劇場公開日 2025年6月20日

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メガロポリス : 映画評論・批評

2025年6月17日更新

2025年6月20日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー

コッポラの原則に忠実な、スーパースケールの「個人映画」

前監督作「Virginia ヴァージニア」(2011)から14年もの間、終活のごとく過去作の改変を優先してきたフランシス・フォード・コッポラ。そんな巨匠が、ついに腹をくくって新作を発表。しかも40年くらい前から次作として匂わせていた、帝政ローマの末路を現代アメリカの諸相と照らし合わせていく、都市開発をめぐる権力闘争の未来SFだ。

正直、そんな酔狂に金を出す団体なんかないだろうと諦観していたら、ワイナリー事業で得た経済的成功と、発想を萎縮させることなく具現化できるデジタルシネマ(わけてもLEDウォールを用いたバーチャル・プロダクション)の進化が弾みとなり、積年の企画を自身で実現させたのだ。しかしいざ完成をみるや、ハイコンセプトなプロットを整理できないまま撮影したのでは? と厳しい意見を耳にする。

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そんな世評を「ふ〜ん」と流せるほど、こちとらコッポラ作品との付き合いは昨日今日ではない。愛を欠くジャッジを下すなよゴルァ!の心持ちで実作に接してみたら、なんだ平常運転のコッポラ映画じゃないか、とひと安心。自分はこれを「怪作」と人に薦めても「失敗作」と軽んじることはない。いや、とてつもない映画体験をさせてもらった。

確かに物語は観念的で、商業映画としてはオーディエンスにちっとも優しくない。だがそんな不親切さは「地獄の黙示録」(1979)で既知のこと。なにより本作は、コッポラの古典主義者としての性質をむき出しにして迷い知らずだ。マフィア一族のクロニクルにギリシャ悲劇の構造を組み込んだ「ゴッドファーザー」三部作(1972〜1990)や、コンラッドの名作文学「闇の奥」をベースに、哨戒艇による暗殺執行者の行路をホメロスの「オデュッセイア」にたとえた「黙示録」しかり。それらに通ずる古典の現代翻案を、今回の「メガロポリス」は反復している。超近代都市に存在する社会的階層や、都市を維持するためのイデオロギーの対立は、さかのぼってフリッツ・ラングの古典SF「メトロポリス」(1927)に壮大なオマージュを捧げている。単なる語呂合わせではないのだ。

しかも提供されるビジョンは圧倒的で妥協がなく、バーチャル・プロダクションに特有の箱庭感も「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)で発揮したコントロールフリークぶりに通底するものがある。独りよがりを過去作と照合し、恣意的に正当化しているという勿れ。私費による映画は、客観性など二の次にして当然。スタジオの干渉を抑えたことで、この作品はコッポラのショーケースとして、スーパースケールかつ高純度な「個人映画」の成立をモノにした。今後そう簡単に観られるレベルではないほどの。

そもそも旧作のレタッチなんて、新しいものを生み出せなくなったクリエイターの手慰みにすぎない。コッポラがそこから脱却したことを、心から嬉しく思う。ニューバージョンにかこつけて何度も何度も「地獄の黙示録」を観るの、そりゃ嫌いじゃないけどさ。

尾﨑一男

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