韓国の国民的俳優アン・ソンギの出世作となった『風吹くよき日』 (1980年) と共に、本作が25年ぶりに公開されることになって、マスコミ試写で見てきました。
本作は、ソウル市内だけで40万人以上もの観客を動員するヒット作となり、今日の韓流映画の興隆を導く、「韓国ニュー・ウェーブ」の原点とされている作品です。
ただ現代の視点で見ると、主人公たちがヤクザに追われながら、母の暮らす故郷を目指す本作の描写はベタな演出を感じてしまいます。それは、ちょうど邦画でも昭和に量産された喜劇映画のそれに感じものと同じです。
それでも長く独裁政権の元で、軍政に抗する時代のエネルギーは検閲との衝突を繰り返しつつも、テレビの台頭で衰退しつつあった韓国映画界。それが、朴正煕大統領暗殺を機に、発表された「民主化宣言」のもとに、従来のメロドラマ、青春映画とは異なる韓国ニュー・ウェーブの映画たちが産声をあげました。その潮流を興行的にも決定づけたのが、本作なのです。ベタなストーリーのなかにも、表現の自由を獲得した開放感を、アン・ソンギ演じるインテリ物乞いに、強く感じました。
作品の感想では、主人公の大学生ピョンテが、内気で奥手で、全くモテナイという冴えないキャラクターというのは、その後の韓流映画のラブコメ作品で定番となっていくスタイルではないでしょうか。
ピョンテは“親分”に唆されて、同じ大学の憧れの人に、思い切りビンタを張ってしまい、泣かせてさせてしまいます。いくら当時韓国の社会が男尊女卑が強かったとはいえ、ビンタして「俺についてこい」と強さを見せつける作戦が通るわけでもないのに。
作戦に失敗したピョンテは、やけを起こして突如鯨を捕るのだといいだし、街を彷徨い始めます。本当の鯨を取るというよりも、何か大きな夢を掴むという意味のようですが、漠然としていて、ピョンテの気持ちが伝わってきません。ラストでやっと、納得はさせてくれましたけれど。
そのあと“親分”に売春宿に連れて行かれて、「筆下ろし」を済ませることになります。ここでも、客を取ることを拒んでいたチュンジャが、急にピョンテの純情さに心を打たれて、体を許す展開は、ちょっと急すぎるななと思えました。この時のベットシーンの描写は、なぜか写真カットの羅列なんです。表現の自由を得たとはいえ、この時代では、まだまだこれくらいが限界だったのでしょうか。
翌朝、ピョンテはチュンジャの身の上を知り、売春宿から逃がします。そして彼女を母が暮らす故郷の牛島へ送り届けようとするのです。お金も持たずに、どうやって?と思っていたら、“親分”ならではの活躍で、ピンチを切り抜けていきました。
ベタなのは、追っ手の存在。一行が一息ついて安心してしていたら、待ってましたとばかり売春宿のヤクザ者が登場するのには、苦笑してしまいました。かなりのしつこさです。牛島まで追い掛けてくるなら、途中で待ち伏せすることももないでしょうに。
そして執念深く追ってきた割には、ラストで意外とあっさり態度を変えてしまうのには、ええっ?と疑問に思えました。
途中ピョンテと“親分”は喧嘩別れしますが、これもお約束のようなシーン。ピョンテがそのあとピンチになるとすぐに登場して、助けてしまいます。
ベタなシーンが続きますが、ちょっといいシーンもありました。極寒の山道で深夜に峠越えをする露金も術も失った一行。万策尽きた果てに、チュンジャが身を売って、峠越えのお金を得ようとする健気さが、印象的でした。
それと母子の対面するシーンは、やはり感動的。韓国の人たちって、こういうシーンにきっと弱い国民性なのでしょうね。
全編を通じて、やはりアン・ソンギの存在感は、群を抜いていました。彼が出ているだけで、作品の空気感が変わってしまう感じがします。観客の注目を全部持って行く、そのコミカルで動きの大きい演技は、『男はつらいよ』で見せてきた渥美清に似ていました。だから、本作を見ていると若い頃に盆暮れに『男はつらいよ』で涙していたことを、思い出してしまいました。渥美清が、日本の国民的俳優と評価されたように、アン・ソンギが韓国の国民的俳優となっていったのも、どことなく共通点を見る思いがした本作でした。
小地蔵的には、『光州5・18』(2007)で市民軍を率いて抵抗したリーダー役の彼の演技が、今も強烈に脳裏に焼き付いています。
いま韓流映画にはまっている人なら、その原点に当たる作品として、お勧めしておきます。