられる、良き映画だった。
最後に…
本作はハリウッドでのリメイクが決まった。
わざわざリメイクする必要があるのだろうか。
関係者はリメイクに喜んでいるようだが、本当に名誉なのはオリジナルのまま公開される事。
関係者はもっと自分たちの作品に自信を持って欲しい。充分、世界に通用する映画なのだから。
是枝監督らしい作品
是枝監督らしく、あまりエンターテイメント部分はなく。
あくまで自然で淡々とした描写をメインに移す作品という印象。
役者さん達の演技や子供の動きや言葉の自然さ。
そういうものは「誰も知らない」と同様で造られた世界の中にある
妙な自然さというものが突如現れると、何かハっとさせられます。
そのハッとさせられた瞬間に、親の目線でも、子供の目線でも、
現実的に彼らの心理を感じとってしまうのでしょうね。
親の辛さも、子供の辛さも、正直にいってしまうと、
この作品というのは「他人が答えを出せない」作品であって、
この家族がどう乗り越えていくかを考える作品なのだと思います。
…っと言っておきながらも、やっぱりあの結論には疑問符がorz
コンセプトとしては主人公の福山がこの事件を通して
父親とは何か「父親の自覚」を認識していく話なのだとは思います。
ですが取り違えの場合病院側の主張では「最終的には100%交換を行う」
という話が出てきていると思うのですが、最終的に彼らが選んだ道は
交換を行わないという選択なわけですよね…。
監督の考える「父親の自覚」と「結末」というものに対して、
現実的に苦悩し考え抜いた親たちが出す結論は「交換」なわけです。
もちろん観客は取り違えなんて経験をしたこともないでしょうし、
お子さんのいない観客も沢山いらっしゃると思います。
あの結末というのはようは無責任な観客であれば、
誰でも「これがベストだろう」っと思ってしまう結末ですし、
子供二人の育った環境が違いすぎるのですから、
小学生の時期に親の教育の指針も考え方も違う家に放り込まれて、
子供がその状況に適応できるとも到底思えません…。
誰もが「二つの家族を持って幸せに生きればいいではないか?」
「他人で一体なんの問題があるんだ?」っと思ってしまうわけです。
個人的にも何をそんなに悩む必要があるんだ?っと疑問でした…。
でも現実にその問題にあった当事者達はその問題に苦悩するわけです。
主人公の言うように相手の親にどんどん似ていく息子に対して、
本当に愛情を注ぎ続けれるのかと疑問にも思い、
悩みに悩みぬいて「交換」という道を選んでいますし、
過去の事例から「両者の家族の交流は不幸な結末を生む」っと
病院側も結論付けているはずなのですから、
この結末はある意味では今までの取り違えの行われた家族に対して、
大きな疑問を残す形で終ってしまっている。
彼らが何を考え、何を思い詰めそしてその結論に至ったのか、
本来焦点を当てるべき、その部分がまったくもって不明確なため
視聴者がまったく「共感」できない状況に陥ってしまっている。
そういう意味では主題に対しては本当に残念な出来でしたorz
もうひとつマイナスなのは主人公の人間像。
もう始まった瞬間に「ねぇよ」っと思ってしまうような、
なんだか絵にかいたような超一流人間。
高層マンションに住み、一流企業に務め、高級車を乗り回し、
子供に英才教育を施し、イケメンで仕事一筋。
その反面、人の心を理解できないような言動や、
どこか人間味のない人物像。っというか人格破綻してますよね…。
そしてそれを演じるのが福山雅治が…。
う~ん、なんか福山雅治にしか見えない。
でも兄弟はそんなでもなさそうだし、父親もどこか抜けた感じ。
いくら母親が再婚相手とはいえ、どうして彼のような人間が育ったのか。
そういう意味でいうと主人公の後ろにあったギター。
あの辺りの説明も微妙にほしいところorz
あと気になるのは主人公の例の一言に対する妻の反応。
夫婦の感覚なのでとてもわからない面はありますが、
傍から見ていたら「深読みしすぎじゃないの?」とは思ってしまった。
個人的にも、あの一言は凄く耳に残っていたのですが、
それ以前に病院側から「同じ時期に生まれた男子は3人」
「実際に間違っているかはDNA鑑定を待たないと」という言葉がある。
そう考えると、その状況に対してその一言が出てしまって、
その対象が「子供」であるのか?っと言う点に関しては
正直微妙に疑問が残る…だって主人公の家族はあれですし、
嫁さんの家族もあれなんですし…。
「自分に似てない」という点をどこまで主人公が考えているか、
その辺りってかなり微妙な気がするのですorz
色々と疑問の残る点は多いのですが、
でもそれは視聴者側の疑問であって、
「家族」というのは当事者にしかわからない。
その最強の盾がある時点で、我々は監督の考える
「家族」と「取り違え問題」に対する考察に、
答えを見出していくしかないわけですが(^^;
映画らしいドラマやエンターテイメントを求める方には
正直退屈な作品かもしれないですね(^^;
最後に夏八木勲さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
生物学的親子ではない
「親と子の関係はいくつになっても変わらない」という。関係は変わらないとしても、親からみた子と子からみた親は、とくに子からみた親は変化するだろう。「兄弟(姉妹)は他人のはじまり」という。これも上からみた下と下からみた上は違うだろう。兄弟(姉妹)はいればウザイがいないよりはいた方がいいかもしれない。斉木琉晴は3人兄弟(弟妹)で奔放に育った。それが、高級マンションの中で厳格なうえに一緒に遊んでくれない父と、まだ琉晴との生活に慣れない母と暮らすのはキツイ。野々宮慶多は兄弟(弟妹)がいるだけ気がまぎれるのではないだろうか。実の親と育ての親がいるというのは特異なことではない。ふたつの家族がこれからも幸せな交流をしていくことはできないのだろうか。
泣いてしまった
ストーリー自体は単純なのですが、すごく深い映画だと思います。福山雅治夫婦、リリー・フランキー夫婦、交換された子供たちの感情に共感してしまい自然に涙が溢れてきました。久しぶりに良い映画を見た気がしました。
”やっぱり”という状況咀嚼
”やっぱり”(だったと思うあの時のセリフはたしか)というあのセリフの一言で主人公が状況をかみくだいたのだ、(そうなんじゃないかと思ってたんだ)と思うことで自分におきた一種ありえないことをとりあえず”やっぱり”ということにしてしまう。つまり、なんでそんなことが、おきてはいけないことが、自分の身におきてしまったんだという心の動揺をまとっていたシャツみたいなものを脱いだかのような、その一言でぜんぶ片づけてしまいたい、という意思のようなものを勝手に思った。
断片的に残る印象をあげてみると、家族のカテゴライズにかかせない(たまご)、つたないピアノ、いつまでたってもうまくならないピアノ、3年かかっても同じ曲ばかりひく近所のピアノ、弁護士の友達が(好きになっちゃいそう)と言ったあと、(いったい誰から愛されたいのかな)というあのセリフ。これを強調させるため(好きになっちゃいそう)と、ちょっと同性愛っぽいおふざけみたいなセリフが前ふりにあったので愛されたい、というキーワードにきがついた。結末として、取り違えしたけどそのまま家族として暮らす、のなら、結果として主人公の子供からみると、(本当の両親じゃない二人)に育てられることになる。どっちに転がっても繰り返される運命の皮肉。あんな父親になるもんか、あんな母親認めるもんか、と思いながら敬語で壁をつくる。そしてそれを自分の実の子にみとめて動揺する。血のつながった親子のはずなのに、琉晴の中に本当の自分が客観的に浮かび上がってくる。自分の理想の子供は慶多、こういう子供時代でありたかった、しっかりした両親のもとでしっかりした教育をうけていきたかった。しかし血のつながった子供は自分そっくり。そして恐れる。大人になった実の子は、はたして自分が実の父にした(それ)と同じことをするのかと。
まだある、まだなにかこの映画で私もまた気が付かなかったこの自分の感情に出会いたい。これはなんなのか知りたい。言葉で世界にあらわしたい。しかし現時点で知っている言葉のすべて使っても(それ)にたどりつかない。
この映画の空気にもぐりこんでみればわかる。
期待し過ぎていけなかったかも?
主役の福山雅治の演技がイマイチで感情移入までいけなかった。リリーフランキーと子役のあんな言葉やこんな言葉には心揺さぶられるシーンは盛りだくさんだったのに、惜しい!作品は良かったんですけどね。親は子供に親にしてもらうもんなんだな、と痛感させられる作品でした。
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