ひなぎく

劇場公開日:2026年3月14日

解説・あらすじ

1960年代チェコ・ヌーベルバーグを代表する一作で、「マリエ1」と「マリエ2」という奔放な2人の少女が繰り広げる大騒ぎを、色ズレやカラーリング、実験的な光学処理、斬新な効果音、唐突な場面転換など冒険心に満ちた多彩な手法を用いて描き出した。

金髪のボブにひなぎくの花輪をのせた姉と、こげ茶の髪を2つに結んだ妹。2人はともに「マリエ」と名乗って姉妹と偽り、男たちを騙して食事をおごらせた挙句に嘘泣きして逃げ出したりと自由気ままに生きている。部屋の中でも、牛乳風呂に入ったり紙を燃やしたりとやりたい放題。グラビアを切り抜き、ベッドのシーツを切り、ついにはお互いの身体をちょん切り始め、やがて画面そのものがコマ切れになる。

監督・脚本は、チェコ映画の先駆者であり、チェコ・ヌーベルバーグで最も著名な女性監督ベラ・ヒティロバー。主人公の2人を演じたのは、オーディションで選ばれた素人のイトカ・ツェルホバーとイバナ・カルバノバー。そのほかの登場人物も作曲家やデザイナーなど、プロの俳優ではない面々が務めている。日本では1991年に吉祥寺バウスシアターで初めて正式に劇場公開され、口コミでロングラン上映となった。以降もカルト的人気を集め、2026年3月には製作60年、日本公開35年を記念して4Kレストア版でリバイバル公開される。

1966年製作/75分/チェコスロバキア
原題または英題:Sedmikrásky
配給:チェスキー・ケー
劇場公開日:2026年3月14日

その他の公開日:1991年3月3日(日本初公開)、2007年9月1日、2014年5月10日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)Czech audiovisual fund, source: NFA

映画レビュー

4.0 美しい!

2026年5月27日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

楽しい

斬新

カワイイ

主人公二人のスタイルが良く、服の着こなしやコケティッシュな仕草が見ていて楽しかったです。
ナンセンスで奇抜な映像が続く感じで、内容を追うというよりは雰囲気を楽しむ、アート映画寄りな作品だと思いました。
ただ、そのアート要素は、なかなか類を見ない美しさで、とても良いです。

当時の政府に上映を禁止されたという背景も加味すると、冒頭の映像や最後の字幕など、メッセージ性にも富んでいるなと感じました。

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Omi

3.5 やりたい放題、自由を求めてたのかな

2026年5月8日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

斬新

カワイイ

金髪のボブにひなぎくの花輪をのせた姉と、黒髪でツインテールの妹。2人はともにマリエと名乗り、姉妹と偽り、男たちを騙して食事をおごらせたり自由気ままに生きていた。部屋の中でも、牛乳風呂に入ったり紙を燃やしたりとやりたい放題。グラビアを切り抜き、ベッドのシーツを切り、パーティー会場に入り込んで食べ散らかし・・・そんな話。

チェコスロバキア社会主義国で自由のない中制作されたという背景を知ってから観ると感慨深いものがある。
カラフルな線路や蝶のカラーリングの奇抜さに驚いた。
パイ投げもどき、汚い食べ方、何を見せられてるのかわからないが、社会主義国でこれは上映出来ないだろうな、と感じた。
主人公の2人イトカ・ツェルホバーとイバナ・カルバノバーがやりたい放題してるだけにも見えるけど、弾圧された政治への反発なのかも。
黒髪のイバナ・カルバノバーが魅力的だった。

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りあの

4.0 タイトルなし(ネタバレ)

2026年5月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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りゃんひさ

4.5 消費しか"できない"世界

2026年4月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

本作は、一見するとポップで軽やかな実験映画のように見えるが、その内実は極めてラディカルで、しかも不気味なまでに現在的な作品であると感じました。

冒頭の爆撃シーンに象徴されるように、この作品の世界はすでに「壊れた後」から始まっています。ここで重要なのは、「壊された」という出来事そのものではなく、「壊れた状態が前提になっている」という点です。つまり、歴史の連続性や価値の積み重ねといったものが、最初から機能していない世界なのです。

その結果として現れるのが、断片化された映像と、連続性を拒否する編集です。本作のカットは一つひとつが異様なほど決まっており、まるで絵ハガキのように強烈な印象を残します。しかしそれらは物語を積み上げるために存在しているのではなく、むしろ連続性を断ち切り、意味の流れを破壊するために配置されているように見えます。カットが「つながらない」のではなく、「つながることを拒否している」と言った方が正確でしょう。

この断片化は、単なる映像的実験ではなく、世界の認識そのものの断片化を示していると感じました。つまり、歴史が断絶したから断片化したのではなく、そもそも世界が断片としてしか認識できない状態にあるという前提です。

登場人物である二人の少女も、この断片的な世界の中で「人物」として存在しているというより、「状態」として漂っているように見えます。彼女たちには家族が存在せず、過去も未来も示されません。社会との接点も極めて曖昧で、仕事をしているかどうかすら意味を持たない。つまり、時間軸(過去・現在・未来)と社会的文脈が切断されており、存在を支える基盤が欠落しているのです。

その中で繰り返されるのが「消費」です。

彼女たちは男たちと関係を持ち、食事を奢られ、物を受け取る。男たちは彼女たちの性的な側面を消費し、彼女たちは男たちを資源として消費する。しかしここで描かれているのは、単なる搾取や享楽の構図ではありません。より本質的なのは、「関係」が成立していないという点です。

本来であれば、人間関係とは理解や対話、あるいは愛といったものを通じて形成されるはずです。しかしこの作品では、それらがすべて「消費」に置き換えられている。つまり、関係の代替として消費が機能しているのです。

その結果、何が起きるか。

すべてがリセットされます。

出会いは蓄積されず、経験は意味を持たず、時間は積み重なりません。何度繰り返しても同じことが起こり、同じ場所に戻る。この「履歴が残らない」構造こそが、本作の核心の一つであると感じました。

存在とは本来、他者との関係や時間の連続性の中で確定していくものです。しかしここでは、関係が消費に置き換えられ、時間がリセットされるため、存在そのものが確定しません。彼女たちが「自分たちはなぜ見えないのか」と語る場面は、その象徴でしょう。

見られること、そして見ること。この相互作用が成立しないとき、人は存在を確定できない。本作では、彼女たちが他者から見られていないと同時に、彼女たち自身も他者を見ていません。その結果として、相互承認が崩壊し、存在が希薄化していくのです。

さらに恐ろしいのは、その構造の中に観客自身も含まれている点です。観客は彼女たちを見ているつもりで、実際には消費しているだけかもしれない。批判しているつもりで、その構造の外に立てているわけではない。この映画は、その不快な事実を静かに突きつけてきます。

終盤の晩餐のシーンは、そのすべての集約です。食べ物、儀式、文化といった意味の体系が徹底的に破壊され、最後にそれを「元に戻そう」とする試みがなされます。しかし、それは完全に失敗します。壊れたものは元には戻らない。それは物理的な意味ではなく、意味の体系そのものが不可逆的に崩壊しているということです。

そして重要なのは、この作品が「どうするべきか」を一切提示しない点です。

しかしそれは、答えを提示しないというよりも、「答えを考えるための地盤がすでに存在していない」ことを示しているように思えます。善悪や価値判断が失われたのではなく、それらを成立させる前提そのものが消えている。

その結果として残るのが、「消費しかできない状態」です。

そしてさらに厄介なことに、その状態はどこか楽しげに見える瞬間すらある。この軽やかさと虚無の同居こそが、本作の最も不気味な部分でしょう。

本作は、消費社会の批判というよりも、すでにその中にいる私たちの「状態」を可視化した作品であると感じました。壊れた後の世界で、それでもなお何かを消費し続けるしかない存在。その姿は決して彼女たちだけのものではなく、観ている私たち自身の姿でもあるのかもしれません。

鑑賞方法: 映画館 (4Kレストア版)

評価: 92点

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neonrg

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