自分の過失で長男を死なせた(らしい)過去を持つ介護士と、33年前に愛妻を亡くし、その現実を受け入れらない認知症を患う老人の物語。
登山がレジャー化して久しいが、その起源は山岳信仰にある。山岳信仰の体現者である山伏はそれを、麓から頂上までの道程を母親の胎内へ戻る産道と捉え、その過程で俗世で汚染された六根を清浄する、と説明する。
愛する人の死によって、今にも壊疽しそうな塊をぽんと投げつけられ、その扱いに途方に暮れる二人の男女。無意識が求める「愛する人の死の形象化」。深い山中にある老人の妻の墓を目指し、ひた歩く壮絶な様は、いつしか壊疽の塊が優しく浄化される、信仰に似た神々しさがある。
カンヌのグランプリ受賞作品らしく、芸術的完成度は恐ろしく高い。穏やかに淡々と、ほとんど科白なく進む物語は、ドラマではなく映画であることの本質的な意味を突き詰めている。
過大な罪とトラウマを抱える虚無な尾野真千子がすこぶる美しい。あっさりと生の一線を超えようとしてしまうボケ老人に辛うじて踏み止まる今の自分の将来を見て、生きる意味を微笑めるようになる、その美しさを26、7歳で演じきるなんて。
しかし、難しいな、この映画は。非言語的な音と光で表現する映画に対する本質的共感と、
愛する人の死に触れる切実な原体験。観客がこのふたつを持つか否かで、評価は大きく分かれると思う。