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十数年ぶり2度目の鑑賞。
冒頭のチェヨンのかわいらしさやラストシーンの圧倒的な美しさだけが印象に残っていたが、何を訴えている映画なのかが全く思い出せなかったので再鑑賞。
実際2度目に見てみてもストーリーの軸というか本質的な物語の意図はキャッチしづらかった。
鑑賞後に色々調べていたらキム・ギドク本人がフルショット映画というワードを使って、個人ではなく人間が社会の中でどのように矛盾を抱いているかという点にフォーカスした映画だと説明していたのが最も本質に近いヒントだと思った。
この作品は「バスミルダ」がチェヨン、「サマリア」がヨジン、「ソナタ」がパパを主人公としたような構成になっている。
第一章:チェヨンは娼婦に憧れているという設定だが、本質はそこではなく寝た男性を幸せにする存在に憧れている存在といえる。だから少女売春をしている男性たちも、普通に職に就き、普通に家庭を持ち、普通に優しい人だったりするところを発見する。それが愛するヨジンを苦しめる。
第二章:サマリアとは、新約聖書でサマリア人がユダヤ人を助けるという善行を示していることから、「慈善や隣人愛の象徴」として例え話に用いられるとのこと。ヨジンはまさに贖罪として慈善・隣人愛を男に提供したかった、あるいはチェヨンに対する愛情からバスミルダ役を代わることに意味を見出して売春を始めたのだろう。それがパパを苦しめる。
第三章:ソナタはヒュンダイが発売する韓国で最もポピュラーな商用車であり、ごく一般的な成人男性としてパパに準える。このポピュラーな車で毎日娘を学校に送ったり、その中で良かれと思ってキリストが起こした奇跡を語ることも、シングルパパの強い愛情として象徴的に描いている。娘が売春していたらストレートに娘と対話ができず売春相手を一方的に殺すほど憎むのも、一般的な弱さを抱える男性として充分にあり得るリアルな描写だと感じた。
三者三様に、それぞれの憧れや正義や愛があり、そのために行動をした結果愛する人を極限まで苦しめる結果になっている。多分キム・ギドクが軸にしたかったのはこの辺だと思う。
結果、唯一最後にパパが愛情表現した車の教習だけが、なにか前向きな影響を愛する相手に与える行為だったようにも見える。それが象徴的に娘の自立を促す行為だったのも理解ができた。父親の娘に対する愛だけは、ねじ曲がっても最終的には与えるものを与えて終わっている。
以上が2度目に鑑賞した末に色々調べてようやく腹落ちしたストーリーの軸だったが、その辺を意識せずともラストシーンの美しさはキム・ギドクならではだったと思う。
彼はよく北野武と比較されるが、ラストシーンにおいて健気に涙ながらに父親を追うヨジンの感情を、肉体を映さずに車という無機物で表現する手法は、(表現しているものこそまるで違うが)北野武が「野球やろっか」のシーンでピッチングマシーンに憎悪を表現させていたのに似ていると思う。その表現力も圧巻だと思う。
ただ、20年前に見た時にも感じた「3階から飛び降りて死ぬか?」とか、「なんで黄色いペンキ持ってんねん」みたいな、リアリティの部分や
サマリア≒ヨジンの売春の動機だけがどうも飲み込みづらく、それが全体の意図を把握しづらくしている点など、気になるところは多かった。
ヨジンとパパの旅行は、あまりに美しい白んだ朝靄の風景で終わる。この早朝の白みと、車という無機物で表現されたラストシーンは、「嘆きのピエタ」と重なるところがあったので比較対象になった。率直な感想として本作は充分に評価すべき名作だが「嘆きのピエタ」の方があらゆる点で完成度が高いと感じた。