「脱いだのは佐分利ではなかった」砂の器 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
脱いだのは佐分利ではなかった
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芥川也寸志の音楽がドラマを盛り上げる。
しかし、殺人事件の容疑者の動機について、ここまでその心理に迫る警察の捜査など現実離れしているとも思うが、やはりここは、犯人探しではなくその動機がどこにあるのかというサスペンスが肝なのだ。だからこそ丹波哲郎の捜査会議での報告と、加藤剛のコンサートシーンが長々と並行するのだ。
主人公にとっては、懶病の父親を持つ事実は消してしまわなければならないことだった。それは単なる過去の隠ぺいではない。このことは、捜査が結末を迎えた時点でなお療養所で生きていた父親が、加藤剛との親子関係を悲愴な表情で否定したことや、家庭の温かみにあふれた緒方拳の養育から逃げ出したことでも強く訴えかけている。
自らの運命と対決をしなければならない主人公にとって、彼の作品のタイトルでもある「宿命」という言葉に行きつくのだろう。この病気に限らず、差別や偏見によって苦しみに満ちた人生を歩む人にとっては、どこかでそれと対決しなければならないときが来るのだろう。
このことを表現するために、映画は長い時間を費やしている。
しかし、このクライマックスに至るまでの、丹波や森田健作が捜査で歩くシーンを深度の深いショットで撮っているところなど、足を使った捜査の表現が巧い。
また、笠智衆、渥美清という松竹の看板役者が端役で出ているところ、そしていつもなら洋服を脱ぎ捨てる佐分利信が、今回は脱ぐシーンがなかったところなど興味深かった。脱いだのは佐分利ではなく島田陽子だった。
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