瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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映画について映画で考えた
失った時、人、夢を、光と闇と音楽と時間の芸術である映画で表現して描ききった巨匠の渾身の作品でした。
冒頭の劇中劇がシームレスに始まってシームレスに現在の現実に繋がるこの剛腕演出にもう感激してノックアウトでした。
名前には意味はないしいくつも持っている、私は海に繫がっている全ての国に行った、歳もいくつでもよく、娘がいたかもしれないしいなかったかもしれない、つまりフィクションの中の役柄を現実として捉えている登場人物の彼は映画の中に生きている。
それは幸せである意味で理想的だ。
果たしてそうだろうか、と現実の生活をしている主人公は探っていく。
その現実とフィクションの対比、シームレスに繋がる様子をしっかり3時間かけて至福のショットで描いていく。
最高の映画体験でした。
一点だけノイズだった点、劇中劇のラスト、中国から連れて来られた少女が大人男3人に囲まれて怯えながら雑に扱われるシーン、劇中でも二十年前の作品ということでというエクスキューズが入るとは思いますが、普通にこんなつらいこと少女にするなよと思ってしまいました。
どうしたって感動シーンにはならないよね。
映画の魔力
開幕から意表を突く導入であるが、実はこれがクライマックスの伏線になっていることに感嘆してしまった。
ミゲルの未完の映画「別れのまなざし」は、フリオ演じる主人公がある大富豪から娘の捜索を依頼されるという物語である。これが現実のドラマ。つまり、失踪したフリオを追いかけるミゲルの物語に、ひいてはフリオと娘アナの邂逅というドラマに転じていく。フィクションと現実を華麗にオーバーラップさせたクライマックスが見事である。
結末も観る人によって様々に解釈できる所が面白い。ある意味で、本作は「ニュー・シネマ・パラダイス」や「フェイブルマンズ」と同じ、映画についての映画という側面を持っている。安易にセンチメンタリズムに堕さなかった所は実に賢明で、それによってこの物語には不滅性が備わったように思う。
監督、脚本はヴィクトリ・エリセ。「10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス」等、オムニバスの競作はしているが、単独の監督作品となると「マルメロの陽光」以来、実に31年ぶりとなる。ここに至るまでに幾つかの企画があったらしいが、いずれも上手くいかず映画を撮れない時期が長く続いていた。そんな寡作なエリセの新作をこうして久しぶりに観ることが出来て嬉しく思う。
そして、こうしたシビアな事情を知ると、本作のミゲルが何となくエリセ自信に見えなくもない。映画を撮りたくても撮れない。そんな作家としての生みの苦しみが透けて見えてくる。
ちなみに、頓挫した企画の中には推理小説「死とコンパス」(未読)の映画化もあって驚いた。同原作はアレックス・コックスが1996年に「デス&コンパス」として映画化しており、いかにもコックスらしいパンクな仕上がりで中々にユニークな作品だった。まさかこれをエリセが映画化しようとしていたとは…。もし氏が撮っていたらどんな映画になっていただろう?
演出は「マルメロ~」同様、リアリズムに傾倒した作りが徹底されている。所々に目を見張るようなフォトジェニックなカットも登場し、改めて氏の端正な手腕に唸らされた。
ただし、中盤まではじっくりと腰を据えた演出が続くが、終盤はかなり展開が急で、ともすればご都合主義と思えなくもない場面が幾つかあった。映画全体を通してのバランスは余りよくないと感じた。
また、中盤でミゲルのバックストーリーが紹介されるが、これもフリオ捜索というサスペンスに水を差し、少々退屈に感じられた。ミゲルと息子の関係等、面白く見せる要素もあったが、活かしきれず残念。
細かなことを言えば、見事と評したクライマックスも、個人的にはミゲルとフリオとアナの3人だけのシーンにした方が、よりエモーショナルになったのではないかという気がした。
キャスト陣では、フリオの娘アナ役でアナ・トレントを久しぶりに見れて嬉しくなった。同監督作「ミツバチのささやき」の無垢な少女の印象が強いが、その面影を残しつつイイ感じの年の取り方をしている。劇中では「ミツバチのささやき」のオマージュと思しきシーンも出てきてクスリとさせられた。
「老い」を丁寧に描いた(タイトル変えました)
大変冗長。
ビクトル・エリセは30年の沈黙の間に「省略」という手法を忘れてしまったのか
何かあるごとに、起きたことすべてを時系列でいちいち丁寧にすみずみまで余す所なく描き出し、ハナシが停滞。それが延々続き渋滞するので見ている方はたまったもんではないです。
省略、することで映画にメリハリができ、強調したいところも際立つものでしょうに
さらに情感たっぷりで間がゆったりとしていて、次の動作までが長い。
これ必要? というシーンがやたらに多い(しかも長い)
さらに同じテンポのゆったり劇中劇が長々と映されて追い打ちをかける
3時間の尺なのに、8時間くらいあった感じ
面白い映画は長くても長く感じないものですが、その逆もあり。
アナ・トレントが役名も「アナ」分かりやすくてよいですが、あのアナちゃんだと、すぐわかりました。
体感上映時間8時間を耐えたのに、結局何も判明しない。
フリオは過去を思い出したのか、彼はなぜ失踪したのか
劇中でも何度も問いかけているにも関わらず、ひとつも判明しないって、詐欺にあったか罰ゲームか、または忍耐力のテスト?
見終えて徒労感と疲労しか残らなかった。
一緒に見ていたダンナは、帰りに、3時間拷問だった、と白状しました。
ビクトル・エリセは、何が言いたかったんでしょう
タイトルの通りなら、「瞳を閉じて」過去に思いを馳せろ、記憶を呼び起こせ、登場人物たちが「記憶」という単語をよく口にしていた気がするので、「記憶」がキーワードなんでしょうが、ミステリーの形を取った過去を礼賛する老人のノスタルジー(愚痴?)に見えてしまいそうです。
瞳を閉じたら寝ちゃったわ
始終、「老い」を丁寧に描いていて、私自身も老境に差し掛かっている年齢なので、リアルも感じました。
追記)この映画の隠れたテーマは「老い」なのでは、と思っています。
遺言
巨匠、ちょっと長いです
スペインの巨匠、ビクトル・エリセ監督の新作。
前半は眠気に襲われ、終盤は尿意との戦いになった(映画館が寒かったせいもあったのかな)。
迂闊にも2時間超えの作品だとは知らずに劇場へ。こんなことなら水分を控えてくるべきだったと後悔。歳とるってつらいね。
それはさておき、『瞳をとじて』。
これもほとんど起伏のないお話だけど、退屈だとは言わせないsomethingがあると思う。それは感じる(ちょっと眠たくはなったけど)。
でも「巨匠」の作品という先入観があるからそう感じるのかもしれないな。どうなんだろう。
それにしても、やっぱり長いよ〜。無駄に長いような気がします。
けっきょくのところ、3時間ちかくかけて巨匠が何を表現したいのか、僕にはよくわかりませんでした。
追記
ところで、今回も「じっとしていられない人」がいました。
上映中、たびたび足を動かしてペタペタ、トントン床を踏み鳴らす。何なんだろう?
ときどきこういう人がいる。しかもシニア世代(推定65歳以上)。もう注意するのも面倒くさいのであきらめているけれど、やっぱりちょっと気になります。
どうしてじっとしていられないのだろう? ボケてきて自分のやっていることがわからなくなっているのかな? それとも血栓ができるのを無意識のうちに防いでいるのだろうか? いずれにしても、歳とるってつらいね。
余韻の残る良い作品
寡作の監督、最新作はある親友を探す元映画監督が主人公。親友は俳優で...
フィルムへのノスタルジー
「ミツバチのささやき」が好きなので、つい比較してしまうが、正直に言うと物足りなかった。セリフが多いし、余分に思えるカットが多く、焦点もボケている。もっとスッキリできるんじゃないだろうか。銀塩フィル厶への感傷、父と娘、放浪願望、そんなテーマがあるのはわかるが、どれも描ききれていない。この映画をイメージするなら、結局「私はアナ」の言葉になってしまう。うーん、過去の作品の威光を利用するのでは…。せっかく31年も空けるんだから、新しい切り口が見たかったかな。でも、画は美しい。印象的なカットはたくさんあった。
観ながら宮崎駿を連想した。同じような年令で、キャリアの締めくくりを意識した作品。どちらも自分の人生を投影している。達観したような雰囲気は、両方に漂っているが、作品としてのまとまり具合は、宮崎駿の方が上のように感じた。エリセ監督が好きで、もしかしたら最後になるかもしれない作品なので、本当は星5を付けたいのだが、やはり満点にはできない。映画作りを再チャレンジしてくれたらいいなぁ。
とりあえず観れて良かった
ビクトル・エリセの新作、長編としては30年以上ぶりらしい。なのでエリセ作品をスクリーンで観るのは初めてで、それだけでも貴重な機会だった。幻想味は薄く、ビクトル・エリセの映画だ〜という感覚はあまり無かったのだが、フィルム映画へのノスタルジーを表明しているような表層の裏側に、おそらく監督にしか分からない思索が渦巻いているのは確かに感じられて、ちゃんとしたヨーロッパ映画を観ている感覚はあった。
主要登場人物たちはまるで記憶と記録だけで繋がっているようで、それは映画の中だけで存在出来る関係性にも思えるのだが、しかしそれが一体何なのか、何を見せようとしているのかというのはサッパリ分からなかった。記憶を無くした男が映画によってそれを取り戻せるのかというストーリーも結局何を言いたいのかな、という感じだった。そこに映画こそ至上というストレートな解釈を当てはめると、それこそエリセ作品っぽいとも思えるけど、そんな単純なものでは無いのだろう、多分。とはいえ登場人物たちの誰もが冒頭に出てくるチェスの駒のように冷徹に配置され、動かされてるように見えるのは、これが『映画』だと殊更に強調しているようで、映画そのものを語る映画だというのは間違いない、と思われる。
しかしビクトル・エリセらしさを一番感じたのは、そんな映画を語る映画とか、スペイン内戦の影が根底に潜んでいる政治的な感じ、などではなく、宮崎駿に通じる変態性だった。記憶を無くした男が娘(『ミツバチのささやき』の女の子だった、らしい。分からなかった)に見せる好色な眼差しや劇中映画の父親の娘への執着など、意識的に尋常じゃない雰囲気を漂わせていて、どう考えても異常…。なので理解は追いつかないけど興味深く楽しませてもらった、という感想。もう一度観て、理解を深めたいという気持ちはあるのだが、ちょっと長いんよね…。
良い意味で、久しぶりにエンタメを削ぎ落とした映画を観た気がする。 ...
映画祭で
上映するにはもってこいの作品、これは“映画の力”を表現したんだと思えるから。例え病人を癒やす事が出来なくても、映画に関わった監督、技術、観客、俳優、それ等の家族に至るまで想いが有るのだと解る。
珍しくミステリータッチでストーリーを追う形の作品でした、やはりちと長く感じたけれど。
欧米のイヌは凄く躾けられてるなぁ、付かず離れず、日本の子たちはグイグイ引っ張る。
映画の素晴らしさをあらためて実感!
冒頭からグイグイ作品の世界に引き込まれていきました。
序盤は少々冗長とも感じましたが、
中盤以降は本当に見逃せない展開になっていき
ラストまであっという間でした。
ワンシーンごとの見せ方が素晴らしく
逐一余韻があってさすがだなと思いました。
私としては、『ミツバチのささやき』のアナ役で
主役だったアナ・トレントが、
アナという名前のキャラクターで重要な役で登場するのも
グッときました。
それからエリセ監督ならではだと思うのが、
女性のアップシーンが美しいということですね。
ポスターの宣材になっていますが、
劇中も素晴らしかったです。
女性のみならず、犬の表情もバツグンでした。
本作はラストが素晴らしい。
映画って本当に奇跡を起こせると思いましたし、
冒頭とラストの繋ぎ方も絶妙でした。
このラストのための約3時間だったと思うと
すごく納得しましたし、この尺で丁寧に描いていたから
こそ、ラストの感動もひとしおだったと思います。
早くも年ワースト候補。
映画の缶詰
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
☆☆☆★★★(1回目)
☆☆☆☆(2回目)
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
2回目を鑑賞して来ました。
前回のレビューの下に、2回目で補足したレビューを追記しておきます。
以前、小津安二郎作品を巡るシンポジウムに出席したエリセは、小津の『晩春』での終盤にて。笠智衆と原節子が旅先で隣り合わせの布団で寝る場面で、ワンカットだけ映る壺?花瓶?(近いうちに確認します)を、《近親相姦》のモチーフなのかな?…と感じたらしい。
日本人にはなかなか思いつかない感情だとは思うのだけれど。おそらく西洋人には、その様な思いを意識しながら観ている人が居るらしい…と言うのを、その意見を(文章にて書き起こされていたので)読んで、「嗚呼、外国の人にはそう映るんだ!」…と、感じたのを覚えていました。
日本人には思いつかない…とは記したものの。当の本人である小津安二郎が、どうゆう意図でその場面を演出していたのか?は。当然ながら、小津本人にしか分からない。
それは確かに、《父親》と《嫁入り前の娘》との間に起こる〝 ささやかな確執 〟とゆうのは、晩年の小津作品に於ける重大なテーマでもあっただけに。
おそらく、小津本人は。あくまでも【父親】側の立場から。〝 悲しさを押し殺しながらも、嫁いで行く娘を笑顔で送り出す 〟その姿を、晩年は突き詰めて描いたのだと理解している。
そこを踏まえてでは有りますが。エリセはどうなのか?と、遂に31年もの年月を費やして公開された本作品と(まさかエリセの新作が観られるとは、、、と思いながら)対峙したのでした。
正直に言って、「いや〜!これは言語化が非常に困難な作品だなあ〜」と言うのが本音です。
鑑賞後から数日経ってしまったのですが、全然自分の中で消化し切れて無いのです。
…と、言う訳で。小津を引き合いに出して、エリセの過去の作品から(足りない知能をフル回転させて)読み取ろう…と思ったのです。
小津が《父親の立場》から描いていた父と娘との関係。
思えばエリセは、『ミツバチのささやき』と『エル・スール』では。《少女の立場》から〝 父親の過去 〟を知ろうと(又は、何となく理解する)する姿を描いて来た人。
『ミツバチ…』で「いい匂い!」と呟きながら、アナが嗅いだ毒キノコ(独裁者)を。怒りを込めて踏み潰した父親。
ご存知の様に。この場面では、スペイン内戦で受けた父親の心の傷跡に。心ならずもアナが入り込んでしまった(その様な意味で描いている)為に。幼いアナにすら、父親は思わず怒りを露わにしてしまったのでした。
だからこそアナの胸の中で、その時の父親の怒りを受け止め切れず、その後にアナは〝 或る秘密 〟を持つに至ります。
そんな【秘密】は、次作の『エル・スール』では。『ミツバチ…』の時の少女では無く、女の子へと年齢が上がり。主人公のエストレーリヤは、ベッドの下に隠れ《父親の秘密》と対決します。
『エル・スール』では、エリセが描く《父親と娘との確執》は更に深く・鋭くなって行くのです。
『ミツバチ…』『エル・スール』共に、父親と母親の間には、(ハッキリとは提示されないものの)大きな溝が存在します。
『エル・スール』で、父親が映画館でイレーネ・リオスの映画を観て、興奮のあまりカフェで手紙をしたためている時に。窓越しでその姿を見つめるエストレーリヤ。
その時はまだ少女の面影を残す女の子でした。
「イレーネ・リオスって誰?」
そう母親に聞いた後に、父親と母親は激しくなじりあいをします。
どうやら、聞いてはいけない事を母親に話してしまったエストレーリヤ。
自分の責任を強く感じた為に、その後ベッドに隠れては父親との《沈黙の対決》へと至ります。
この時のエストレーリヤには、もう少女の面影は無くなっているのです。
やがて時は流れ、初聖体拝受の時に父親とダンスを踊ったあの場所・あの調べ。
「覚えてる?」
そう聞いて来た父親。
この時のエストレーリヤにとって、最早父親は疎ましい存在になっていました。
女の子は《女》になろうとしていたのです。
新作の『瞳をとじて』では、中盤に至るまでその様な《父親と娘》との関係性は、あまり描かれずに進んで行きます。
いや!寧ろ、一見してダラダラとした。失踪した俳優を探す元映画監督の姿を延々と描いて行きます。
画面を見つめながら、この長い長い時間を掛けた映像で、エリセが描いた或る作品に想いを馳せる事となるのです。
『マルメロの陽光』
『マルメロ…』は、完璧主義を貫く画家の姿を淡々と描く作品でした。
実りを蓄えた果実は日々大きく変化をして行く為に、その変化で毎日果実に当たる陽の光は変わって行く。
今描いている様子は昨日とは違っている。
そんな日々を繰り返した行く末に待っているのは。熟れすぎた果実が自らの重みに耐えかね、地面へと落ち、遂には朽ち果てて行く姿でした。
公開当時この作品が私には、エリセ自身の映画製作に於ける困難な状況と苦悩を吐露している様に見えたのです。
映画製作に於ける現場や状況は日々変化して行く。「こうゆう内容で、この様に描きたい!」と思っても、あれこれと口に出して来る人や資金面等で、なかなか自分の撮りたい映画がどうしても撮れない苦しさを。
(あくまでも個人的な感想としてですが)
『瞳をとじて』の主人公の元映画監督には、未完に終わった『別れのまなざし』とゆう作品が有りました。
息子を事故で亡くし、自身で撮ったものの未完に終わってしまった作品に対する悔恨。
更には、主演俳優フリオの失踪。
そのフリオの存在を追い掛けるドキュメンタリーを通して、主人公のミゲルは。自身の未完に終わった作品に〝 ある種のケジメ 〟をつけ様と思ったのか奔走します。
失踪したフリオと、その娘のアナを対面させる事で、自身の悔恨・胸のつかえを少しでも取り除こうとしたかの様に、、、
ここまで書いて、エリセの心の中での、31年とゆう年月の長さゆえの変化に気付いてきます。
小津が《父親側》から娘への心情を、描き続けたのに対して。エリセは《少女であり女の子》の立場から《父親への想い・接し方》を描いて来た人との感覚を、それまで抱いていたからに他なりません。
しかも、目の前のスクリーンで展開される、終盤からクライマックスへと至る物語には。父親でも女の子でも、ましてや少女でも無く。失踪した父親とアナとの間に存在する《溝》を、第3者の立場であるミゲルから描いているのです。
「わたしはアナよ!」
或る怪物に接し、当初は怯える様子だったのですが。秘密を共有する事で怖さは次第に消えていった〝 あの時 〟のアナ。
幼い頃にはダウジング等を通じた魔法で、父親に向けていた眼差しも。次第に父親の秘密が露わになるに連れ、その姿がさもしいモノに見えて来てしまったエストレーリヤ。
そして…
記憶を無くしてしまった父親に対して、〝 あの時のアナ 〟とは逆の立場で、今、父親と対面する中年の女性となった数十年後のアナ。
やがて、静かに瞳をとじるアナ。
美しいフェードアウトがアナに被さる。
その2人が、今、見つめているのは。立場を変え、過去に未完の作品として世に出せなかったフイルムの中で描かれていた《悲しみの王》の一編。
息も絶え絶えな父親が、長年に渡って望んでいた娘との再会がそこには描かれていた。
「私の名前はチャオ・シュー!」
父親の本当の望みを知ったチャオ・シュー。
今まさに父親の最期に立ち会ったチャオ・シューは、静かに瞳をとじる。
そして…フリオも…
この未完に終わった作品にはエリセの過去の作品との関連性を。
そして監督のミゲルこそは、エリセが自身を投影させた人物像なのだろう?と言うのは、多くの人が感じるところだと思う。
『瞳をとじて』本編のファーストシーンとラストシーンには、1つの石像の表と裏に異なる顔が彫られた石像がスクリーンに映る。
その表裏一体の石像にこそ、エリセ自身が。過去の自分と(おそらくは)今後の人生を締めくくりに至る自分とを端的に表現しているのでは?…と、自分の浅はかな知識と、無い知恵を絞り出して思い浮かべるのです。
※ 思えば小津安二郎は、同じ題材・名前・状況等を。様々な俳優達であり、台詞や小道具で、その時々の状況に応じて巧みに描き続けた巨匠でした。
今や伝説の巨匠と言われているエリセも、小津と同様に。同じモチーフを駆使しては、その時に描いている人物の年齢に応じ。本当に執拗に同じ事を繰り返していると言えるのではないか?と思えるのです。
※ 最後は強引に小津を引き合いに出して纏めています。
それくらい強引なレビューにしないと、知識の乏しい私には言語化が難しい作品でした。近いうちに2回目を鑑賞し、再度この作品に向き合っていこうとは思っています。
その時には、しれっとしつつ。ガラッと180度全然違うレビューになっているかも知れない事を、予めご了承下さい。
追記
・映画本編で何度も繰り返されるフェードイン/フェードアウト。
こんな美しい編集が今時観られるのには感動しました。
・夜行バスで移動している際の(多分、ドローン撮影だとは思うのだけれど。)空撮場面。
エリセ作品でまさかの空撮?…って想いも有るのだけれど?その美しさたるや。
あんなに美しい空撮は久しぶりに観たかも!
『みかんの丘』のラストシーン以来かもなあ〜
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↓ 以下は2回目を鑑賞しての追記になります。
1️⃣ご存知の様に、映画は全編で169分の長さがあります。
失踪した親友の謎を、テレビ番組の依頼で出演し。周辺の人達と連絡を取り合い、様々な事を話し合う。
ここまでがおおよそ50〜から60分前後だっただろうか。
2️⃣古本市で自身のサイン本を見つけ、親友と取り合いになった女性と再会を果たす。
彼女の歌声から最高に美しいフェードアウト。
このエピソードがおおよそ20分くらい有っただろうか。
3️⃣現在の寝ぐらに戻り、気の合う仲間との日々。
そして番組が放送される。
このエピソードもおおよそ20分くらいだっただろうか。
4️⃣残りの60分強は、施設に居る初老の男が本当に親友なのか?
彼は、その【真意】に確信を持つのだが。記憶を無くした彼に、その想いは届かない。
それゆえ、彼はマックスが否定するも〝 奇跡 〟を願う。
失われた長い年月。
エリセは本作を撮るまでに31年とゆう年月を費やした。
《居場所を探し続けた元親友の2人》
そんな元親友同士の2人の間には、22年とゆう溝が存在していた。
本編を観た人の多くが、元映画監督のミゲルを、エリセ本人の姿との想いを馳せる。設定等を見ても間違いないところだと思う。
空白の31年。
元映画監督のミゲルは現在、僅かな映画関連の翻訳で収入を得ていた。
そんな翻訳場面で、或る映画監督の文章が、彼のパソコンの画面に映る。
〝 最高傑作は1本の作品では無く私の人生である 〟
観た人の1人1人で、色々の意見は違って来るのだろう…とは思うのだが。(私が)映画を観た限りに於いて。少なくともエリセ本人の中では、空白の期間とゆうのは無かったのではないか?…と、思えてならないのです。
2️⃣と3️⃣は、確かに必要とも思えないのだが。まるで、「恋をし、仲間達と楽しい会話をして、少しばかりの仕事をこなしていれば、特に問題は無いよ!」…とばかりに、世界に向けてエリセが宣言しているかの様に見受けられたのです。
そう思うくらいにロラの歌声は美しく、仲間と歌い合う ♬「ライフルと愛馬 」 は、こちらの胸を熱くさせてくれました。
確かに報われない時期は誰にでも起こり得るのかも知れない。それでも《人生》って奴は、それ程悪いばかりではないんだよ!…と教えてくれる、見事な人生讃歌だった。
2024年2月16日 TOHOシネマズシャンテ/シネ3
2024年2月23日 TOHOシネマズシャンテ/シネ3人
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