ヤンヤン 夏の想い出
劇場公開日:2000年12月16日
解説
エドワード・ヤン監督が「カップルズ」以来4年ぶりに取り組んだ家族劇。ヤンヤンは祖母と両親、姉と台北のマンションに暮らすごく普通の家庭の少年。ところが、叔父の結婚式を境に、様々な事件が起こり始める……。現代の家族を取り巻く多彩なエピソードを同時進行させ、時には対比させた緻密な構成で描いていく。穏やかさの中に異様な緊迫感が同居した映像世界は、ヤン監督作品ならではの濃密さ。イッセー尾形の出演も話題に。
2000年製作/173分/台湾・日本合作
原題:Yi yi (A One and a Two)
配給:オメガ・エンタテインメント、KUZUIエンタープライズ
スタッフ・キャスト
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結婚式に始まり葬式に終わるこの映画は、それ自体が何か巨大で複雑な生命体であるかのように胎動している。印象深い映像の蓄積の最果てには、「何かすごいものを見た」という漠然とした感慨が待ち受ける。とてもじゃないが一度見た程度では系列の全てを語り尽くせない。のでわかる範囲で書けることを書く。
既に多くの指摘がある通り、本作は小津安二郎の家族映画をその範型としている。小津の家族映画は、家族なるものの礼賛ではなく、そうした関係単位が生み出す悲喜劇をフラットに描き出すことに重点を置いた。そうすることで、家族なるもののイメージに纏わりついていた過度にヒューマニスティックで感傷的な色調は剥落し、強固な社会構造・制度としての「家族」が現前する。小津の家族映画ではさまざまな経緯で「家族」の奇妙さ、理不尽さが顔をもたげるが、それらは最終的にはある種の諦観とともに「家族」の構造の中に呑み込まれていく。彼はそのことを良いとも悪いとも明言しないが、どちらにせよ「家族」がいかに強力で支配的な関係単位であるかは明白だ。
エドワード・ヤンが試みたのは「家族」の強さ・支配性の再認だ。小津安二郎からいくらかの時を、あるいは物理的距離を隔てた今ここ(2000年の台湾)においても「家族」は有効であるのか?
結論から言えばそれはまだ有効だった。どれだけ不安材料を投下しようが、「家族」は揺らぐことがなかった。それは結婚に始まり葬式に終わる、すなわち「家族」のイニシエーションに始まり「家族」のイニシエーションに終わる本作の筋立てが証明している。
ヤンヤンの家族は各々が不安を抱える。ヤンヤンの両親の場合、それは生活への物足りなさだ。ミンミンは同じような毎日の連続に嫌気がさして奇妙な新興宗教にのめり込み、遂には家を出ていく。NJはアメリカに行った昔の女(シェリー)と結婚式でたまたま再会し、日本出張にかこつけて彼女とひとときの夢を見ようとする。しかし彼は最後までシェリーの求愛を真っ向から受け入れることができないまま帰国する。しばらくしてミンミンが家に帰ってくる。宗教に救いを求めた彼女もまた、結局それが何にもならないことを悟ったのだ。
ヤンヤンの姉ティンティンは、祖母が交通事故に遭った理由が自分にあると思い込み不眠症を拗らせる。それゆえかいかにも情緒不安定そうな青年(ティンティンの女友達のボーイフレンド)と恋に落ちてしまうのだが、最後は青年の方から拒絶される。なお青年はその後で凄惨な殺人事件を起こす。もしティンティンが自暴自棄になりきれてしまっていたならば、青年の不安定な殺意の矛先は彼女だったかもしれない。ほどなくティンティンの祖母が死ぬ。しかし死に際に祖母はティンティンのことを許す(あの蝶々はたぶん許しの象徴だ)。それによって家族疎外の不安は払拭され、ティンティンは再び「家族」の中に戻る。
このようにヤンヤンの家族たちは紆余曲折を経ながらも最終的に「家族」の枠組みの中へと再帰していく。しかしより重要なのは、彼らの再帰の理由に何一つポジティブな色合いがないという点だ。NJはシェリーと破局したがゆえに、ミンミンは新興宗教の欺瞞に気が付いたがゆえに家に戻ってきたに過ぎない。ティンティンは祖母からの許しを希求していることからもわかるように、比較的最初から「家族」への再帰願望が強かった。しかしなぜ再帰したいのかはわからない。父も母も彼女のことをあまり構わない(そもそも家にいない)し、彼女もまた家の外でどれだけ悲しいことがあっても、家族に相談するよりは自室で孤独に泣き暮れる道を選ぶ。
こうした理由の不在性は、逆説的に「家族とはそこまでして保持すべきものなのか?」「保持するだけの価値があるのか?」といった根底的な疑問を突きつける。小津作品においてはフワッと暗示されるにとどまっていた問いが、本作においては徹底的な不在という形でかえって強調されている。
「家族」は今ここにおいても依然として有効だった。しかもかなり強力に。しかしそこに内実はあるのか?既に形骸と化しているのではないのか?エドワード・ヤンはそういうことを問いかけている。
こう考えてみるとなんとも暗い主題の映画だが『牯嶺街少年殺人事件』ほど陰鬱としていないのはやはりヤンヤン少年の存在のおかげだ。彼の無邪気で芯を食った物言いは作品世界に光明をもたらす。彼ならば、互いにそれを無意味と悟りつつも「家族」ゲームを続行しようとする父や母や姉やその他親族に向かって「家族に何の意味があるの?」と問いかけることもできるはずだ。家族たちの苦悩をよそに性欲に目覚めたり写真を撮りまくったりプールで溺れたりしている彼を見ていると、こいつなら何か解決の手立てを思いついてくれるんじゃないかという希望が湧いてくる。
余談だが、エドワード・ヤンにとっての台湾・日本・アメリカの三者関係は『台北ストーリー』と同様だった。利益第一主義のネオリベであるらしいシェリーの夫はアメリカ在住。やり手の仕事人だが仲良くなった相手には優しい大田は日本人。そして大田より単価の安い取引相手を勝手に見繕ってきた同僚に向かって「お前らに誇りはないのか!」と喚き散らすNJは台湾人。アメリカ、日本、台湾の順に経済的繁栄の度合いは下がるが、人情の厚さの度合いは上がっていく。それゆえ人情の全くない、すなわち他者世界の存在しないアメリカは、作中で実際に映像として映し出されることがない。一方で日本が何度も登場するのは、日本が人情の余地を半分だけ残した場所であるからだ。台湾の人々がなぜ日本人たちと割と友好的に接してくれるのか、私はちっとも理解ができなかった。しかしエドワード・ヤンの作品を見ていると、台湾の人々が生き急いで人間らしさを喪失したアメリカよりも、適度に人情の風土を残しつつも経済成長を実現した日本のほうをより目指すべきロールモデルと認識したからなんじゃないかという気がしてくる。今はもう全然ダメですけどね…日本。
それぞれが自分の世界線を生き、たまに家に集うのが家族。
家族や隣人を「純粋な他者」として描くことで、実に鮮やかに、時代や社会の多様な断面を丁寧に掬い上げる。それは芸術の本質であり、エドワードヤンの真骨頂。
それでいて、何故か監督のエゴは微塵も感じないところが天才。
かつて、父が恋人の前を去ったのは、「自分以外のものに指図される人生はみじめ」だから。
義弟は拝金主義で占い好き、妻は新興宗教に走り、会社の同僚たちは売り上げ至上主義。自分以外の何かに依存している。
無自覚に誰かに指図されること、他者を自分の領域内に止めようすることは、どちらも危険だ。そんな危なげな二面性を鏡やガラスが物語っていた。
そして大田の鮮やかな存在感が画面を彩る。彼は「純粋な他者」と「本当の自分」に敏感な男だ。自由に人生を遊ぶ、もはや神聖な存在。
思春期のティンティンは、外部からの影響をモロに受ける。
誠実で感受性豊かなティンティンは、加害者意識と被害者意識の両方を感じている。
そして、淡い恋に憧れただけなのに不誠実な男のふるまいに深く傷付く。
「本当の自分」が、置き去りにされた子どものように声を上げて泣いていると、祖母が頭を撫でてくれた。
他者の影響に飲み込まれず、静かに自分の中にある悲しみを感じ取ることができた瞬間。
思春期前のヤンヤンは、水と光(カメラ)で遊んでいる。形のないものと一緒くたになりながら、真実の謎を解く名探偵。最初から、目に見えない祖母の魂を完全に理解していた。
気になるあの子と同じプールにザブンと入ったとき、水音がスッと消えた。
余計な雑音が真実をわからなくしているだけで、遊ぶことが大好きな本当の自分に立ち返れば、全てわかっているんだよと言われてるみたいだった。
2022年4月26日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
再上映により10年ぶりに観賞。
イッセー尾形がピアノを弾くシーンはやっぱり最高。
昔は長女の三角関係にばかり目がいっていたが、
いま観るとヤンヤンの父親の日本パートが渋い。
特に熱海のシーンは痺れた。今は無きつるやホテル。
よくある外からみたニホンではなくちゃんと日本の考証がされているなーと思ってみていると、エンドロールにThanks蓮實重彦先生とあり驚く。
「人生は一度きりでいい、やり直す必要はない」
という言葉が沁みる。
人生のいろんなステップであと何回かは味わいたい大切な映画。
2020年10月18日
iPhoneアプリから投稿
この映画は「東京物語」に似ると思う。
完璧に都市にいる家族の人々の悩みを描く。
似てる映画はおすすめが「六才のボクが、大人になるまで。」。