アメリカン・ビューティーのレビュー・感想・評価
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地に足がついていない人びと
この映画は、最初から最後までずっとクレイジーというか、ヘンだった。
登場人物ほとんど全部が言動が極端だけれど、それもなかなか絶妙で、ありそうでないような、なさそうであるような、、、
なので、「これはリアルではない」と軽い気持ちで笑いながら見るものの、感覚的には身に覚えがあったり、「身近にこういう志向の人いる」と思わされ、結果的には全く他人事ではなった、ということになる。
日常は、そして人生は、リアルにけっこうこんなものだな、と思わされてしまう。
だらしなかったり、見栄をはったり、つっぱってみたり、トシや立場を忘れて子供のようになったり、大人であっても自分の悩みが解決ないままだったり、ない物ねだりをしたり。
最後に主人公は良心や感謝の念を抱くようになるけれど、そのときは人生はもう終わりだったりするところも!
本当のところで地に足がついていない現代の人々を、一段高いところからコミカルに描いたのだと思う。
なかなか凄い見せ方だなぁ~と感心してしまう。
病んでいるのは彼らだけではない
なんなんだ、この映画は‥
人生は離れてみると可笑しくて、愛おしい
一見すると平凡で何の変哲もないアメリカの住宅街、中流家庭。
その青い芝生の向こう側には様々な欲望、秘密、孤独がひしめいているというお話。最後にはある事件が起き、主人公は亡くなってしまう。
その引き金をひく些細な契機となったのは、引っ越してきたお隣さん。閑静な住宅街、並木の街道…
完全にドラマ『デスパレートな妻たち』の下敷きとなった作品である。デスパの原作者マークチェリーは同性愛を公言しているが、ゲイにとって本作の与える衝撃は小さくないだろうと想像する。
最後、主人公の心に何が起こったのか。娘の友達に欲情し、枯れた心が舞い上がってハッパにハマり、会社も辞め、女の子に気に入られるため肉体改造に励んだ。
しかしいざその時になって彼女が「実は処女なの」と打ち明けると途端に勢いを失う。一つの真実に気づいたのだ。
自信に満ちた様子で、経験豊富と自称する、完璧な容姿の若い娘でさえ、ありのままでは生きていない。弱さを抱えているのだと。
幻想を投影していた存在の内面に触れた時、男は我に返る。
綺麗に庭の手入れをする完璧な奥さんも、奔放に生きる完璧な美少女も、人々が羨む象徴だ。しかも両者ベクトルが真逆なだけで、根は全く同じ。
人目を意識して嘘を演じている。ありのままの自分に耐えられないから。
そんな自分を内心分かっているから、美少女は同族の奥さんを嫌い、自分は退屈な女だけにはなりたくないと言うが、親友の彼氏から「君はうんざりするほど平凡な女だ」と見抜かれ自暴自棄になる。
更には厳格な父親、硬派な男を絵に描いたような軍人のお隣さんが本当は…彼のコレクションのナチの皿はタブーの象徴で、真のタブーを隠すための脆い蓋だった。
「尊敬出来る父親が欲しい」と羨んでいた主人公の娘が真実に気づくのは遠くないだろう。
「庭の手入れをする妻の剪定バサミとガーデンシューズの色がピッタリ同じなのは偶然じゃない」という一節がとても気に入った。私もきっと揃えると思う…そんな実用品、ましてや家庭内のものまで見栄えを意識する虚栄心の強さにうんざりということなのだろう。
それでも主人公は最期に、そういった人の弱さに気が付き、素朴な愛情を感じたのかもしれない。
ちなみにアメリカン・ビューティーというのはバラの品種名で、人々の欲望を象徴するモチーフなのだと思う。
原始的な元ネタ
ユージュアルサスペクツのレビューに、世評が高いけれど、じぶんには面白くなかった──と書いたが、これもそんな映画のひとつ。アメリカンビューティー(1999)。
1917のサムメンデス監督のデビュー作として知られimdbが8.3(!)。rotten tomatoesでも87%と93%。ユージュアルサスペクツとほぼ同値のとても高い評点を得ている。
屁理屈な発言だとは思うが、面白くなかったけれど、わかんないわけじゃない。アメリカンビューティーには明らかな普遍性があった。
典型的なアメリカの家族──というものがある。ウィルフェレルの、アダムサンドラーの、スティーヴマーティンの、ナショナルランプーン系の・・・、──どの家族も父母姉弟がおなじキャラクタライズをもっている。キャリアな母、ダメな父、いけいけな姉、ギークな弟。かれらが家庭内不和の危機を乗り越え、一致団結する顛末がファミリー映画の定石になっている。
American Beautyはもっとずっとシニカルで破滅していくドラマだが、皮相はそんな感じ。それらの原型だった。
原型だからこそ、1999年の本作を現代人がみると、かえってありきたりに見えてしまう。原型=老舗の不幸と言える。
たとえば新海誠は岩井俊二のLove Letterに多大な影響を受けている。だけど新海誠のほうがずっと面白い。
あるいは、たとえばタランティーノは深作欣二から多大な影響を受けている。だけどタランティーノのほうがだんぜん面白い。
世の創作物は、おうおうにして、多くのクリエイターに影響をあたえた「元ネタ」のほうが、プリミティブ(=原始的)で、不器用であり、その影響をうけてつくられた後進のほうが器用で多芸なものだ。(ぜんぶじゃないけど。)
シオドアスタージョンというSF作家がいて人間以上(1953)というのを書いた。
まえにもどこかで引用したがその文庫のあとがきに、こうある。
『(~中略)そのなかでも、とりわけスタージョンの影響が強いのはサミュエル・R・ディレーニイである。
ある意味でどこか完成しきっていないようなもどかしさを残すスタージョンの世界が、もしもひとりで成長していってバランスのとれた宝石になっていったとしたら、それはおそらくディレーニイの諸篇に非常に酷似したものになるにちがいない。作中人物の口を借りて、彼みずからがスタージョンを賛美する『エンパイア・スター』はもとより、「流れガラス」や「スター・ピット」に見え隠れする色調は、スタージョン以上にスタージョンらしさがでている。』
(ハヤカワ文庫版シオドア・スタージョン著、矢野徹訳「人間以上」の水鏡子のあとがきより)
スタージョンの人間以上はすごい小説だがあまり面白くない。笑。ディレーニイという後発のSF作家は面白い。だけどスタージョンに影響をうけていることが明瞭にわかる。
そんな、世によくある現象のことを、このあとがきの一節は、うまく言い得ている。
スペースインベーダーとかブロックくずしとか、そんなゲームがむかし、あった。それらは開祖でありシンプルで偉大なゲームとはいえる。でもいまそれをやっても面白くない。(言うまでもないけれど)シューティングでも落ちモノでも、いまはビュジュアルもギミックもそれよりはるかに面白いゲームがあるからだ。
そんな原型=老舗の不幸は、とうぜん映画にはよくある。ただし(もちろん)もともと力量のないコンテンツには、原型も発展型もない。なんらかの「発明」をもっているものが原型たりえる。岩井俊二のLove LetterもサムメンデスのAmerican Beautyもじぶんとしては面白くはなかったけれど原型となる「発明」があることは、すごくわかった──という話。である。
American Beautyをごらんになればわかるが、家庭を持つ中年男性がかかえる危機(ミドルエイジクライシス)を象徴にしている。
それは、きょうび巷間のコンテンツが耳タコ目タコができるほど繰り返し提供するプロットでありキャラクタライズになっている。
おっさん、セックスレス、そこそこ中産階級、その定石から若い女に年甲斐もなく入れあげてしまう反作用──かんぜんにどこにでもある話──である。だけどAmerican Beautyはそれらに先んじていた。陳套なプロットおよびキャラクタライズの「原型」だった。
で、おもしろくはなかったけれど「わかる」という屁理屈になったわけ。
あらかじめ偉そうなことぬかしやがって──とツッコみをいれたうえで偉そうなことをぬかしますが「おもしろくはなかったけれどわかる」とはリテラシーだと思います。わかんない&つまんないだけだと動物です。
(もちろんこれは名作にたいする定義です。未成熟なさくひんやザ日本映画はわかんない&つまんないだけでじゅうぶんです。)
じっさいのところを白状してしまうと、個人的に(アメリカンビューティーのように)象徴化された人間模様は苦手。人物連鎖と悲喜こもごも──の構造にできすぎ感/つくりものっぽさを感じました。
ポールトーマスアンダーソンのマグノリア(1999)やTodd FieldのLittle Children(2006)やポールハギスのクラッシュ(2005)は(わたしにとって)この映画と(すごく)似た肌感(できすぎ感)をしていて、いずれも高評価なのだが、いずれも「わかる」けれど、あんまり──という感想です。
虚栄心
劇場公開時に見に行って、20年ぶりに観たら内容ぜんぜん覚えていなか...
劇場公開時に見に行って、20年ぶりに観たら内容ぜんぜん覚えていなかった。最初のシャワーシーン、アネットベニングとピーターギャラガーがやってるとこ、ラストシーンだけ覚えていた。ビニール袋が舞う動画を二人で並んで見てるシーンが超イイと思った、記憶になかったのだが。
「アメリカ的美しさ」ってなんだったんだろう
結末は共感できなかった!!
ケヴィン・スペイシーが主演なのが今となっては笑えますが、すぐ慣れました。安易にエロティックな方向へ走らず、あくまで自分の生活の範囲でそれぞれが何となしていくしかないという、現実的な内容なのは好感を持ちました。そして溜めた所で最後にご褒美タイムというのも良かったですが、結末は共感できませんでした。ポリコレ全盛の現在よりゲイの扱いが自然のように思います。
当時のアメリカの世情、ただちょっと押し付けがましいか
カイザー・ソゼ。
タイトルの「アメリカン・ビューティー」とはバラの品種の一つである。...
タイトルの「アメリカン・ビューティー」とはバラの品種の一つである。色合いは極めて色が濃く、真紅の色合いで美しい。そしてそれを象徴するように作中に散りばめられていて、演出を際立たせている。
一見するととても美しいがそのタイトルとは裏腹に、嫉妬・妬み、欠点を隠しながら生きる中流階級の生き様を見せられる。しかもそれはとてもドロドロしている。
高級な住宅街で繰り広げられる人間劇はとても皮肉にまみれている。娘の友達に性的に惚れる父親。極めて保守的で同性愛者を憎むが自身もまた同性愛者である軍人の男。そんな親を持ちながら影では麻薬を売りさばく息子。堂々と昼間から浮気をする母親。
そんな人間的に欠点のある人達がそれを上手く隠しながら暮らしている。それが見ていてどこか不器用なんだけど、しかしとても愛らしい。
それに加え、この作品は人と人とのコミュニケーションが如何に難しいのか、家族の中でのぶつかり合いも描いている。
ケビン・スペイシー演じる中年の男はとにかく妻と衝突する。それに加え年頃の娘との軋轢が凄まじい。
彼は最初から最後まで娘とは上手くいかないが、物語の最後、しかしそんな娘にも彼氏が出来たと聞いたときの安堵した表情はとても一言では言い表せないくらいの、あの笑顔は本当にたまらないものがある。あの一瞬の場面でそれをやりきるスペイシーの演技には舌を巻いた。
それに単なるいがみ合いだけを描き切るのではなく、すれ違っていたけど実は心の奥底では憎みきれていない繊細さも最後に持ってくるので2転3転と楽しめる映画だと思う。とても味わい深くまたいつか見たいなぁと思える、とても魅力的な作品だった。
永久保存版🙆♂️
現実的な歪み
アメリカのファミリーとは
両親の夫婦関係は破綻しており、父親(ケヴィン・スペイシー)は娘(ソーラ・バーチ)の友だち(ミーナ・スヴァーリ)にゾッコン、母親は同じ不動産業のやり手セールスマンにゾッコン、娘は隣に引っ越してきた青年にゾッコン。
青年の父親(クリス・クーパー)は海兵隊上がりで強面なのだが・・・。
アメリカ人が好きな家族なんてこんなもの、なんて声が聞こえてきそう。
虚栄心を捨て去って
家族関係は冷え切っていて、仕事もリストラ寸前。しまいには娘の友人に性的興奮を感じる始末。ダメダメで情けない父親レスターだが、ある時吹っ切れて、感情を解き放ってから、生き生きし始める。
家族関係が悪化するにつれ、対照的にレスターの幸せが増していってるようで面白かった。
隣人のリッキーは盗撮したりと異常なように見えるが、ソーラは惹かれていく。初めは友人ミーナばかり注目されていて不満で、盗撮といえど自分を見てくれて嬉しかったからだと思っていた。ソーラ含め主要登場人物は皆んな虚栄心に満ちている。そのなかで、リッキーだけがありのまま純粋でいたから惹かれたのかな。
今作から、見栄張って生きているといつか爆発しちゃう。その前にありのままになってみれば本当の幸福に気づけるよというメッセージを感じた。
ケビンスペイシーは俳優として復帰はもう無理そうだけど、もったいないなぁ…
普通の家庭のあやうさを描いた映画
アメリカ人の為の映画
人は「美しさ」に惑わされる。
・人が心奪われちゃうのは「美しさ」であること
・本当に欲しいものではなくても、美しいものはつい欲しくなっちゃう
・だけれどそれ以外に「本当に欲しいもの」を誰もが持っている
・それに気付いたり忘れたりして生きている
・その生き様は美しいなんていえたもんじゃなく、泥臭くて、情けなくて、愛らしい。
・自分にとって本当に欲しいものだけを見分けていけたら幸せなんだなぁ
・ケヴィンスペイシーのやわらかマッチョ感が非常にマッチしている
・音楽の使い方に愛がある
・笑いのトーンが「家族ゲーム」っぽい
・実は社会派な映画なんだね
・物質的に豊かになっていく代わりに、惑わされることも増えていくから、自分にとって何が本当に大事なのか、自分は何を一番欲しいと思っているのかが見えづらくなる
・いつの時代もそれを見分ける力が大事なんですね
・シンプルに生きるッッッ
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