ブラックブック : 映画評論・批評
2007年3月20日更新
2007年3月24日よりテアトルタイムズスクエア、アミューズCQNにてロードショー
オランダに還ったバーホーベンがリビドーを再起動
思えばハリウッドの世紀末とは、バーホーベンがレイティングの壁と闘いながら倒錯的なセックスとバイオレンスで全世界を魅了して暴れまくり、挙句の果ては透明人間になったくせに(「インビジブル」)、無残にも去勢されていった時代だった。母国オランダに還った彼は、意気揚々とリビドーを再起動させ、歴史の闇と戦争の本質を暴きながら、一筋縄ではいかない戦時下の錯綜した人間模様と人間性のはらわたを描き出している。
ユダヤ対ナチスといえば、映画が幾度も描いてきた差別や善悪の構図だが、しかしそこはあくまでもバーホーベン。スピルバーグのように深刻になることも、ポランスキーのように峻厳になることもなく、どこまでも娯楽サスペンスを基調とする。家族をナチスに惨殺されたユダヤ人ヒロインはレジスタンスのスパイとなり、陰毛までブロンドに染めて敵地に潜入し、復讐の機会を窺う。ところが、英雄的な組織といえども一枚岩ではないところに、この映画の真骨頂がある。
善人ぶった悪人ほど始末の悪いものはない。騙し合いの果てに訪れる終戦。最もグロテスクなのは、ナチス高官でも、欺いた仲間でもなかったという真実。“彼ら”の手によってヒロインが“汚物”にまみれる場面こそクライマックスだ。ここでは虐殺も裏切りもファックも、当然の出来事のようにあっけらかんと描かれる。醜く馬鹿げた行為を声高に告発しようとはしていない。人間とは元来そんな生き物さ、とバーホーベンは高らかに笑い飛ばしているかのようでさえある。
(清水節)