ママと娼婦

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ママと娼婦

解説

ポスト・ヌーベルバーグを代表する夭逝の映画監督ジャン・ユスターシュが1973年に発表した長編デビュー作。

ユスターシュ監督が自身の経験を基に撮りあげた恋愛映画で、1972年のパリを舞台に、五月革命の記憶を引きずる無職の青年アレクサンドルと、一緒に暮らす年上の恋人マリー、アレクサンドルがカフェで出会った性に奔放な看護師ヴェロニカが織りなす奇妙な三角関係の行方を描く。

男女の性的関係を赤裸々につづった内容が物議を醸したが、1973年・第26回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを獲得するなど高く評価され、ユスターシュ監督の代表作となった。特集上映「ジャン・ユスターシュ映画祭」(2023年8月18日~、東京・ヒューマントラストシネマ渋谷ほか)にて4Kデジタルリマスター版で上映。

1973年製作/219分/フランス
原題または英題:La maman et la putain
配給:コピアポア・フィルム
劇場公開日:2023年8月18日

その他の公開日:1996年3月23日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

スタッフ・キャスト

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受賞歴

第26回 カンヌ国際映画祭(1973年)

受賞

審査員特別グランプリ ジャン・ユスターシュ
国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞 ジャン・ユスターシュ

出品

出品作品 ジャン・ユスターシュ
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映画レビュー

2.5これは辛い……

2023年11月2日
スマートフォンから投稿

会話が大抵、独りよがりだ それはコミュニケーションでは無く、 独白に近い。 くそナンパ師が、ベラベラと喋ってたら 女の人がついてくる。そんな感じ。 女性たちもどこかで諦めてるのかと思いきや、 めちゃくちゃ愛してるから不思議だ。 もう最後の台詞とか本気で長くて、 何度も何度も同じ事言うから本当に切れよ! って思ってしまった。 もう最後は苛々しながら見てた。

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JYARI

4.0ユスターシュの伝説的傑作をフランソワーズ・ルブラン目当てで鑑賞。ヒドいけど凄い映画。

2023年10月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

実はユスターシュをそこまで観たかったわけではない。 そもそも三角関係を描くような話は、個人的にあまり好まない。 自分が20年、浮気もせずに愛妻家を気取っているので、 ふつうに邪恋に身を焦がす連中を観ると何だか腹が立つからだ。 だから、ヒューマントラストでの復刻上映もスルーしていた。 だが、恐るべきニュースが入ってきた。 12月公開で、ギャスパー・ノエの新作が公開されるのだが、 なんと主演俳優が僕の敬愛して止まないダリオ・アルジェント監督だというのだ! え?? ダリオが「主演」? マジですか。そりゃ何が何でも観なきゃ。 映画のお題は、ギャスパー・ノエらしい「えげつなさ」を備えた 「老老介護」の話、とのこと。 で、その相手役が、フランソワーズ・ルブランらしい。 あれ、名前に聞き覚えがあるけど、何に出てた女優さんだっけ? 検索をかけたら、代表作は『ママと娼婦』とある。 なんだ、ちょうどリヴァイヴァルでやってるじゃん。 というわけで、僕はフランソワーズ・ルブラン「目当て」で、 日仏学院まで『ママと娼婦』を観に行ったのだった。 彼女の若かりし頃の演技を観たかったというのもある。 だがそれ以上に、老老介護の映画を観る前に、「まだ若くて生気に満ちあふれていた頃のフランソワーズ・ルブラン」の面影を確認しておきたかった。 彼女が「老い」に囚われる前の青春時代を、まずはこの眼に焼き付けておきたかったのだ。 いざ観たら、やたら面白かった。 とくにヴェロニカがアレクサンドルの家に乗り込んでいってからは。 ただ、そこまでがとにかく長い(笑)。 なので、なんども睡魔に襲われて、 ちょっと(だいぶ?)イビキもかいてしまったかもしれない。 本当にごめんなさい。 僕個人は、最初にも言ったように、こんなカスみたいな主人公には1ミクロンも共感しないし、カスに入れ込んでいるメンヘラ女たちにも一分の同情も感じない。 ただ、変なデンパを出してる男は、変なデンパを出してる女を引き寄せるし、 発達は発達を、メンヘラはメンヘラを引き寄せるってことに過ぎない。 あるいは、虚無に囚われた人間は、虚無を引き寄せるということか。 アレクサンドルの言葉の端々からは、5月革命の夢に敗れた青年の、投げ槍でニヒリスティックな思想が駄々洩れしている。仕事もしなければ目的もないかわりに、それの代替行為のようにナンパとセックスに明け暮れる日々。 おそらくこういうアスペっぽくて、いつも独りよがりにしゃべくりまくっていて、共感性に乏しい単眼的なタイプの、甘えんぼうのえせインテリは、間違いなく頭でっかちな学生運動にドはまりしていたに相違なく、夢が破れて茫然自失としたまま、何をやる意欲もわかずに、ただ無為にヒモとして人生を過ごしているといったところではないか。 その意味では、本作におけるジャン=ピエール・レオーは、5月革命前夜の学生たちの政治的日々を寓話風に描いたゴダールの『中国女』で、彼が演じた青年ギヨームのまさに「なれの果て」なのであり、『ママと娼婦』という映画は、ジャン・ユスターシュが「ポスト・ヌーヴェルヴァーグ」の映画作家として生きていくためにゴダールから「継承」した、『中国女』の「後日譚」のような話なのだと僕は思う。 そういえば、フランソワーズ・ルブランは『中国女』のアンヌ・ヴィアゼムスキーとなんとなく佇まいがよく似ているし、何より役名が『中国女』と同じヴェロニカ。あの映画でもジャン=ピエール・レオーと「ヴェロニカ」は恋人どうしだった。 あるいは、もうひとりの「ママ」=ベルナデット・ラフォン演じるマリーの名は、明らかに聖母マリアと関係があるわけだから、もうひとりの「娼婦」のほうも聖ヴェロニカと関連があるのかもしれない(それをいうならマグダラのマリアだけれど)。 パンフを読むと、ジャン・ユスターシュが様々な過去作からの引用を作品に組み込んでいる様子が伝わるが、少なくとも、ラスト近くでヴェロニカが涙ながらに「女性」の背負わされる業と苦しみについて語り続ける圧倒的なシーケンスは、カール・ドライアーの『裁かるるジャンヌ』のジャンヌ・ダルクの最期を意識しているようにも思われ、ふたりとも股のゆるいダメ女ながら、ユスターシュにとっては「聖女」として認識されていたことが推察される。 以下、映画を観ながらつれづれと考えたどうでもよいことを列挙しておく。 ●冒頭の画面中央上方で輝く四角い窓は、どこか宗教的な感興を与えるとともに、ここで厳格に示されるシンメトリーへの志向は、このあとも折に触れて何度も反復される。また整然とした窓辺のシンプルさと枕元の乱雑なカオスの対比も、映画のなかで何度も繰り返し強調される。 ●本作のジャン=ピエール・レオーは、『中国女』のギヨームの後継的キャラであると同時に、彼がトリュフォー映画で演じつづけたアントワーヌ・ドワネルと地続きのキャラクターでもある。ずっと思い焦がれていたジルベルト(モデルはなんとフランソワーズ・ルブラン)にいきなり結婚を迫るシーンは、いかにもアントワーヌ・ドワネルのやりそうな思い込みの強さでつい笑ってしまった。シネフィル/発達っぽさ/女性崇拝という意味では、トリュフォーとジャン=ピエール・レオーとジャン・ユスターシュは同じ穴のムジナだ。 ●ちなみにフランソワーズ・ルブランが演じるヴェロニカのモデルは、マリンカ・マトゥシェフスキというポーランド系の看護師さんらしい。 看護師さんが性的に放縦というのは、今の時代もふつうに言われていることなので、50年前のフランスでも同じ傾向はあったのだなあと(歌舞伎町のホストクラブの太客の一部は、大久保病院の看護師さんたちだ)。あれだけ大変で、ひたすら人に尽くす過負荷な仕事を敢えて選択する女性たちって、なにかしら「がっつりした接触」がないと生の実感が湧かない(通り一遍のことで自分のなかの虚無を埋められない)タイプの人も多いのかもしれない。 ●ジャン=ピエール・レオーの友人として出てくる、スティーヴン・キングが宅八郎の髪型をして無理やりお洒落したみたいなジャック・ルナールは、息詰まるような三角関係でキリキリさせる映画において、一服の清涼剤のような役割を果たしている。 ●『ママと娼婦』という映画の作りは、こういうとなんだが、どこかディスクジョッキーの作業に近いものがある。 まずはとにもかくにも一方的に、しゃべる、しゃべる、しゃべる。 そののち(前の場合もある)、枕元にあるレコードから一枚、その時の気分に一番近い心境を歌っているものをかける。 この映画は、じつはその繰り返しでできている。 アクションらしいアクションもなく、そもそも「動き」の連鎖で映画をつないでいく意識が希薄である。あのマリーのフラットから出ても、シーンは基本ぶつ切りで、静的だ。 待ち合わせる。移動する。出逢う。移動する。カフェに入る。 しゃべる。しゃべる。しゃべる。 で、さよならする。もしくはセックスする。 それを繰り返す。 そこに「映像の力でどうこうしよう」という感覚が、なぜか加わってこない。 全体が、映画なのに、TVというより「ラジオ」に近い作りになっている。 そして、本作の「語り」と「音楽」は、常にとびきり文学的だ。 なんとなく、他の余業は忌避するのに、ディスクジョッキーだけは嬉々として引き受けたうえ、今でも継続的に続けている村上春樹を思い出させる。 とにかく、ユスターシュには語りたいことがあって、聴かせたい音楽があるのだ。 ●だからこそ、この映画において「なんの曲がかかるか」は猛烈に重要だ。 知らない曲もいくつかあったが、ダミアの「想い出(Un Souvenir)」がかかったときは背筋がぞくぞくした。僕のなかでは、ダミアはピアフ、グレコと並ぶ大好きなシャンソン歌手であり、とくに「かもめ」「イゼールの夜哨」「人の気も知らないで」あたりは、折に触れて今でもよく聴く(聴いたことのない人はぜひ一度お聴きになることをお薦めする。ダミアはヤバいよ、マジで。日本の歌謡曲とか聴いてるのがバカバカしくなるから)。 あとは、なんといってもラストのピアフ『パリの恋人たち』。マリーの心境や映画全体とのシンクロ具合が半端ない。 その他、ディープ・パープルのコンチェルトや、マレーネ・ディートリヒ、フレエルなど。クラシックだと、オッフェンバックとモツレクがかかっていた。 ●この映画は、携帯のない時代の男女関係が、ひたすら「電話」と「待ち合わせ」で成立していたことを思い出させてくれる作品でもある。 思えば、僕も大学時代、今の妻に水曜と土曜日に時間を決めて電話してたっけ。 で、待ち合わせに遅れたり、場所を間違えたりすると、二度と会えなくなったりするから、デートの出だしというのはかなりの緊張感がある「儀式」だった。 むしろ「ちゃんと会う」こと自体が結構な重大イベントで、そこをクリアしただけでなんとなくあとは惰性というか、まずは約束通りに会うこと自体がまあまあ「目的化」してたような(笑)。 映画内の恋人たちが、ほとんど凶器を振りかざすかのように電話攻撃を繰り返すのを観ながら、携帯の出現によって一番様変わりしたのは、実は恋愛の作法なのかもしれないと、妙なノスタルジーにひたってしまった。 ●本作はジャン・ユスターシュの自伝的側面が強い作品で、それぞれのキャラクターには明確なモデルが存在する。先にも述べたとおり、出だしでアレクサンドルが結婚を迫っているジルベルトがフランソワーズ・ルブラン(実際に元恋人だった)。性的に奔放な看護師ヴェロニカはマリンカ・マトゥシェフスキ(で、それをルブランに演じさせるという強烈なねじれ)。主人公が同棲しているマリーのモデルは、カトリーヌ・ガルニエという本作で衣装とメイクアップ係を担当した女性で、舞台として自分のブティックとフラットを提供している。ちなみに、ガルニエは本作の粗編集版を鑑賞後、賞賛のことばを残して自殺している。のちにユスターシュ本人も自ら人生に幕をおろしたことを考えると、「私小説的作品」ってつくづく業が深いと思う(ユスターシュは日常生活で相手がしゃべったことを頻繁にまるまる書き留めていて、本作のなかでそのまま再現しているらしい。それも結構精神的に来るよなあ)。実際の私生活に生々しく近づき、深くえぐりこんで、映画の完成度をあげればあげるほど、映画は関係者を傷つけ、消耗させ、使い潰してしまう。 ●業が深いという以上に、この映画の登場人物ってみんな、意味がわからないくらいに「意地っ張り」なんだよね。口では「なんでもない」ようなふりをしながら、相手に浮気されたり目の前でいちゃつかれたりすると、ボロ布のようになって傷つき、激昂し、衝動的に暴発する。そんなに傷つくなら、わざわざストレスフルな状況なんか作らなければいいのに、三人とも相手を傷つけ、あるいは「試す」ことをどうしてもやめられない。 あげく、それを渾身の力で映画化して、さらに傷ついて死んでしまう。 芸術としてはたしかに見ごたえがある。でも、人としてどうなんだそれ? ●で、今回のお目当てだったフランソワーズ・ルブランだが、とにかく素晴らしかった。 この人、もともとはユスターシュの恋人で、シネフィル仲間としてつるんでたらしいけど、あくまで監督希望で、この映画に出るまではろくな演技体験もなかったそうな。それってすごくない?? しかも最後のモノローグが彼女にとっては最初のテイクだったとのこと。あれがほぼ最初の演技なんですよ? 信じられます? 本人は「セリフを完璧にマスターしただけ」「彼の書いたテキストを具現化しただけ」と語ってるけど……。 やけに古風な真ん中分けの髪型といい、少し前に突き出た独特の首の付き方といい、とても雰囲気のある女優さんだ。出だしのいかにもおぼこい感じから、どんどんと女性としての強度を増していき、あのラストの「魂のモノローグ」に至るまで、作品をがっつり支配しつづけている。 この人が、今度のダリオ・アルジェントの相手役なんだな。たしかに目に焼き付けました。

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じゃい

4.5愛をくれる人しか愛せない

2023年8月29日
iPhoneアプリから投稿

アレクサンドルは狡い そんなことを思いつつも夢中になって見てしまった マリーのモデルとなった人がこれを見たあとに自殺していると知り悲しくなった

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m m

4.5娼婦はいない

2023年8月23日
iPhoneアプリから投稿

久々に大作らしい大作を目の当たりにした気がする。鑑賞後の素朴な所感としては濱口竜介の『ハッピーアワー』や『親密さ』に近いだろうか。しかし濱口のそれらに比べると映画的外連味が強い。 浮気性の男を中心に描き出される奇妙な三角関係はすべてのレイヤーが同時空に重ね合わせられており、「浮気がいつバレるか」という定型的なサスペンスとはほとんど無縁といっていい。浮気男(アレクサンドル)の愛人(マリー)は彼の恋人(ヴェロニカ)を知っているし、彼の恋人もまた彼の愛人を知っている。愛人の部屋は重要な舞台の一つだが、ビリー・ワイルダー『アパートの鍵貸します』のように危うい関係の者同士が踵を接して入れ替わるような恋愛ドラマは起きず、常に片方の痕跡が、あるいはその当人がそこにいて、もう片方と出くわしてしまう。 こうなってくるとジャン・ピエール・レオ演じるアレクサンドルを単なる浮気男と形容するのも間違いであるような気がしてくる。マリーとヴェロニカが痛罵したように、彼は良くも悪くも恋愛に対して純粋すぎる。おそらく彼が強く信奉していたであろう映画や文学や哲学は、五月革命というピリオドを境にどこか腑抜けたようになってしまったのだろう。カフェでサルトルを腐すシーンが端的にそれを示している。そしてその虚脱感を埋めるように彼は強く女を求める。 実際の行動はどうあれ、アレクサンドルの女性に対する態度には誠実さとまでは言わずともひたすらな愚直さが感じられる。しかもその愚直さが単純な女好きあるいは性欲に由来するのではなく、実のところ女なんか抱いても何の意味もないのだという決定的な直感からの意識的ないし無意識的な逃避に由来しているあたりがかえって純粋さを増している。彼にはもう、恋愛を信じること以外にマジで救済の道がないのだ。 彼の切迫した心理状態を、ヴェロニカは誰とでも寝る女(=娼婦)としての半ば自虐的な包容力でもって受け入れるものの、アレクサンドルやマリーとの歪んだ三角関係に揉まれるうちに少しずつ尊厳を取り戻していく。終盤の10分にもわたる彼女の独白シーンには鬼気迫るものがある。全体を通して古典的モンタージュに倣った斜めのショットが多い作品だからこそ、ここで真正面から見据えられたヴェロニカの存在はひときわ際立っている。 娼婦なんてものはいない、誰とでも交わせる愛は本物じゃない、子供を作る性行為だけが本物の愛なのだと主張するヴェロニカと、それにじっと耳を澄ますアレクサンドルとマリー。曖昧な三角関係は終わりを告げ、アレクサンドルは切羽詰まったようにヴェロニカに結婚を迫る。一方であれだけ彼にゾッコンだったはずのヴェロニカは憑き物が落ちたように超然としている。 いつまでも恋愛を自己実現の肥やしと錯覚しているアレクサンドルと、数多の痛みを経て恋愛の中に他者を発見したヴェロニカでは互いに釣り合うはずもなく、二人の痛々しいくらいちぐはぐな関係は冒頭にて繰り広げられたアレクサンドルとその元恋人との悲惨な恋物語に重なり合う。アレクサンドルが不毛な堂々巡りの円環に囚われていることは自明だ。そしてほどなく、ヴェロニカだけがそこから颯爽と抜け出していくことも。

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因果