長距離ランナーの孤独

劇場公開日:

解説

「土曜の夜と日曜の朝」のアラン・シリトーの同名小説を彼自身が脚色、「蜜の味」のトニー・リチャードソンが製作・監督した反抗青年のドラマ。ウォルター・ラサリーが撮影を、ジョン・アディソンが音楽をそれぞれ担当した。出演は新人のトム・コートネイ、アヴィス・バンネージ、ジェームズ・ボーラム、アレック・マッコーウェン、ジェームズ・カンクロスほか。一九六三年マル・デル・プラタ国際映画祭賞、同年イギリス・アカデミー最優秀新人賞を受賞している。

1962年製作/イギリス
原題または英題:The Loneliness of the Long-Distance Runner
配給:昭映フィルム
劇場公開日:1964年6月12日

ストーリー

ボースタル感化院へ送り込まれたコーリン(トム・コートネイ)は長距離レースの選手にされた。貧困な町に生れ育って十八年、見すぼらしい家を想い出すにつけ、社会の現実に大きな抵抗を思う。父親は僅かな週給のために汗水流して働き、癌でポックリ死んだ。母親は家計をやりくりしながらも色男と遊んでいた……父親が死んだときの給付金も豪勢に使ってやった。兄弟達もよろこんでいた……ガールフレンドのオードリー(T・ジェーン)と盗んだ車で週末旅行をやったのも楽しかった……相棒のマイク(ジェームズ・ボーラム)とパン屋に押し入り、雨樋につめておいた隠し金が生憎の雨で流れ落ちて……つかまってしまった……。彼に特別目をかけて選手に仕立てた院長(マイケル・レッドグレーヴ)は、そのポリ公から逃げ出すことに特技のある彼をレースに優勝させて感化院の名声を望んでいるに違いない。権力と威厳で屈従させる院長への反感は、レースが近づくにつれ、大きくなっていった。さて、レースの日。彼は案の定トップを独走している。院長は満足げに紳士、淑女を見渡す。ところが、期待を一身に集めた彼はゴール間近で、急にスピードを落し後のパブリック・スクールのライバルに優勝を譲った。これが霜のおりた凍てつく早朝にトレーニングをさせられた彼の淋しい孤独の勝利の小さな復讐であった

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映画レビュー

3.5『サード』と比較して

2022年2月8日
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階級的ルサンチマンに悩む青年が少年院で「走る」という行為を通じて自己を模索していく、というプロットは東陽一・寺山修司『サード』を否が応でも彷彿とさせる。時系列的にはこっちが元ネタだけど。

本作も『サード』も「金銭的困窮者」という点において主人公の造形は同じだが、『サード』の主人公が囚われていたのは、身に迫った貧困や搾取というよりは、きわめてインテリ的な自我の問題だったように思う。したがって主人公の「走る」という行為も、ここでは自意識への自閉を助長するものでしかなく、それゆえどこへも辿り着けなかった。なんだか学生運動の未練を都合よく「怒れる若者」に仮託したような映画で、私は全然好きになれなかった。

一方で本作の主人公コリンは貧困という現象に対してきわめてフィジカルな恐怖や怒りを抱いている。ボロ雑巾のように働いた挙句死んでいった父親の保険金をマッチで炙るシーンや、資本がどうだのイギリス的精神がどうだのと喚くTVの音量を0にするシーンなどからもそれは明らかだ。

コリンは強盗の咎で少年院に収容されるが、長距離選手としての才覚を見染められ、来たる一流校との交流試合でのメインランナーに抜擢される。これはあからさまな資本による誘惑だ。もし言うことを聞いて好成績を収めればお前をいい目に遭わせてやる、という。あれほどカネを憎んでいたはずのコリンだったが、これ以降彼は院長らの寵愛を受ける「優等生」として振る舞うようになる。

試合当日、コリンは走りながらさまざまなことを考える。自分がかつて受けてきたあれこれ、周囲の人々の言葉。ここでの「走る」という行為は、自我への沈潜だけでなく、自分を取り巻く現況への俯瞰でもある。彼は走りながら、走ることによって、自分がどういう存在であり、何をすべきなのかを必死に思案した。

やがてコリンは一流校の選手たちを抜き去り、一番乗りでゴールの前にやってくる。誰もが彼の勝利を確信したその瞬間、彼は走ることをやめる。これが俺の答えだ、と言わんばかりに決然とそこに立ち尽くす。

ささやかではあるが鮮やかな裏切りだ。幾度となく彼を苦しめてきた資本的なものへの、社会への精一杯の裏切り。『サード』との違いは言わずもがな、主人公の視点が自我の内側だけでなく外側をも包摂しているという点だ。

コリンは『サード』の主人公のように、問題を自我の範疇で完結させなかった。周りをちゃんと見ていた。だからこそ「立ち止まる」というカタルシスを演出することができた。なぜそんなことができたかといえば、それはこの映画の貧困に対する意識がきわめてフィジカルなものであったからだ。

事実、本作の原作者は14歳まで素寒貧のドカタ暮らしをしていたというから驚きだ。このあたりの実感覚の有無が本作と『サード』のアクチュアリティーの差異を生み出したのだろう。

とはいえコリンが考え至った「立ち止まる」というアンサーはきわめて精神的なものだ。実際に彼を取り巻く金銭的窮状には何の変化ももたらさない。コリンは満足げな表情をしていたが、それで本当にいいのか?と思った。それもまた古き良きイギリス精神の再奏なんじゃないの?と。そういえば『大脱走』のスティーブ・マックイーンにも同様のことを思った気がする。

権力への反抗はやっぱりごく末端的なところからしか生じえず、またある程度の犠牲を伴うということなんだろうと思うと悲しいし悔しい。こういう反権力が不可避に抱える鬱屈性がこの後のアメリカン・ニューシネマの主旋律となっていくんだろうな。

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