愛のコリーダのレビュー・感想・評価
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これを観たら『墨東綺譚』の世界が高級リゾートにしか見えない!という一作。
有名な映画だけどこれまで未見だったから、まぁこの機会に勉強程度に見ておくか、程度の軽い気持ちで観に行って、冒頭の老人のくだりから打ちのめされてしまいました。まず、この場面に一体何の意味が!?で、次にこんなあからさまな描き方、現代じゃ誰もやらないよ!という驚き。こりゃ当時、猥褻か芸術かという論争が起きたことも理解できます。
しかしもちろん本作は、単なる猥雑な作品などではなく、たとえば阿部定演じる松田英子と藤竜也の二人を描き出すライティングは一瞬見ただけでも心奪われるほど実に美しいです。一方で、ちょっとカメラが切り替わると、とたんに照明を直に当てた、粗雑な映像に繋がることが多々ありました。これは画調の一貫性が撮れていないようにも見えるのですが、それ以上に、主人公二人を美しく描き出すことに尋常ならざる神経を注いだ、大島監督の執念を感じさせました。
大島監督の待ち合いの描き方はお座敷を垣間見るような見方としても、そこで繰り広げられるむき出しの愛欲をのぞき見る見方としてもまったく容赦なく、本作に較べれば新藤兼人監督の『墨東綺譚』(1992)の遊郭が高級リゾートに見えるほどです(もちろん『墨東綺譚』も名作ですが)。日本だと審査に引っかかる可能性があるため、フランスからフィルムを輸入し、撮影後の現像、編集もフランスで行った、といったアンダーグラウンド的な逸話も滅法面白い作品です!パンフレットは『戦場のメリークリスマス』とセットになっていて、非常に価値の高い資料です。
サイコホラーな一面も
修復版ということで、
「戦場のメリークリスマス」と合わせて大島渚監督作品が
地元でも連続上映、、、
観てまいりました
🎞📽
なんでもどっかの機関に収蔵されるとかで、
スクリーンにかかるのは最後かも、なんて触れ込みもあり。
「戦場のメリークリスマス」が異常に面白かったので、
その勢いで次に上映だった「愛のコリーダ」も観ることにしたのです。
この作品はエロス作のイメージでとかく語られるようですが、
私はそこまでエロスに注力を注いだ作品とは感じませんでした。
吉蔵と定は
「その部分に惹かれあった」のであって、
ゆえに
情交シーンを情感たっぷりに描いたんだと見ました。
なによりそれを端的に表しているのは、
情交シーンのシチュエーションが
全て違うのです。
それが定と吉蔵の関係性だと。
何より私の目が釘付けになったのは、
構図と色合いが計算し尽くされていることで、
衣装と背景であったり、
情交の対位の画面の対比であったり、
とても面白かったんですね。
あと定のセリフが逐一良かった👄
独特な言葉がやるせない気持ちを振り絞って表していて。
これは私だけがそう感じたのかもですが、
サイコホラーな作品だなぁ、、、とも、、、
言葉、表情、手にする物、進むにつれて
吉蔵も定も共に追い込まれてゆき、、、
そして終いには、、、
エロスの文脈のみで見られているのは
勿体ないですね。
本当に面白かったです
🔪
1976年ベストムービー!⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️✨
2021年6月、2K修復版を劇場で観た。この作品を久しぶりに観たが、残念ながら"猥褻"部分には全てボカシがかかっている。作品のおおよそ8、9割は"猥褻"だというのに…笑
初めて観たのは2000年か2001年頃。当時住んでいたチリの首都サンティアゴの劇場(Alameda通りにあった"Cine Arte")で偶然観る機会があったが(もちろん無修正)、「猥褻か芸術か?」なんて論争(古ッ!)がもう陳腐なほど、これは"猥褻"部分も含めてひとつの作品だなと思った…まぁ、当たり前でしょうけど…(あっ、オリジナル版?を観れたのは自慢です笑)
今回の修復版でも、もちろん作品の良さは伝わってきますが、どこか物足りない…
…いや…物足りないどころの話ではない笑
この映画の本来の作品を観たければ(なんか変な言い回しだ笑)、海外で発売されているDVDを取り寄せるか、ネットに落ちている映像を観るしか無さそうです…でも、やっぱり劇場で観んといかんでしょう、この作品は!笑
日本でもしこの作品の無修正バージョンが劇場で公開されたなら、正に"革命的"でしょうね…無理でしょうけど…笑
藤竜也の色気にやられた
美しい、でもお腹いっぱい
「阿部定事件」(若い人は知らないだろうなぁ。知らない方がいいよ)を題材にした、大島渚監督、1976年公開の超問題作。
ストーリーらしいストーリーはない。全編にわたって、ひたすらやりまくる映画だ。
そこに男女の心の機微が展開し、情念が燃える。
僕はこの作品を「美しいな」と思った。
大島監督は、制作にあたって神代辰巳監督の『四畳半襖の裏張り』に強い影響を受けたと語っているそうだが、僕は本作から、歌麿や春信などの江戸春画に見られる「美」を感じた。艶かしく、粋で、品があり、おかしみがある。
大島監督は――意識的か無意識的かは別にして――映像作品で、そういった日本のエロスの伝統を継承しているのだと思った。
そんなわけで、本作は、過激で露骨な性描写が繰り返されるにもかかわらず、決してそれが下品に堕していない。むしろ品格さえ感じさせる作品となっている。
その監督のセンスと力量には敬意を表したい。
それにしても、人間というのは、なんと滑稽な、グロテスクな、おそろしい、そして美しく、可愛らしい存在なのだろうか。
そんな、言葉で容易に表現することのできない人間という何とも不可思議な存在の本質的な一面を、この映画は我々の目の前に提示しているのだろう。
ただ、延々と繰り返される性描写には、さすがに少々げんなりした。
もうお腹いっぱい。
何だか悪い夢を見そうです。
追記
「コリーダ」って、闘牛のことなのね。今日はじめて知りました。
それから、主演の松田暎子って、劇団『天井桟敷』に所属していたのか(それも今日はじめて知りました)。
なんだか納得。
愛ではないよ...
精神の結合と肉体の結合は表裏一体
コリーダとはスペイン語で闘牛を意味すると言います
愛の闘牛とはなんでしょう?
相手が挑発的に赤い布で興奮を煽るものだから、その気になって幾度も突進してしまう
なのにひらりひらりと身をかわされる
そうして疲れたところを剣で一衝きされてしまう
本作の内容とは違うのですが、それは確かに男女のラブゲームは闘牛に似ているのかも知れません
命のやりとりになるほどの真剣な愛
それが愛のコリーダという意味だと思います
エマニエル夫人、チャタレイ夫人の恋人、O嬢の物語、カトリーヌドヌーヴの昼顔
その系譜に連なる作品だと思います
陰部を隠さず、結合部すらも意図的にカメラに映るような構図で撮影するのは一体何故なのでしょうか?
そこにこそ疑問を持たなければならないと思います
ボカシがあるとかないとかを云々しても、それは不毛だと思います
21世紀の現代ならば、ネットでいくらでももっと露骨にその部分だけをクローズアップしたものを視れます
劣情をかき立て性欲を充足させるという目的ならば本作はとても及ぶところではありません
つまりAVポルノはマタドールの赤い布の機能だけに特化していると言うことです
本作は闘牛であるとタイトルで謳われています
赤い布に興奮して突進しても、それはひらりとかわされるのです
男女の愛
相手を求める気持ち
それは何を求めているのでしょうか?
相手の心?
相手との心がひとつになった喜び
これが本当の愛なのでしょうか?
人間も動物である以上、相手の肉体を求めるのは自然なことです
肉体の結合を伴ってはじめて愛が満ち足りるのもまた真実です
心だけの結合では人間は満足出来ないのです
では、心を伴わない肉体だけの結合は?
お互いの肉体によって快楽を相手に与え合う行為、それは愛では無いのでしょうか?
お互いの真心の優しさを相手に与え合うことと、何が異なるのでしょうか?
無論それは肉欲とか色欲といわれ、愛情とは違うとされています
ポルノはその為に純化した映像作品です
人は何故ポルノを視るのでしょうか?
それは劣情を自ら刺激して興奮するため?
確かにそうでしょう
しかし、男女の愛を充足できない
その悶々とした精神の涸渇感を満たそうとして視ているとも言えるのです
相手との心の交流だけでは満ち足りないのです
もし心を触れあわせる相手すらもいないならば、一層それを求めてしまうのは当然でしょう
せめて肉体の結合の錯覚だけでも満たそうとしているのです
甘く清い純愛物語に胸を一杯にすることと、それは表裏の関係なのだと思います
では本作は?
確かに肉体の結合ばかりを映し出しています
しかし明らかにポルノではありません
本作が目的としているところは違うからです
本作の二人が目指そうとしたのは、精神の固い結合でした
こころと肉体までが全て溶け合うまで、お互いを愛し合うこと
互いを求め合うこころの結合の吸着力が猛烈ならば、肉体の結合の力もまた猛烈になるのは当然のこと
男女の愛とは、こころと肉体は二つでひとつ
表裏一体、車の両輪なのだと思います
それ故に、このように性行為のありのままを表現しなければ、男女の愛の全景すべてを描き出しているとは言えなかったのです
愛の量が巨大ならば、肉体の結合もまた巨大にならざるを得ないのです
ここまで男女の愛の本質に迫った作品は他に無いと思います
間違いなく世界的な傑作であると思います
明らかな芸術作品です
ポルノでは決してある訳もありません
愛のコリーダ(Ai No Corrida)
今ではクインシー・ジョーンズの1981年の世界的大ヒット曲の方が有名かも知れません
この曲は本作に触発されて1980年に作られたものなので当然ながら本作では流れません
クインシーは,米国ポピュラー音楽界の超大物プロデューサー
あのマイケル・ジャクソンがスーパースターになれたのも彼のプロデュースの力が大きいと思います
そのクインシーが別人の作ったこの曲を気に入りカバーして自分のアルバムの一曲目に採用したものです
この人のアルバムに曲が採用されること、録音に呼ばれるということは、サッカーで言えばW杯の代表チームに召集されることに匹敵する程のことなのです
この曲の入っているアルバム「デュード」はジャズフュージョンの名盤100選に入る程の傑作です
クインシーらしい80年代の幕開けに相応しいゴージャスな素晴らしいサウンドの曲です
そして、その歌詞は本作のテーマを的確に伝えているものなのです
ネットで簡単に聴けますし、歌詞も和訳で読めます
本作を観終わったなら、是非この曲を聴かれてはいかがでしょうか?
それも体に感じる程の大音量で、イヤホンでなくスピーカーで
オーディオ的な快感を感じると思います
その快感は本作に通じるものだと思います
旅館にこもって、三日三晩やり続けているシーンはエヴァンゲリオン第20話を思い出させます
あのシーンは本作由来なのかも知れません
圧倒…
妖艶で魅力的な昔の日本の女性像
邦画史に最も影響を与えた(と勝手に思っている)阿部定事件をテーマにした大島渚監督作。
現代を生きる自分でさえ、この事件をはじめて聞いたときにかなりの衝撃を受けた覚えがある。
少し阿部定事件について調べてみたけれど、結構忠実に描かれている印象。
そして何より、ずっと濡れ場。
想像の何倍も絡みのシーンで、それだけ阿部定が吉蔵を愛していたんだなとわかる。
究極の愛の形。
独占欲と一言で言ってしまえばそれまでだけど、演技とはいえ2人の相思相愛っぷりが生々しくも愛おしく、ずっと観ていたいと思ってしまった。
だからこそ、普通だったら理解しにくいプレイも納得してしまう。
ただ、理解できないところもあった。
大島映画はまだ2本目ですが、しっかり人物相関をわかりやすく描いたうえで多くは語らず、解釈をこちらに委ねてくるこの感じ、嫌いじゃないです。
特に結婚式?の場面はかなりカオス。
昔はあんなに公開SEXが普通だったのか?
普通なら修羅場と化すような状況でもヤり続ける。
定さんきっつぁん流石です。
これはアートか?エロスか?
アートであり、エロスでしょう。
エロスこそアート。
こんなに芸術的な官能を今のところ見たことない。
ただ、そういう話の前に今だったら児ポでアウトですね。
最初は「これ、公共の場で観ても大丈夫か?」と思っていた濡れ場にも次第に慣れた。
登場する様々な爺婆の魅力を堪能し、「かたい」に関するなぞかけ的な一幕(性格・雰囲気/イチモツ)に笑い、悲しいとも幸せとも違うなんとも言えない気持ちで迎えたラスト。
これが最後の劇場公開。
映画館で観れて本当に良かった。
笑い絵 vs. 戦争
吉は限りなく優しい。話し方も笑い方も優しくて定の言うことをすべて肯定する。
小唄三味線は本当に四畳半の世界のものだとよくわかった。聞いてわかったのは端唄の奴さんと梅は咲いたかだけだったけれど。吉の口ずさむのは小唄で、上手くて色っぽい。
この映画は春画の世界だった。殆ど着物を着たまま。鏡台や風呂場の鏡、三味線、子ども、老人、年老いた女、若い女、吉みたいに美しい男、足袋を履いてたり裸足の足、色鮮やかな長襦袢、帯、覗き見、障子、徳利、衣紋かけ(衣桁)、布団、縁側、ぜんぶ春画の中の小道具で登場人物だった。春画は笑い絵で、戦に出かける時に持って行く命を守るお守りでもあり、犬死にや大量殺戮を行う戦争とは真逆だ。
1936年か、昭和11年。映画の冒頭は雪。その頃、二・二六事件があったんだ。
逃げられない…
自分たちの周囲になかなかの数のスタッフがいるであろう中で、セリフを言い、恋人でも結婚相手でもない相手と性行為をする。これはなかなかヘビーですよ。生理的な現象を意識的に起こさないといけないんだから。まず、こんなに難しいことをやり遂げた主演二人を称賛する。
松田英子さんの顔は、美人タイプではないが、欧米人が好みそうだと思った。肌もきれいで、均整のとれた体。たぶん、すごく追い込んで、サダになりきったんだろうな。実際のサダはどうだかわからないが、この映画のサダは、明らかに病気だ。現代ならセックス依存症とか、何か診断が付くだろうけど、この時代、せいぜい「変態」とくくられるだけ。飲み食いも眠るのもろくにしないで、セックスばかりしてたら、変な匂いもするでしょうよ。サダだって、自分が異常だと自覚はあった。だから校長先生に温泉に連れてってとお願いした。でも、断られた。戻るしかないではないか。愛の地獄へ。
藤竜也は確かに色っぽい。ヒゲと目がいいわ。吉っつぁん、最初はちょっと遊んでやるかと軽く誘ったら、薮をつついて蛇が出ちゃった。どんどんサダに絡みつかれて、精も根も尽き果てちゃった。最後の方、逃げることもできず、諦めた表情が「はい、限界です。死なせてください。」と言ってるようだった。行進する兵隊から顔を背け、逆方向にひょろひょろ歩く姿は、確実に死に向かっていた。魔女と承知してても、拒めない。破滅とわかってても、また戻ってしまう。男も悲しい生き物だね。
映像は本当にきれいだった。赤い襦袢、水色の前掛け、雪の白。修復する前でも、きっときれいだったんじゃないかな。
芸術かポルノか。局部のことばかり言われがちだけど、こんなに哀しみが漂っているのに、ポルノとは思えない。誰かを欲しくてたまらないという、どうにもならない気持ちを、十分に表現した芸術作品でしょう。
藤竜也がやたらとカッコいい
愛のコリーダというと映画というよりクインシー・ジョーンズの曲の方を思い浮かべてしまう。映画の方は無修正で本番している映画ということで有名だったが、観る機会がなかったので今回が初鑑賞。無修正よりも阿部定事件を扱っていることに興味が湧いた。
でも実際に観てみると局部をきちんと見せている(ボカシが入っていたが)シーンが思った以上に多くて驚いた。しかもセックスの描写がやはりリアルだったことも衝撃を受けた。AVで見るセックスとは違うリアルさ。それは男の性欲のための見せるシーンではなく、ちゃんと情愛を絡めた演技の力なんだろう。狭いところでのカラミ、口の中に出した後垂らして見せる、首締め、今のAVでも使われている手法があって、もしかしたら最初はこの映画から発展していったのかなと想像したりした。
かなり昔の映画なので古臭いかなと思っていたが、違和感はあまりなかった。男女の情念、執着、屈折した性欲が描かれていて圧倒されてしまった。本妻とはセックスするな!って言っておいて、女中や芸者や通りすがりの女には、あんたこの女とやったら?みたいなことを言う。ものすごい感覚。おちんちんを切り取ったからこそ歴史に残ってしまったこの事件。映画で観てもその特異性が損なわれない。
ちなみに調べたらクインシー・ジョーンズの曲はカバーで、タイトルはこの映画からとったんだとか。そりゃ日本語で「アイノコリーダ」って歌ってるんだからそうだよな。てっきり「アイムコリーダ」って歌っているのを邦題で「愛のコリーダ」ってつけたのかと思っていた。映画愛のコリーダの威力スゲーな!
いまさらですが、松田英子と藤竜也が凄すぎ
昭和11年、東京の料亭、吉田屋で、主人の吉蔵と仲居の阿部定が出逢い、惹かれあい、昼夜を問わず体を求めあうようになる。二人の愛はエスカレートしていき、お互いの首を絞めて快感を味わうなど、危険なプレイを続けていくようになる。定は妻子ある吉蔵の愛を独占したいと願うようになり、吉蔵の希望で首を絞めているうちに殺してしまった。その後、ペニスと睾丸を切り取り逃亡した、という阿部定事件を再現した話。
実際に起こった阿部定事件を20回以上の濃厚なセックス描写で映画化したもので迫力あった。
藤竜也と松田英子の激しいセックスはボカシが入っていても本番をしているのがわかるほどの映像だった。
45年経た今観てもヘタなAVよりエロい。
阿部定事件に至る経緯を描く上で疑似ではなく本当に挿入するセックスは必要不可欠な映像だったんだろうと思った。
松田英子さんの過激な演技により、永遠の代表作となったと思えるし、観賞出来た事に感激です。
大画面の劇場で観れる事もあまり無いだろうから、貴重な体験となった。
うちの若い子たちがね、嫌がってるんですよ。お二人に見せつけられて。
大島渚という映画監督
究極
芸術か猥褻かって、芸術って事じゃないと見てられない
とは言え、正視出来ない程のグロテスク。
Netflixだったので早送りの連続。
映画館じゃ無理だった。
ましてボカシが入ってない無修正版じゃなくて良かった。
まともに人の股ぐらなんか見たくもない。
今の時代なら裁判以前の問題。
AVは知らんけど。
この時代、娯楽が他にないからか、よくまあ暇に任せてというか もう胸が悪くなった。気持ち悪い〜。
この映画は私がまだ未成年の頃 話題になり裁判にもなったわけだが、当時見てたらトラウマになった事間違いない。
いくつかの場面で子どもが出て来るのも これはもう児童虐待確定。
そう言った意味で有罪でいい。
この歳でこんな事言いたくないが、ここまでハードとは知らなかった。
完敗です。
あ〜も〜 吐きそう。
これが芸術だと言うのなら 私は芸術のわからん人間だというのはわかった。
しかし こういうものだ とわかった のが
見て良かった点。
美しくも儚い夢物語
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