潜水服は蝶の夢を見るのレビュー・感想・評価
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主人公とともに潜水服の中へ
オスカーノミネートのフランス人ジュリアン・シュナーベルが監督する映画" Le Scaphandre et le Papillon"="The Diving Bell and the Butterfly"=「潜水服は蝶の夢を見る」。
実在する主人公が書いた手記をもとに映画化されたものです。脳梗塞で左目以外動かせなくなった主人公の視点から見たものなのですが、この演出が素晴らしかったです。
映画の中の主人公の周りの人にとっては、コミュニケートが極めて難しい患者として写るのですが、彼の心の声を観客は聞くことができるため、観客にとっては広い表現力を持ったユーモアのある人物として映ります。
邦題にも仏題、英語題にもあるように潜水服の中に主人公とともに観客は閉じ込められます。潜水服の中から主人公と一緒に外界を観察しているような感覚に陥るこの映画、やっぱり監督の力量なんでしょうが、最初から最後までぐいぐい映画に引き込まれ、あっという間にラストシーンです。フランス映画には珍しく(?)心地よいカタルシスも得られます。監督賞ノミネートも当然?
おすすめです。
人間愛だね~
脳梗塞で左目以外動かなくなった雑誌編集長が、左目の瞬きだけを使って言語療法士と二人三脚で一冊の本を完成させるまでの実話の映画化。
この手の作品は、どうしても障害のある主人公の演技に目が行きがちで、そこにはどこか見世物的な趣があるように感じ、どちらかというと敬遠していました。ダニエル・デイ・ルイスも、ロビン・ウィリアムスも、ダスティン・ホフマンも、そしてロバート・デ・ニーローもみなさん障害者をがんばって演じてたけど、がんばればがんばるほど偽善ぽくってしらけちゃうんですね。
でも、この作品はしょっぱなから演出の仕方に工夫があります。ああやられると見世物的な感覚は緩和され、主人公の心情にすっと入っていけます。ストーリー展開はいたってオーソドックスですが、視点の設定が斬新なので退屈になりません。無理やり泣かせようとするのでなく、淡々と展開していく演出が、逆に涙を誘うこともしばしば。マチュー・アマルリックでしたっけ、主人公演じたフランス人俳優の人。とてもいい存在感ですね。
フランス映画観ると、いつも人間のリアリティを教わります。
今までにないくらい主観的
かつてここまで忠実に主観的な映像を再現したのは見たことがない。
アカデミー撮影賞が撮れなかったのが不思議なくらいだ。
映画は8割くらい主人公の目線で描かれる。その映像がとてもユニークで、ピンボケだったり、話し手の顔が見えなかったり、関係ないところを向いていたりする。これほど主人公と一体になれる映画は珍しい。自分の意思が伝わらないことのもどかしさ、手足の自由がきかないことへのイラつきが嫌というほど伝わってくる。
そんな苦しい状況だが、主人公は「想像」することで自由な身体を得て、何処へでもいけるのだ。この辺りの映像が、映画全体の息苦しさを緩和させる。
登場する女性はみな魅力的に描かれている。主人公は言葉には出さないものの、次第に感謝の気持ちや愛情が芽生えていると感じられる。
感動を押し付けるような映画ではなく、人間の温かみをしんみりと伝える秀作。
ただ、映像を楽しむにはある程度のスキルが必要かもしれない。
蝶になれない蝶を観るのは退屈
ロックトインシンドローム患者が瞬きで自伝を綴ったという事実には驚嘆するが、それを映像化して面白いかといえば、必ずしもそうではないし、その手法には大いなる工夫と困難がつきまとう。だが、この作品はそうした難問を、前宣伝ほどには克服できていない。それどころか、作品として哀しいくらい見事につまらない。
同患者にかろうじて残されたものは左目の自由の他に二つ。「記憶」と「想像力」。その貴重な「想像力」が貧弱で陳腐ときては誰も面白がれないし、楽しめないし、安手の涙さえ流せない。患者の「想像力」は大空を自在に羽ばたく「蝶」になれず、さなぎのまま朽ち果てている。一つ言えば、言語療養士の唇が何度も何度も繰り返す「E.S.A.R.I.N・・・」というアルファベッド、意味を持たぬはずのアルファベッドの文字がある様式美やリズムを伴ってしだいに耳に快く響いてくるのは意外であった。意味は不明だが、俳句か短歌のような定型詩を聞かされているような不思議な錯覚と陶酔にとらわれた。だが、だからといって、これはこの映画の評価を上げるものでは決してない。
監督のキリスト教に対する描き方には疑問が残ります。
脳梗塞で、一切の身体の自由を奪われた主人公の映画のために、当初から動きの少ない作品であることは予想されました。それでもきちんと映画になっている監督の力量に驚きましたね。
一見単館系のフランス映画に見えて、撮影はスピルバーグ作品の撮影監督が努めていたり、なんと主役は当初ジョニー・ディップが演じることになっていたそうです。残念ながら、パイレーツの撮影が多忙で、流れてしまったそうなのです。「ネバーランド」でヒューマンな主人公を好演したジョニデであれば、もっとこの作品に陰影を付けられたことだろうと思い残念に思います。
まぁ、それくらいバリバリのハリウッド映画でありながら、監督はジャン=ドーの存在感にこだわり、ジャン=ドーの入院したフランスの病院でロケし、ハリウッド映画では珍しくフランス語で語らせることで、まるでドキュメンタリーを見ているかのようなリアルな作品となりました。
但し主役のマチューの演技もリアルティもなかなかのもので、元気だった頃のジャン=ドーと入院後では、全く別人といえるくらい説得力がありましたね。
撮影方法もジャン=ドーの唯一動く左目の視野の制約をそのまま描き出し、なんと彼に語りかける人の顔までフレームアウトしてしまう徹底ぶりです。
右目を閉じる手術のときは、ゴムをレンズにおいて、縫合するところを撮ったそうです。
ただこの作品はそんな映画技法以上に、テーマがが強烈に語りかけてくる作品でした。 脳梗塞が身近な病気になった現代。もしも自分がジャン=ドーになったらと問いかけずにはいられなくなります。
原作で彼は、こう語っています。「健康なときは私は生きていなかった。存在しているという意識が低く、極めて表面的でだった。しかし私は再生した時、『蝶の視点』を持ち復活し、自己を認識する存在として生まれ変わった。」
確かに映画でも「死にたいと」述べていた彼は、明らかに変わっていきます。そして家族の絆や父親としての実感など、今までほったらかしにしてきた大事なことにも気がついていくのでした。
きっと彼の使命は、人生の目的を多くの人に考えさせることににあったのではないかと思います。五感が満足に機能している間は、刺激に反応しているだけだし、自分欲求を満たすことで頭がいっぱいで、感じている出来事の意味の一つ一つを深く考えていないことが多いはずです。
視聴覚や嗅覚などを満たすだけの日々は、本当に生きていることなのだろうかという疑問をジャン=ドーは病気になって初めて、気がついたのでした。
華やかな一流ファション誌の編集長を努めていて、自分が主役であり、思うとおりになった人生、それがずっと続いていくかのように思っていたのに、諸行無常であったのです。
けれども心の内を見つめれば、そこには無限の可能性が宿っていたのです。ジャン=ドーにはそれが蝶となって羽ばたく如く、魂の自由を感じたのでしょう。
一編の詩集を見るような作品です。
淡々と進んでいきますが、終わったあと、観客はみんな哲学者になっていることでしょう。
ということで、凝った撮影技法や詩を紡ぐようなカット割り構成など斬新な表現方法をとっている本作は、単館系の作品を何本も見ているような通の人に受けるこだわりの一本と言えます。
ただ一般の映画ファンにも、アクション映画ばかりでなく、たまにはこういう作品で人生とは何だろうと思索に耽るのも悪くないと思いますよ。
●追伸
不満点を述べるなら、ジャン=ドーの魂の叫びが聞こえなかったということです。彼が希望を見つけるまでの間、画面は回想シーンに飛んで、気がついたら本の執筆が進んでいたのです。もう少し彼の葛藤と克服していく過程が見たかったです。
また彼の奥さんは信仰深いクリスチャンであったことから、ジャン=ドーをルルドに連れて行こうとします。結局ルルドへ行く前の教会のジーンで、突如回想シーンになって、顛末がよくわかりませんでした。
ルルドの聖地の回想では、過去に巡礼の行列に並んだシーンしか出さず、むしろルルドの歓楽街での体験を長々と撮っています。あれでは監督は、聖地といってもこんな俗っぽい裏があるよと聖地を貶める表現を敢えてしていると言っても過言ではないでしょう。
カウンターカルチャー出身の画家も兼ねる監督だけに、宗教による救いに対して抵抗感があるのかもしれません。
全身麻痺した、ジャン=ドーであれば、神についても考えたことでしょう。また内なる心の世界を斯く見入ることで、様々なインスピレーションにも敏感となり、魂についても思いはせていたに違いないと思うのです。
けれども監督は、ジャン=ドーに神を信じる気持ちからの懺悔や罪の思いに対する許しなど、一切触れませんでした。そもそも神についてどう思っていたのかについても触れてなかったのですね。
ジャン=ドーのような人にこそ、魂の完全性や永遠性に触れさせてこそ、大きな感動を呼ぶものだと思います。
生きているという現象を追いかけているだけでは、やはり潜水服の世界から抜け出せていないなあと思いました。肉眼を超越したところに「蝶の目」はあるものですから。
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