八日目の蝉 : 映画評論・批評
2011年4月26日更新
2011年4月29日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
親の幸福追求にさいなまれた娘の魂は癒されるのか
まず脚本の妙に引き込まれる。母と娘を描いた原作の2部構成に大胆な改変を施したのだ。不倫相手の妻の赤ん坊をさらった希和子(永作博美)が逃亡を繰り広げる発端が過去へと追いやられ、冒頭に配されたのは、彼女が法廷で裁きを受ける場面。必死の歳月はいきなり総括され、業を抱えて成長した娘・恵理菜(井上真央)の視点に比重を寄せたドラマであることが強調される。
冷え冷えとした娘の現在と温かな母の子育ての過去。カットバックされ交互に描かれていくことで、恵理菜の記憶にはない思い出が手繰り寄せられていくかのような効果がある。そしてあぶり出されてくるのは、母性というものの底知れぬ偉大さ。さらには、娘にとっての幸福な原風景が、本来憎むべき相手と無条件で愛し愛される関係の日々だったという大いなる矛盾。罪深き聖母ともいえる永作博美の表情には凄みさえ感じられ、逃亡の地・小豆島の美しき風景は愛情に満ち溢れた人生の結晶としてきらびやかに輝いている。
これは、親の幸福追求にさいなまれた娘の魂が、過ちを繰り返すことなく癒されるかと問う、漂流の物語である。7日で世を全うするという蝉にとっての終末後――虚ろな時間はプラスに転化できるのか。何よりも欲望を優先させてきた結果、この国のあらゆるものが溶融していきそうな終わりの始まりを生きる今、喪失の悲しみを抜け出す糸口が、この物語にはあるように思えてならない。恵理菜の苦悩がいかにして鎮められるかを目撃し、希望の在り処を見出したい。
(清水節)