事実は小説より奇なり、という言葉がぴったりな聴覚障害を持つ児童への虐待暴行事件。これをあえて劇映画にする意味は何なのだろうか。そう考えながら、本作品を観始めた。冒頭であっけなく露見する、背筋の凍るような悪事の数々と底知れぬ腐敗。それらを明るみに出し、罰すべき罪とする。そんな一見当たり前のことが、実はどんなに困難であるかが、物語が進むほどに明らかになっていく。冒頭の衝撃は、序章でしかなかったのだ。閉塞した地方のしがらみ、慣例主義、金と権力に物を言わせた隠蔽体質。ハリウッドではお馴染みの法廷劇も、最後の最後で思いもよらぬ展開となり、あっけにとられ、脱力した。
邦題のサブタイトルどおり、子どもたちの瞳の力は言うまでもない。その一方で、幾度となく挿入される、俯瞰の視線が印象的だ。天から見下ろした下界、神の目とするには低すぎる。一人ひとりの顔は判別できないけれど、そこに誰かがいる、動き回っている、と分かる高さ。それは、下界を生きる私たちが、時に持つべき視点ではないか、と感じた。少し高いところから全体を見渡すことは、はっとするような気付きを生む。そして、小さく見える彼や彼女の様子に目を凝らし、表情の奥の心情を思いやることは、他者一人ひとりへの想像力をかき立ててくれるはずだ。
重くやり場のない感情が膨らむ中、清涼剤となってくれたのは、主人公の母親。韓国映画では常連のお母さん俳優が演じていた(失礼ながら、名前は存じ上げず…)。ちりちりパンチパーマ、もこもこの重ね着、スカーフぐるぐる巻き、の垢抜けないオバさんファッション。そんな彼女の飾り気のない立ち居振舞いは、主人公のみならず、観る者にも、確かな温もりとささやかな勇気を与えてくれた。「世界を変えようとするのではなく、変わりゆく世界の中で私たちが変わらない」という言葉を体現するかのような彼女の存在は、霧の中のほのかな灯りのようで忘れ難い。
本作は、エンドロールまで終わらない。直前と直後に、実際の事件の後日譚が日本語字幕のみで示される。これは、訳ではない。つまり、韓国では衆知の事実なのだろう。小さな町の事件と、そこから生まれた物語が、国を動かし、たくさんの人の記憶に刻み込まれている。映画の本筋からは逸れるが、そのことを含め、衝撃的だった。
事実は、小説より奇なり。しかし、事実に体温を持たせ、生々しい感情を掻き立てるのは、フィクションの力だ。映画の中身だけでなく、映画の成り立ち、存在自体の意味を考えさせられた。