鬼畜

劇場公開日:1978年10月7日

解説

父を思い続ける息子と、環境に押し流されて正気を失う弱い父親、大人と子供の世界を較べながら、切っても切れない親子の絆を描く。松本清張の、昭和32年に事実をもとに書き下ろした原作の映画化。脚本は「ダイナマイトどんどん」の井手雅人、監督は「事件」の野村芳太郎、撮影は「事件」の川又昂がそれぞれ担当。

1978年製作/110分/日本
原題または英題:The Demon
配給:松竹
劇場公開日:1978年10月7日

あらすじ

竹下宗吉と妻、お梅は川越市で印刷屋を開いていた。宗吉は小金が貯ったところで、鳥料理屋の菊代を囲い七年間に三人の隠し子を作った。おりあしく、火事と大印刷店攻勢で商売は凋落した。手当を貰えなくなった菊代は、利一(六歳)良子(四歳〉庄二(一歳半)を連れて宗吉の家に怒鳴り込んだ。菊代はお梅と口論した挙句、三人を宗吉に押しつけて蒸発した。お梅は子供達と宗吉に当り散らし、地獄の日々が始まった。そして、末の庄二が栄養失調で衰弱した。ある日、寝ている庄二の顔の上にシートが故意か偶然か、被さって死んだ。シートのあった位置からお梅の仕業と思い乍ら宗吉は口に出せない。「あんたも一つ気が楽になったね」お梅の言葉にゾーッとする宗吉だが、心中、ひそかな安らぎをも覚えるのだ。その夜、二人は久しぶりに燃え、共通の罪悪感に余計、昂ぶった。その後、宗吉は良子を東京タワーへ連れて行き、置き去りにして逃げ帰った。長男の利一には「よそで預かって貰った」といい訳した。お梅は利一を一番嫌っている。兄弟思いで利口な利一の白目がちな目が、お梅夫婦のたくらみを見抜いているようだ。何日か後、宗吉は、こだま号によろこぶ利一をのせ、北陸海岸に連れて行った。断崖上の草原で蝶採りに遊び疲れ眠りこけた利一を宗吉は崖下に放り出した。翌朝、沖の船が絶壁の途中に引掛っている利一を発見、かすり傷程度で助けだした。警察の調べに利一は父親と遊びにきて、眠っているうちに落ちたと云い張った。名前、住所、親のことや身許の手がかりになることは一切いわなかった。しかし警察は利一の服のメーカーのマークが全部切りとられていたことから、事故ではなく、利一は突き落とした誰かをかばっていると判断した。利一の黙秘に警察はお手上げになった時、偶然、入ってきた名刺屋が、利一の持っていた小石に注目した。利一が“いしけりの石”と話すそれは、石版用の石で、インキをこすれば、消えた版が再現できるかもしれない。警察の捜査が開始された。移送されてきた宗吉が警察で親子の対面をした。「坊やのお父さんだね?」警官の問いに利一が激しく拒否した。「よその人だよ、知らないよ、父ちゃんじゃないよッ」手錠がかかった手を合掌するように上げて、涙を流して絶叫する宗吉の声が部屋いっぱいに響いた。「利一ッ……かんべんしてくれ!」

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第2回 日本アカデミー賞(1979年)

受賞

監督賞 野村芳太郎
主演男優賞 緒形拳
技術賞 川又昂

ノミネート

作品賞  
脚本賞 井手雅人
助演女優賞 小川眞由美
音楽賞 芥川也寸志
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映画レビュー

3.5虐待の様子がリアル

2025年6月30日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

知的

驚く

 妻役岩下志麻の虐待シーンは見事であり、夫役緒形拳が妻の圧力に気押されて子供達を「始末」するという最悪の選択をする流れが違和感なく描かれている。

 名優の素晴らしい演技が楽しめる一方で、子役のセリフが棒読みなのが残念極まりない。エンディングで父親を否定する際の長男役の表情はとても良いのだが、そこに至るまでのシーンでのセリフが酷すぎた。

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クネーゴ

4.0隠し子三人を伴って突如現れた愛人

2025年6月4日
PCから投稿

原作は松本清張の1957年作の短編小説。

宗吉(緒方拳)は女中の菊代(小川真由美)と懇ろになり不倫の末、三人の子供をつくるが養育費を払えなくなると、菊代は宗吉の本妻のお梅(岩下志麻)の前に現れ、子供らを残して出奔する。
子供らはお梅の目の敵にされ、宗吉に始末するようけしかけるなか、弟は病死、妹は行方不明となり、兄も命を狙われる。

IMDBの野村芳太郎には79個の監督作品があったが点がついていたのは23個で、いちばん得点が高いのがこの鬼畜、二番目が砂の器、三番目が疑惑。すべて松本清張作品であり、それ以下も松本清張と組んだ「霧プロ」作品が並んでいた。
鬼畜は野村芳太郎の代表作といえる。

鬼畜がよかったのは職人型の野村芳太郎が監督したからだと思う。子殺し願望をもった正に鬼畜な夫婦の話なので、鬼才型が監督すると監督の自我が絵に乗ってくる。
日本映画において、非道な話に鬼才の自我が乗ってくると園子温や蜷川実花に代表されるようなこけおどしなバイオレンスができあがる。

鬼才とは映画制作よりも自身の箔付け、功名や映画祭受賞を目的とした監督のことを言い、日本映画界は鬼才だらけなので、もはや日本映画の特徴と言える。
鬼才監督は非道だったり衝撃的だったりする題材をもってきて箔付けにつかうのが常套手段なので、鬼畜は願ったり適ったりなストーリーといえる。
しかし職人型監督野村芳太郎によって淡々と描かれた結果、鬼畜は野村芳太郎の代表作になった。

概して野村芳太郎の映画からは、野村芳太郎の個は見えず、たんに松本清張原作の映画を見たという感じになる。味付けをしないこと、そこに職人型の価値がある。

とはいえ映画鬼畜は1978年の作品なので、現代日本映画と比較するのは無理がある。
そもそも昔の映画を見ていると10分に一回あるいはそれ以上の頻度で「今ならコンプラ的にぜったい無理だろう」という描写が出てくる。
ひるがえって我々が生きている現代というのは、現実にあることを「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼける時代と言っていい。

つまり現代社会に生きるわれわれというのは謂わば一億が芽郁の気分であって、じっさいに男とっかえひっかえの不倫やっていてもぜんぶ誤解だと言ってしまえる厚顔で生きていると言っていい。それを評してしばしば彼女はメンタルが強いと言われるが、メンタルが強いわけじゃない。単に彼女のやったことがコンプラ的に無理なだけで、あるいは彼女のやったことが単に放送コードの限界を超えているというだけのことで「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼける以外に彼女に手段はなかったのだ。

その芽郁の気分と、現代社会のコンプラというものが同質なので、わたしたちは現実に有り得ることを「いやそんなことはありませんよ」と、そらとぼけながら生きている。と言いたかったわけである。
スマホもインターネットもない昭和では誰かに連絡をとるにしたって出向いて行くか家に一台ある据え置き電話に電話するか手紙に頼る他に手段はない。そんなだから隠し子が発覚するにしたって菊代がいきなり三人の子供をつれて宗吉の家にやってくるわけだ。現代はそんな怒濤の修羅にはならないが、ならないかわりにLINEのトーク履歴が発覚して相思相愛すぎだよねとか言っておきながら、そんな事実はないと、そらとぼけるしかない。
言ってみれば昔とは比べようがないほど不正直な時代である。とは言える。
一億総民がコンプラや体裁のために、そらとぼけながら生きている、と言っていい。
したがって現代では、愛人が突然隠し子三人を伴って会いにやってくることはなくても、その代わりSNSで拡散され、あとからもっと大きな負債や罰が降りかかってくる、という感じだろうか。

これと翌年の今村昌平による復讐するは我にありによって、緒方拳は演技派かつギラギラした男の代表格のようになった。岩下志麻はきれいすぎる汚れ役だった。緒方拳岩下志麻小川真由美のほかにも、蟹江敬三大滝秀治田中邦衛大竹しのぶ、濃く懐かしい顔ぶれがあった。

みんな汗しており暑さがよく描出されている映画だった。IMDB7.4。

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津次郎

4.0小川真由美こそ国宝かよ

2025年5月12日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

小川真由美は国宝だったんだなと。緒形拳ももちろん凄いんだけど、畳み掛ける表情・声色・心情変化のジャストっぷりはさながらF1レーサーのよう。コンビ作品として福祉するは我にありと、どっちが先でしたっけ。

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満天

4.0【”我が子に親である事を否定された男。”今作は野村芳太郎監督が急増する子への虐待に警鐘を鳴らし”親になるなら、自覚と責任と覚悟を持て!”と言うメッセージが重く響く社会派作品なのである。】

2025年5月7日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

悲しい

怖い

難しい

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NOBU