タンゴの後で : 映画評論・批評
2025年9月2日更新
2025年9月5日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
映画に翻弄された女性に、心を傾けるべき“いま”
自分(尾﨑)はベルナルド・ベルトルッチの諸作に心酔してきた一人だ。しかし米アカデミー賞に2部門ノミネートされた「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972)への反応は鈍い。国内初公開から20年近く経た再上映で古いプリントに接し、ボカシ代わりに合成された、巨大な遮蔽物に興ざめしたのが原因だ。これは作品の落ち度ではなく、映倫の措置が招いた“とばっちり”にすぎない。しかし後年「監督が主演女優に合意なき性的演出を強いた」という現場レベルの問題を聞かされては、もはや彼の「暗殺の森」(1970)や「ラストエンペラー」(1987)と同列で支持する気にはなれなくなったのだ。
本作はそんな忌むべきバックステージに迫り、先の出来事がトラウマとなってキャリアと心身の不調を招いた、早逝の俳優マリア・シュナイダーの生涯をドラマ化したものだ。映画史におけるセンセーショナルな事件への言及が中心にあるが、#MeTooムーヴ以降の時勢が然るべく誕生をうながした、そんな「女性映画」のひとつとして価値を放つ。

2024 (C) LES FILMS DE MINA / STUDIO CANAL / MOTEUR S’IL VOUS PLAIT / FIN AOUT
とりわけ「ミッキー17」(2025)でハリウッド進出を果たした、主演のアナマリア・ヴァルトロメイが見せる演技メソッドはオーディエンスの感情に作用する。シュナイダーと一致しない外見でありながらも、そのパフォーマンスはタイトルキャラクター(原題は“Being Maria”)が抱える戸惑いや抑圧された怒り、それらをバネとする逆境への抵抗を渤溢と感じさせる。むしろ似せないアプローチがシュナイダーの人間像を普遍化させ、誰もが彼女に自らを重ねるのではないだろうか。
ただベースとなったヴァネッサ・シュナイダー(マリアのいとこ)の回想録「あなたの名はマリア・シュナイダー:『悲劇の女優』の素顔」からいくつかの事例を抜き出して脚色し、あるいは架空のキャラクターを投入して事実関係を曖昧にしていたりと、逐一が正確な再現ではない。これらがシームレスに構成された本作から「ラストタンゴ・イン・パリ」のパートのみ過剰反応し、断罪を訴えるのは性急かつ恣意的だ。それでも劇中、シュナイダーが件の演出に遭遇したときの、現場スタッフが一人として異議を唱えず、顔色ひとつ変えない支配空間は「演出だから」と割り切れるものではない。そこに観客の意識は密着し、彼女の孤独と恐怖が切に伝わってくる。直前のシーンでマーロン・ブランド(マット・ディロン)は、「(マリアを)叩く演出はやりすぎだ」とベルトルッチの強権をたしなめるが、たとえそれが中立な判断の余地を与えてくれるとしても、だ。
商業映画はいくら作家主義を持ち出して論じようとも、原則的には個人の成果物ではない。その成立には数多くの人たちが関与し、役割の差こそあれ共同作業のたまものである。私的には昨今に顕著な、揚げ足を取るようなキャンセル・カルチャーに表現萎縮の危険性を覚えるし、時代の文脈に応じて古典を影へと追いやる姿勢が、必ずしも正義だとは思わない。だが同時に「芸術」という美名のもと、誰かを犠牲にして許される時代でもないのだ。
第二のマリア・シュナイダーを、決して生み出してはならない——。そんな思いを、「局部隠しが美観を損ねた」などと問題意識の小さい自分に抱かせただけで、この映画の目的は充分に達成されている。
(尾﨑一男)