神の道化師、フランチェスコのレビュー・感想・評価
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思い出す『ブラザー・サン・シスター・ムーン』
13世紀のイタリアで、清貧の生活の中で与え続ける信仰と布教を貫いたアッシジのフランチェスコをロベルト・ロッセリーニ監督が描いた物語です。『無防備都市』で戦争の虚無をクールに描いたロッセリーニの作風を想像していたらフランチェスコの信仰を正面から素直に捉えた物語でした。どこかで展開が変調するのかと思ったらそのまま描き切りました。でも、「神の奇蹟」の様な物を情熱的に描くのではなく、ひたすら与え続ける修道士の日常を淡々と描いたと言う点では、まさしくネオリアリスモに相応しい作品なのかも知れません。その淡々故に信仰に襲いかかる暴力が冷え冷えと際立ちました。
そして、アッシジのフランチェスコと聞くと僕の世代だと『ブラザー・サン・シスター・ムーン』(1972) をあのテーマ曲と共に思い出してしまうのでした。この機会に、またスクリーンで観たいなぁ。
神の道化。 その人を知っています。
うちのすぐ近所に1人で住んでおられた牧師さんのことです。
お婆さんの牧師さんでした。
フィリピンの方でしたね。
そのお婆さん牧師さんのことを、
あとから人づてに知ったのですが、
彼女が子どものときに、
村に日本兵がやってきて
お母さんとお姉さんを連れて行き、
小学校の裏のほうに連れて行って、
校舎の裏でお母さんとお姉さんが死んでいたそうです。
いつも笑顔で優しい面持ちのお婆さん牧師さんでしたが、
日本に渡って来て、
小さな町の中で日本人と共に暮らし、
庭で野菜を育てながら、
神様のお話をして、愛し合うことと、そして許し合うことを、
下手くそな日本語で話しておられました。
道化ですよね・・
彼女のやっていることは道化。
彼女の笑顔も道化です。
お昼ごはんをお宅で頂いたこともありました。
神の道化の、あの笑顔を僕は忘れません。
浅黒いお顔に白い歯が印象的、そして水色のフチの眼鏡をかけておられました。
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本作品は、
イタリア映画1972年版「ブラザー・サン、 シスター・ムーン」とともにフランシスコ会の始まりを描いた、僕の大好きな映画です。
1209年にフランチェスコによって始められたこのカトリックの修道会。
翌1210年には、ローマ教皇庁で教皇イノケンティウス3世によって「清貧と平和」を説くこの修道会が認可され、
映画はそのローマからの帰途。その道中の彼らの姿からストーリーが始まります。
「ブラザー・サン、シスター・ムーン」の、内容的には“後編"の形になります。
初期の彼らの活動が、記録や詩に残っていた短いエピソード集として、素朴な演技で再現されています。
ボケ老人ジョバンニを家族から引き取って預り、
「施す物が何も無かったから」と一度ならず自分の僧服を貧民に渡してしまったジネプロの肩を皆で抱き、
一切の私有財産を持たず、
敵を許し、敵のために祈り、
見返りを求めずにすべてを与えたフランシスコ会の
これは創設期のお話でした。
もう一編の「ブラザー・サン、シスター・ムーン」と合わせてご覧になることをお薦めします。
2000年前の、ナザレのイエスと同じように生きてみたいと願ってそれを実行した、修道士たち、修道女たち、牧師さんたち。
すごいなーと思います。
⬛ 聖フランシスコの平和を求める祈り
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
·
小コント集でつづる、中世清教徒団のリアル
アッシジのフランチェスコについては、ゼフィレッリが監督した『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972年)で知ったクチである。
彼の大ヒット『ロメオとジュリエット』(1968年)と同じく、ヴィスコンティの弟子ながら、フィレンツェの英国人コミュニティ育ちの経験を活かした、ハリウッド製ウェルメイド歴史劇として青年層に受けた作品だ。
ドノヴァンによるタイトルそのままの主題歌は今でも口ずさめるほど身体に染み込んでいる。
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【以下ネタバレ注意⚠️】
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ロッセリーニの作品は、本作が初めてだろうか。
自覚的に映画を観はじめたころ、まだ健在だったヴィスコンティ、フェリーニ、パゾリーニらの新作が毎年のように劇場にかかっていた。
「サヨナラおじさん」こと淀川長治が、彼らの作品を推奨していたこともあって、何も分からないなりに、都心の劇場まで通ってそれらを観ることが何よりの冒険でもあった。
彼らのことを勝手に「イタリア御三家」などと呼んで、映画入門を始めた格好になる。
だが、その後、興味関心の中心が、オペラや歌舞伎、能狂言などの生の舞台芸術にシフトして行ったため、特段シネフィルにもならないまま今に至っている。
だから、「御三家」の先輩ないし師匠格にあたるロッセリーニについては、名前だけは認識していたが、作品は何か観たかも知れないが程度。デ・シーカに至っては、シネフィルの必修科目『自転車泥棒』(1948年)ですら多分観ていない。
ということで、初ロッセリーニに本作が適当だったかは措いて、もともと聖フランチェスコには関心があったので、興味深く観た。
まず驚いたのは、本作はキリスト教史における最も著名な聖人を扱いながら、実は、まったく宗教映画ではなかった事実だ。
パンフレットで中条省平氏が指摘しているが、ロッセリーニは神をまったく信じていないと断言していたらしい。
最近、ブリッツ・バザウーレ版『カラーパープル』やリュック・ベッソンの『DOGMAN 』におけるキリスト教、アリ・アスターの『ボーはおそれている』におけるユダヤ教など、強迫観念としての宗教を前面に出した作品が相次いでいる。
ところが、先のヴィスコンティ、フェリーニ、パゾリーニにしても(そのあとの世代、例えば、ベルトリッチにしても)バチカンのお膝元でありながら彼らの作品には、まったくと言って良いほど宗教色がないことに気づく。
これは、イタリア映画界に浸透していた骨がらみの左翼性、マルキシズムの宗教否定の思想が、彼ら映画人に共有され血肉となっていたからに相違なかろう。
これに対して、早くイタリア映画界からハリウッドに転身したゼフィレッリは、臆面もなく、聖人としてのフランチェスコや宗教カリスマとしてのローマ法王を描いて恥じることがなかった。
実は、小生、レクイエムや受難曲といった宗教曲や、日本の能に代表される宗教劇に滅法弱い(ここでは感動してしまうという意味で)。
その事始めが、『ブラザー・サン シスター・ムーン』だった可能性があるのだ。
聖人やローマ法王の起こす、奇跡・秘蹟のもたらす法悦とか宗教的陶酔とかに、とにかくイチコロになってしまうのである。
マルキストの立場からすれば、そういった受動性こそ、反動そのものだと指弾されることになるだろう。
ということで、聖フランチェスコをタイトルロールとし、おまけにナザリオ・ジェラルディ以下、実際のフランチェスコ会の修道士たちが劇中でその役を演じていると聴けば、いかほどの宗教劇だろうかと人は期待するだろう。
しかし、ロッセリーニと共同脚本のフェリーニは、その期待を見事に裏切って、奇跡も見せなければ、彼らの教説を説得的に示そうともしない。
法王も登場しないし、暴君ニコライオが修道士ジネプロを解放するのは、その教えに帰依したからではなく、ニラメっこに負けたからだと描かれる。
そもそも修道士フラ・ウゴリーノの『聖フランチェスコの小さな花』と『兄弟ジネプロ伝』から採った10の断章を、無声映画の字幕よろしく各章の最初に表示するが、
◇プロローグ 「住んでいた小屋をロバに占拠され」とあるが、実際は、たまたま雨宿りで入った小屋にいたロバを飼う主人の農夫に追い出される。
◇エピソード8 「聖フランチェスコが兄弟レオーネと共に完全なる歓びを体験した」とあるが、実際は彼らが教えを説こうとした相手に拒絶されて泥沼のなか身悶えながら「これこそ完全なる歓びなのだ」とヤケクソのように自分たちに言い聞かせる。
など、ことごとく、実際に映し出された彼らは、断章の言葉を裏切って見せるのだ。
要は、本作は、中世における聖フランチェスコと彼に付き従う修道士たちのコミュニティをリアルに再現したものなどではなく、そうした設定に、実際の修道士たちを投入して作り上げたシチュエーションコメディ、一種のコント集というべきものではないか。
ロッセリーニの作風は不勉強で何も分かっていないが、ニコライオの一件を観ても、どうにも『道』のザンパノのごとき、フェリーニ風の実存的コメディの風味を感じてならない。
修道士たちの姿を見ても、ありがた味を何ら感じず、ちょこまか歩き回る彼らの姿にコント味を覚えるのは、おそらく正しい鑑賞法だったのだ。
「神をまったく信じていない」ロッセリーニとフェリーニが作り出した、聖フランチェスコをお題としたシットコム、それが謎多き本作の正体である。
✴︎聖フランチェスコと高山寺の国宝肖像画に描かれた小鳥やリスとともに坐禅する明恵上人との共通性や、じゃいさんがレビューで指摘された聖愚者というテーマから敷衍される、エラスムスの『痴愚神礼讃』、ワーグナーの『パルジファル』、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』、一休宗純や松尾芭蕉らの「風狂」についても言及したかったが、蛇足が過ぎそうなので、この辺までとしておきたい。
布教活動はセールスマンと同じ
聖フランチェスコとその弟子たちが、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリに滞在した期間のエピソード集。
神の道化師、と呼ばれるだけあって親分のフランチェスコにはまったく偉そうなところがなく、地のまま、純粋な信仰に従って泣いたり笑ったりする。そして慈悲に溢れている。
布施を願いに訪れた豪邸で邪険にあしらわれて泥まみれになっても、「これが完璧な幸福だ」とかそんな意味のことを言って幸せそうだったり、行きずりのハンセン病患者を泣きながら抱きしめたり。
大の男たちがわちゃわちゃしながら同居生活、究極のミニマリスト生活だがなんか楽しそう。上下関係がフラットなラグビーチームの合宿所な雰囲気。
修道士って感情を抑えるものかと思っていたが、彼らは感情豊かで(でも「怒り」はないみたい)口数も多く、さらに動作が機敏で、イメージしていたのと違う。
近隣の美人のシスターが来る、となったら大の男全員小走りでいそいそとおもてなしの準備をしてて、微笑ましく可笑しかった
一番子供みたいなのが、ジネプロで、彼、アタマのネジがだいぶ緩いヒト?と思うけど、無邪気で信仰心篤く、悪気がないどころか善意が故に時々とんでもないことをしでかして聖フランチェスコもアタマを抱えたりする。スーパーポジティブで、処刑寸前までいったのにひるまず、逆に専制君主に包囲を解かせるとか、マンガみたいだけど良いなあ。そして人間縄跳びは衝撃的、元サーカス団員??
彼、フランチェスコのような歯止めをかけて指導してくれる兄貴と分かれた後、どうなったんだろう。
危なっかしくて心配です
いつも思うんだが、修道士はマゾヒストだと思う。
布教活動は、セールスマンと同じだと思った。
(悪い意味ではなく、自分が良いと信じるものを人様に紹介して手に入れてもらい、お布施をいただく、というものなので。良いセールスマンってお客に感謝されますよね。)
幸せについて、考えさせられた。
モノクロ4K、画面はとてもきれいでした。
「人間縄跳び」の衝撃! ホモソーシャルでマゾヒスティックな「聖なる愚者」の優しい寓話。
結局のところ、この映画の見どころはといわれると、
ジネプロ修道士の「人間縄跳び」に尽きるのだが(笑)。
それにしても不思議な映画ではある。
聖フランチェスコの伝記映画と言いながら、その生誕も逝去も描かず、宗教的に重大な聖痕を受ける話にもたどり着かない。11人(+1)の兄弟団の仲間とともにサンタ・マリア・デッリ・アンジェリに滞在した期間のエピソード集に終始し、そもそも全10章のうち、フランチェスコがメインの章が数えるほどしかない。
少なくとも、まっとうな聖フランチェスコ伝を編むつもりはないらしい。
代わりに目立つのは、ホモソーシャルな男たちのわきゃわきゃした連帯感。
それから「聖なる愚者」たちの放つ、いわく言い難い「崇高さ」である。
前者についていえば、たとえば冒頭の大雨のなか12人の兄弟(ブラザー)たちがやって来るシーンからして、ホモソーシャルな空気感がきわめて顕著だ。
ずぶ濡れで、泥んこで、臭っていて、身体の距離が近い。
練習帰りのラガーマンたちのような、体育会臭。
彼らは常に仲良しで、感情豊かで、頻繁にボディタッチを繰り返す。
しきりにお互いの頭をなで合い、ポリフォニーで合唱する。
何かと、穴倉(石造りの縄文住居みたいなやつ)に全員で押し合いへし合いしながら入り込み、押しくらまんじゅうのように密集して、隠棲昆虫のように身を寄せ合っている。
体育会的ではあるが、上下関係で支配されているわけではない。
兄弟団は、ただただフランチェスコに対する敬慕と友愛によって結び付けられている。
理想のホモソーシャル集団だ。
後者についていえば、本作の真の主人公はジョヴァンニ爺さんであり、まだ年若いジネプロ修道士だ。彼らは「聖なる愚者」として作品世界に君臨する。
彼らは、今でいうところのいわゆる発達障害と思われ、軽い遅滞をも伴っている。
ジョヴァンニ爺さんに関しては、軽いどころか重くさえあるのではないか。
そんな彼らが、グループに温かく迎え入れられ、愛され、篤く遇される。
彼らは、通常の人間には及びもつかない何かを成し遂げられる、神の恩寵を賜った存在として扱われる。
人は賢しらな存在だ。
つい考え過ぎ、疑念に苛まれる。
つい私利に走り、自負心に左右される。
人は懐疑心と利己的な精神を捨てるために、
長い修行を重ねて心を鍛錬しなければならない。
対して、愚者は澄み渡った精神を先験的に持っている。
彼らは神を疑わない。信仰を疑わない。教父を疑わない。
単純明快な心で、自分を捨て、他に対して尽くすことができる。
愚者は、むしろ神に選ばれし存在であり、
兄弟たちにとってはまねびの対象なのだ。
ホモソーシャルな修道士たちの関係性と、
「聖なる愚者」の宗教的な追求。
これに加えて、本作を支えている三つ目の重要な柱。
それが、いささかマゾヒスティックな身体性だ。
本作で、修道士たちは常に襤褸をまとい、
裸足で歩き、肉体労働に従事する。
さらには、様々な形で「受難」を被る。
彼らが被る苦難は、単なる大雨や吹き降りの雪といった自然現象から、村民の悪意や無関心といった布教や信仰に関わるもの、病気や疲労といった身体的な窮状、さらには為政者や群衆による暴行や拷問といった殉教聖者のような受難まで、多岐にわたる。
ロッセリーニは、彼らの身体や精神に刻印される痛みやストレスを、必ずしも「苦しみ」としては描かない。
むしろフランチェスコは常に、「神への愛ゆえに辛い仕打ちにも耐える。これが完全なる歓びなのだ。侮辱や試練に耐えること、ここに完全なる歓びがある」と説き続ける。
彼らにとっては、痛みも、寒さも、侮辱も、拷問も、
ひとしく「法悦」なのだ。
これはキリスト教に限らず小乗的な宗教全般に言えることなのだろうが、宗教的な試練や修行に伴う「法悦(エクスタシー)」には、いささかどころではない「マゾヒスティック」な感覚がつきまとう。
ロッセリーニは、この「法悦」の感覚を実に愉しげに描く。
酷い目にあったときのフランチェスコのうっとりした顔。
土砂降りの大雨のなかを歩いてくる修道士たちの妙な昂揚感。
そして何より、空中にぶん投げられ、ぐるぐる振り回され、縄跳び替わりにされてなお薄い笑みを顔に貼り付けている「愚者」ジネプロの澄んだ表情。
ロッセリーニが描きたかったのは、おそらくフランチェスコの生涯でもなければ、宗教的な事績でもない。
彼は、「乞食僧団」とも呼ばれたフランチェスコ会の、「生々しい身体性」と「インティメットな関係性」にこそ関心があったのだ。
襤褸をまとって集団で移動する清貧の修道士たちのなかに、ロッセリーニは「ホモソーシャルな結びつき」と、「聖なる愚者を認容する風土」と、苦しみを歓びに変換する「マゾヒスティックなシステム」を感じ取り、そこに焦点を合わせるべく題材となるエピソードを絞り込み、生き生きとした「男たちのわきゃわきゃ感」をフィルムに刻印してみせた。
こうして、「フランチェスコ伝」の外見を偽装した「男の子たちのいちゃいちゃ群像劇」は完成したのだった。
まだ兄弟団が発展する前の、すべての始まりの時代。
気の合う仲間たちによる、和気藹々とした青春群像。
距離感の近い男どうしの深く結ばれた絆と熱気。
そこには、まったく方向性は違うとはいえ、フェリーニの『青春群像』やパゾリーニの『アッカトーネ』、ヴィスコンティの『青春のすべて』あたりと同種の「若き日のたかぶり」を見て取ることができるだろう。
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●フランチェスコ伝というと、まず思い浮かぶのはジオットによるアッシジの聖フランチェスコ聖堂のフレスコ画。それから、オリビエ・メシアンによるオペラ。2017年に行なわれたシルヴァン・カンブルラン指揮、読売日本交響楽団による演奏会形式での全曲初演には僕も立ち会った。
映画だと、フランコ・ゼフィレッリやリリア・カヴァーニが評伝映画を撮っているようだが、僕は未見。個人的にはパゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』が印象に残っている。
というか、僕は数年前にここで『大きな鳥と小さな鳥』の感想をつけているのだが、当時はあの映画のなかでニネット・ダヴォリ演じるフランチェスコの弟子が、比較的唐突にでんぐり返ししたり、悪ガキどもにボールのように投げ合いされるといったスラップスティックのネタ元をわからずに書いていた。
今は100パーセントわかる。あれは、まさに『神の道化師、フランチェスコ』からのモロパクリネタだったわけだ。
パゾリーニは、鳥に説教するシーンの演出法や、「聖なる愚者」としてのニネット・ダヴォリのキャラクター設定を、間違いなくロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』の影響下に決定している。
「聖なる愚者」という概念は、東洋でいうところの「寒山拾得」とも被るものだが、パゾリーニ作品におけるニネット・ダヴォリの度重なる起用には、フランチェスコ会の影響(およびロッセリーニの影響)が大きかったということか。
●フランチェスコは小鳥に説教した聖人として著名であり、本作でも小鳥に対してフランチェスコが語り掛けるシーンがある。このシーン、僕はヨーロッパの鳥には詳しくないので間違っているかもしれないが、ゴシキヒワとアオカワラヒワが混群しているように思う。
ゴシキヒワはヨーロッパでは大変メジャーな野鳥で、キリストの磔刑と結び付けられるアザミの種を食べることから、絵画表現としては「受難の象徴」としてもっぱら用いられる。ダ・ヴィンチの『リッタの聖母』やラファエロの『ヒワの聖母』でも、磔刑のアトリビュートとして幼児キリストの傍らに描き込まれている。また、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』には、巨大なゴシキヒワが描かれていて大いに人目を惹く。
なんにせよ、ここで敢えてキリスト教に深く関わる鳥として、ゴシキヒワをわざわざ選んで入れてきたのは間違いのないところだろう。
木にとまっているヒワの群れと、フランチェスコを交互に映すモンタージュは印象的。
フランチェスコが肩にとまっている手乗りゴシキヒワをなかなかうまく捕まえられないのだが、そのまま流しでOKを出しているところに、ロッセリーニらしさがでているかもしれない。
●なんといっても、本作で「普通に面白い」のは、ジネプロ修道士とニコライオの対決の章だろう。そこまで基本的には静謐なノリで終始していた映画が、唐突にスラップスティックに豹変し、マルクス兄弟のような身体を張ったドタバタに変貌する。
ドタバタといっても、ジネプロは「常に何もしない」という点がミソで、彼は「モノ」のように振り回され、投げ飛ばされ、でんぐり返しさせられ、担がれ、移動させられ、馬で地面を引きずり回され、ニコライオに脅される。それでも、彼は無抵抗を貫き、「私は罪深い人間です」と繰り返すばかり……。
ここでのジネプロの姿勢には、まさにフランチェスコ会の在り方と精神が集約されていると言っていい。同時に本章は「アクション」としても圧倒的な面白さを併せ持っている(群集心理が呼び起こすリンチと暴徒化の恐ろしさよ!)。
鎖で固定された鉄鎧のなかに鎮座するニコライオのキャラクターも強烈だ。鍾馗様のような異形の風貌にぎょろ目(ちょっとオーソン・ウェルズを彷彿させる)は、ひと目見ただけで忘れがたい。ちなみにニコライオを演じるアルド・ファブリーツィは、本作における唯一のプロ俳優であり、『無防備都市』に続く出演らしい。
彼のテントにジネプロが連れ込まれてにらめっこを始めたときは、もうおかまを掘られちゃうもんだとばかり……(笑)。
●その次の、雪が降るなかフランチェスコとレオーネが布教(托鉢?)に出かけて、ボコボコにされて追い返される章もコミカルな演出が愉しい。
ていうか、俺でもあんないきなりツーマンセルの乞食坊主が押しかけてきて、ガンガン扉を叩いて教化と喜捨を無理やりせがんできたら、追い返すどころか絶対に警察に通報すると思う(笑)。
一見、フランチェスコの側に立って「こんなにひどい目にあった」と描いている「風」を装ってはいるが、実際は兄弟団のやっていることの「怖さ」を示す客観的な描写になっており、今の時代の新興宗教批判とも呼応する部分があって、じつに興味深い。
●それぞれがぐるぐる回って倒れた方向で布教先を決め、二人組の六班に分かれてちりぢりにイタリア各地へと去っていくラストシーンは、なんとなくじんと胸にくる。
皆で分かち合えた青春のひとときの終焉。
寂しいけれど、そこから新しい何かが始まろうとしている。
なんだか、大学卒業でサークルメンバーがそれぞれの道を行くことになるキャンパス・ムーヴィーでも観ているような爽やかで切ないラストだ。
●登場人物のほとんどは、当時ウンブリア地方に住んでいた実際の修道士たちということだが、やはり「もともとオーバーアクションで芝居がかったしゃべり方をする」イタリア人だけあって、皆さん普通に演技をこなされていて感心する。というか「ネオリアリズモ」における素人俳優の登用って「イタリアだったからこそ成立した」部分もあるんじゃないのか(笑)。まあ、いきなり顔に手を当てて「はい泣いてます」ってのは、素人芝居にしてもさすがにあんまりなんじゃないかとも思ったけど……。
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下高井戸にて映画終了後にトークショー。
帰りに道すがら、鑑賞後の若い女性が連れの男性に対して、登壇者の文句をボロカスに言っているのが聞こえてきて、ちょっと笑ってしまった。
別料金が上乗せされているわけじゃないから別にいいっちゃいいんだけど、出演者が素人だってことすら知らない人物が、有識者枠でトークしてるのはさすがに違和感があったかも。実質有意義な情報を語っているのは、もう片方の評論家さんだけなんだから、小屋のスタッフさんがインタビューする形式でもまったく問題なかったのでは?
少なくとも、専門分野についてひとくさりしゃべってくれと頼まれて、シネマカリテ公開時から存在するパンフレットどころか、Wikiすら目を通さずに壇上に上がる勇気は、自分にはさすがにないなあ(笑)。
フランチェスコを見に行ったつもりが、 初めて知ったジネプロの存在に...
フランチェスコを見に行ったつもりが、
初めて知ったジネプロの存在に圧倒されてしまった
映画としては、
古い作品らしい進み方とか場面展開となが、
わかりづらいこともあったけど、良さもあった
これはこれでよしとして、リメイク希望です
フランチェスコ自身より弟子の話の方が、、、
もちろん主人公のフランチェスコの存在感はさることながら、弟子ジネプロのエピソードが、今の時代で観ると、圧倒的にインパクトもあり、映画的に面白いのが不思議。フランチェスコのエピソードは、心洗われるような真摯な気持ちが沸き上がる「キリスト教の本質」を考えさせらる逸話なのだが、少々説教くさいのと、フランチェスコがすぐにメソメソするのが、映画やドラマを観て、「そこで泣く?!」と呆れられる己の姿を見るようで、恥ずかしい感情があり、それよりもちょっと一歩間違えると危ないヤツなんだけど、何かエネルギッシュなジネプロの方が自分は圧倒されてしまいました。まあ、こういうヤバい子分は、使いようでフランチェスコみたいな親分がいないとダメなんでしょうけどね。
ロッセリーニの映画はあまり真面目に観たことなくて、バーグマンとの恋沙汰とかの方が印象に残っていて、こんなほのぼの系の映画を作る人たったのは意外たった。映画の冒頭辺りで、野原を弟子達が動き出すシーンなんて、ミュージカルナンバーのノリ。
半世紀以上の前の映画だけど、リマスターした白黒の色彩も良いし、一度は観てもよい映画かと。
イタリア語と神様
真面目な映画だと思っていたら笑える映画だった。笑えるというのは、微笑んでしまう、もあったし、可笑しくて可愛くて思わず笑ってしまう、もあった。みんなプロの俳優でなくて本物の修道士であることがとても生きていた。
修道士以外の人々の造型も面白かった。暴君はブリキの鎧を着て部下の手助けが無ければ脱ぐこともできない。ブリキのオモチャみたいで可愛くておかしかった。
フランチェスコがハンセン病の男と出会い抱きしめ別れる野原の美しさに息をのんだ。男が去る足元もフランチェスコが男と別れて涙を流してうずくまる野原も、満天の星のように小さな花々がきらきらと光っていた。モノクロなのに、もしかしてモノクロだから輝いた美しさだったのかもしれない。
イタリア語で聞く主の祈りや神への祈りは、神様との距離がとても近い感じがした。隣人への愛や貧しい人に施す思い、もちろん今のイタリアがとかイタリア人全部が、という訳ではないけれど信仰や優しさや人懐っこさは形が変わっても残っている気がした。修道士同士の会話も、これ気にいった?とか、かわいいね、など今のイタリア人がしょっちゅう使う表現でそれこそ可愛かった。見てよかった。
「ブラザー・サン シスター・ムーン」鑑賞が楽しみになった
従来だったら、
話の時系列順に作品鑑賞するところだが、
「ブラザー・サン シスター・ムーン」が
フランチェスコの成長期の話
と聞いているので、
若い頃のどんな体験が彼を聖人化させたのか
を探る意味で観た方が、と思い、
逆の順番だが
聖人後のこの作品をもう一度先に観てから
「ブラザー…」を初鑑賞することにした。
この作品、ロッセリーニ作品の
「無防備都市」「戦火のかなた」「ドイツ零年」
等々の戦中戦後物の
追い詰められた主人公達の深刻な描写とは
異なり、
信徒の純心さが故の不器用な布教活動が、
かなりコミカルに描かれていた。
このコミカルさは実際の修道士が演じた
ために生じた、素人ながらも
彼らのアイデンティティ溢れる演技と、
ロッセリーニ監督の
見事な演出の賜物だったろうか。
特にジネプロが布教に行ったエピソードが
面白い。
彼の純心さが、隣町を包囲した野蛮人集団
のボスの心までも懐柔して
その包囲を解く結果までももたらした。
そして、
その野蛮人のボスの存在感は圧倒的だ。
彼が「無防備都市」の神父役の俳優とは
気が付かなかったが、まさに
助演男優賞級の演技ではなかったろうか。
フランチェスコの精神が
この世の中に浸透していたら、
今日の戦争の恐怖も、
地球環境の危機も、
格差社会も、
何もかも無かったのではないかと思わせる。
ただただ神の存在を信じ、
施しに徹するフランチェスコの境地は、
私も含め、
人類が失ってしまった“心”なのだろう。
私にとっては、「ブラザー・サン…」鑑賞が
控えているためか、
初めてこの作品に接した時よりも
大変興味深く観ることが出来た。
さあ、「ブラザーサン…」では
この心境に至ったフランチェスコの
若き日々をどう描いているだろうか、
初鑑賞がますます楽しみになった。
素朴にして深い、ロッセリーニの演出美
永らく日本未公開だった為、聖人フランチェスコを初めて知ったのが、ゼフィレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン」だった。サンフランシスコの地名の由来ぐらいの知識しかなかった。そのゼフィレッリ作品は、現代的な青春映画のような爽やかさが特徴の秀作で感銘を受けたのだが、このロッセリーニ作品は、イタリア・ネオレアリズモ表現の厳しさに心打たれることになる。
13世紀に活動した聖人フランチェスコと11人の弟子たちの布教のエピソードを綴ったキリスト教映画。史実の伝記ものではないので堅苦しさはなく、ユーモラスな逸話集のオムニバス映画の趣が、自然に映画の世界に誘う。主演のナザリオ・ジェラルディの演技が素晴らしい。ジェラルディ始めその他修道士は全て、役者ではない本物のフランチェスコ会修道士の人達が演じている。その素朴な演技に吸い込まれ、実在のフランチェスコを難なく想像してしまう。そんな淡々とした流れの中で、レプラ患者に遭遇する夜のエピソードと、ジネプロと暴君ニコライのエピソード、この二つの挿話が作品に深さと厚みを加えている。
日本では、デ・シーカやヴィスコンティが有名で、比べてロッセリーニ作品は鑑賞の機会が限られていた。「無防備都市」で衝撃を受けたもののまだ数本しか観てはいないが、ロッセリーニ監督の映画には、映像の本質を見極めたカットやシーンがあり、観ていてハッとする瞬間がある。この作品では、特にレプラ患者とすれ違うカットに息を呑んだ。
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