人間失格 : 映画評論・批評
2010年2月16日更新
2010年2月20日より角川シネマ新宿ほかにてロードショー
静かな衰弱から濃厚な衰弱へ。透明な回転扉も多面的な光を反射する
映画のペースはゆるやかだ。太宰治の原作に顕著だった「主人公の地獄めぐり」を期待すると、観客は肩透かしを食わされるだろう。原作の大庭葉蔵が自意識過剰の自堕落青年だったのに対して、映画の葉蔵(生田斗真)は「空白の心棒」だ。女が来れば身も心もねんごろに付き合うようだが、「情熱」や「意欲」や「野心」といった観念とはおよそ縁がない。怒りや恐怖といった感情に染められることもなさそうだ。ただ、無感動や無表情というわけではない。言葉を換えれば、葉蔵は透明な回転扉だ。女たちは、扉にからまりながらつぎつぎと通り過ぎていく。つまり、葉蔵と女たちの関わり方は、小説と映画とでは180度異なっているといってよい。
監督の荒戸源次郎は、ここで映画にダシを効かせる。葉蔵は「女達者」のはずなのに、若い女たちとのラブシーンは一切描かれないのだ。背景とされた昭和10年代前半の「疲れた空気」が通奏低音のように流れるなか、葉蔵と女たちは静かに醗酵し、静かに衰弱していくようにも見える。
が、そのままで映画を終わらせないのが、荒戸という賭博師の賭博師たるゆえんだ。葉蔵の周辺に年増女の影が目立ちはじめたと思うや、「静かな衰弱」は「濃厚な衰弱」へと姿を変えていく。そう、「頽廃」や「爛熟」というよりは「濃厚な衰弱」。
この化学式を見抜いた人は、映画全体を楽しむことができるはずだ。映画の前半で静かに衰弱していった女たちも、実は静けさの陰で濃厚な匂いを放っていたのではないか。となると、葉蔵という「透明な回転扉」も、プリズムを思わせる多面的な光を反射しはじめる。ダシを効かせるとはそういうことだ。
(芝山幹郎)