瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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ミツバチの遺言
ビクトル・エリセも今年で84歳、おそらく本作が遺作となることだろう。本人もその点は十分承知の助で、この『瞳を閉じて』を通して映画人生の集大成をやろうとしている。が、困った点が一つだけ。なにせ半世紀以上のキャリアの中で本当の意味で完成にこぎつけた長編作品は『ミツバチのささやき』の1本だけなのだ。次作『エル・スール』はプロデューサーに後半1/3をカットされ、本作におけるエリセの分身であるミゲル同様、本人の中では未完成作品のままなのではないか。エリセと同じく反フランコの立場をとり佳作を連発し続けているアルモドバルとは正反対なのだ。
『エル・スール』後は短編制作やドキュメンタリー作品にも手をつけてはいるが、それ以降31年間の長きにわたって沈黙を守り続けていた映画監督なのである。実をいうと私はビクトル・エリセの過去作を観たことがない。本作がビクトル・エリセの初体験で、かつおそらくは最後となることだろう。この映画、何十年もメガホンを握らなかった監督の言い訳にもなっているわけで、“静謐の魔術師”の異名をとるエリセにしては、かなり饒舌な作品に仕上がっている。
『ミツバチ』撮影中実在のフランケンシュタインを相手にしているとすっかり信じこんでしまったアナ・トレントが、失踪した映画俳優の娘役で登場している。記憶を失った父親に向かって「私はアナよ」と囁くシーンは『ミツバチ』のオマージュだそうだ。が、セルフオマージュ作品として本作を成立させるためには絶対数が足りなさすぎる。そこで苦肉の策として盛り込んだのが、ニコラス・レイの『夜の人々』やハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』等のマイ・フェイバリットだったのだろう。
日本の映画監督溝口健二についての論考を書いたことでも知られるエリセだけに、(劇中あまり効果は発揮していないものの)溝口お得意の水平移動カメラを随所に発見できる。要するに、自らの映画人生を映画で語る時、他人のふんどしで相撲をとらざるを得ない、それほど寡作の人なのである、エリセは。映画全体の構成(&辿った経緯)がテオ・アンゲロプロスの壮大な失敗作『ユリシーズの瞳』とクリソツなのも気になるところ。
映画内映画『悲しみの王』のラスト・シーンで、中国人ハーフ少女の無垢な眼差しをカメラ目線で映し出すエリセ。批評家連中の心ない突っ込みを拒絶するズルい演出をして見せている。その無垢な眼差しで見つめられた我々観客は、記憶を失ったフリオ同様にやはり瞳を閉じて(心を無にして)、エリセの数少ない過去作品に思いを馳せるのだろうか。ていうか実際、瞳を閉じたら映画を観ることができないんですけどね。
失踪への一時的な憧れ
2023年。ビクトル・エリセ監督。20年前の映画撮影中に主演俳優が失踪した。監督は撮影を中止し、その後はいくつか小説を書いて話題にもなったものの、現在は海辺の村で静かに暮らしている。そんななか、失踪者を扱うテレビ番組に出演したところ、放送後に失踪した俳優が記憶を喪失した状態で見つかった、と連絡があり、、、という話。
主人公にとって、俳優は兵役を共にした親友でもあり、テレビ番組を機会にその関係者に会うことは、自らの過去を振り返り、老いと直面することでもあるが、その過程で、若いうちに姿を消した俳優について、この世の外へと羽ばたいたように感じられている。老いを前にしてこの世界から抜けだした俳優への憧れのようなものを否定できないのだ。それでも、生きる喜びを感じないらしい現在の俳優の姿はやはり求めるべきものではなく、この世界で、記憶とともに、生きるための「奇跡」(カール・ドライヤー)へと挑戦していく。一時的ではあるものの失踪への憧れ、それでもこの世界を捨ててはいけないという倫理。この展開が切ない。それが映画と記憶に関わる倫理なのだ。
映画を監督する、映画を保存する、映画に出演する、映画を鑑賞する、さまざまな人々の映画への関わり方が丁寧に描かれている。
現実と映画の中の現実、そして劇中映画のシンクロが面白い
”スペインの巨匠”ビクトル・エリセ監督の31年ぶりの長編映画ということで、評論家の評判が頗る高かった本作を、ニワカの私も観に行ってみました。スペインを舞台にした映画と言えば、先月「サン・セバスチャンへ、ようこそ」を観ましたが、本作とは実に対照的でした。「サン・セバスチャンへ、ようこそ」は陽気なコメディ作品であり、当方の勝手なスペインのイメージに合致する作品でしたが、本作はかなり暗く、静かで、低いトーンで物語が進んで行く作品で、同じスペインの映画でも、こうも違いものかと意外に思ったところです(まあいろんな映画があるのは当たり前と言えば当たり前の話ですが)。
お話としては、映画監督である主役のミゲルが、20年前に映画の撮影中に失踪した当該映画の主人公であるフリオを探すというミステリー仕立ての作品でした。しかし人探しそのものに重心を置いた作品ではなく、ビクトル・エリセ監督の長編デビュー作である「ミツバチのささやき」(1973年)で子役として主演を務めたアナ・トレントが、本作でもフリオの娘のアナとして登場したり、劇中映画と本作の登場人物の置かれた父娘の離別と再会という状況や心理との関わり、そして何よりも20年間映画を撮っていないミゲルと、31年ぶりに長編映画を創ったビクトル・エリセ監督が重なるなど、非常に重層的に創りこまれた作品でした。しかしながら基礎知識のないニワカな私としては、物語中盤辺りまで正直消化不良に陥ってしまいました。
しかも3時間近い長編とあって、何度か寝落ちの危機が訪れましたが、記憶喪失になってしまいガルデルと名付けられて老人ホームで働くフリオの所在が明らかになり、ミゲルがそこを訪れる辺りから、俄然面白くなって来ました。そしてフリオと娘のアナの再会、さらには20年前にフリオの失踪で撮影中断を余儀なくされた映画を、最近閉館された映画館に集めて上映するというドラマチックな展開に至り、ビクトル・エリセ監督の神髄を垣間見たような気がしました。
特に感心したのは、先にも触れた劇中映画と映画の中の現実がシンクロしたところ。父娘の再会はハッピーエンドとなるのか?劇中映画では、再会を果たした直後に父親が亡くなりましたが、果たしてフリオは記憶を取り戻すのか?そんな観客の期待と不安が集中する中で迎えるエンディングは、まさに映画らしい映画だったと思います。
そんな訳で、面白い作品ではあったものの、私にとってはちょっと時間が長かったのが残念と言うところでした。そんな本作の評価は★3.5とします。
すさまじい余韻に浸りながら涙した
ビクトル・エリセ、31年ぶりの長編映画とのこと。期せずして「ミツバチのささやき」、「エル・スール」、そして今作を一週間で観ることに。
TV番組の出演依頼がきっかけで、元映画監督ミゲルは自作の撮影中に失踪した主演俳優フリオの記憶をたどった。それはミゲル自身の半生を追想することでもあった。
まさに過去を補完するが如き169分。豊穣な時が流れた。エリセにとって初めて思うように撮れた作品ではなかろうか。
エリセ考
ビクトル・エリセ 31年ぶり新作
31年もの間エリセは何してたんだろうか?
何故今更新作なんだろうか?
この映画のポイントはそこかなと思いつつ鑑賞。
主人公はリタイヤした映画監督、ふむふむ、この時点でもう、エリセはリタイヤしてたんだな、でも何かがあってカムバックしたんだなと考えた。だが肝心の話は遅々として進まない、スローにもほどがある。ミステリー要素はあるがミステリーではなく、どちらかというと主人公がひとり悶々として、その悶々とした主人公の分身が疾走役者なのかな、二人あわせてエリセなのかな、じゃエリセはこの映画で何が言いたいか、またさらに考えた。やっぱり判然としない、疾走役者親父がスクリーンを羨望?懐疑的?な眼差しで見つめるとこで話は終わる。結局、事件が解決しようがしまいがどうでもよく、エリセの映画に対する思いの丈をフィルムに描き起こしただけなのかなと思ってしまった。あれこれ詰め込んでたら3時間になっちゃったのかな?他人の人生観を淡々と見せつけられても途中であきちゃいますよ、本音で言えば。フェリーニの8 1/2もそうだけど映画監督の私映画はなかなか理解に苦しみます。自分のために映画作るなよ。ちなみに映画館で瞳を閉じたら、寝ちゃいますよ 笑
私には敷居の高い上級者向け作品
普段あまり観ることのないスペイン映画で、しかもヒューマンミステリーということで、ちょっと興味を惹かれて鑑賞してきました。でも、自分にはちょっと難しい作品でした。
ストーリーは、撮影中に主演俳優フリオ・アレナスに失踪された映画監督ミゲルのもとに、失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が届いことをきっかけに、ミゲルが昔の仕事仲間のマックス、フリオの娘のアナ、かつての恋人のロラを訪ね歩き、フリオの行方をたどる中、彼に似た人物が海辺の高齢者施設にいるとの情報を受け、そこで久しぶりの再会を果たすというもの。
冒頭から重厚さが漂う作品であり、その雰囲気は全編で貫かれ、長い年月を経たミゲルとフリオの邂逅をじっくりと描いていると感じます。しかし、そこに再会を喜び合う二人の姿はなく、この行方探しの旅路はどのような結末を迎えるのかと、クライマックスに向けてフリオの動向から目が離せなくなります。
ただ、最後まで明確な結末が描かれることはないので、自分なりに想像して余韻に浸るのか、訳がわからずモヤモヤしたまま終わるのか、観る者によって受け取り方はさまざまになろうかと思います。私はもちろん後者で、本作から何をどう感じればいいのか、なかなか理解できませんでした。
いったいミゲルは何がしたかったのでしょうか。自分の中に引っかかっていた思いをなくしたかったのでしょうか。そのために、未完のままお蔵入りした映画を決着させたかったのでしょうか。それとも、長年行方不明で記憶も失った親友との大切な思い出を取り戻したかったのでしょうか。すれ違いから失った親子の時間を取り戻させようとしていたのでしょうか。そもそもフリオはなぜ失踪し、どうして記憶をなくしてしまったのでしょう。さまざまな思惑が錯綜しているように見え、しかもその結末がどうなったかもわからず、モヤモヤしてしまいます。もしかすると、どんな結果を招こうと、今やるべきことをやりきったという、その思いこそが大切だったのかもしれません。
というわけで、観る者を選ぶ上級者向けの作品という感じで、自分のような若輩者には敷居の高い作品でございました。この日4本目の鑑賞でやや疲れもあり、タイトルに誘われたわけではないですが何度も瞳をとじてしまい、いろいろ大切なセリフを聞き落としたせいで理解が不足していたのならご容赦ください。それにしても、ゆったりしたテンポで延々と続く、聞き慣れない名前と地名が目白押しの会話劇は、なかなかつらい時間でありました。
主演はマノロ・ソロ、脇を固めるのはホセ・コロナド、アナ・トレント、マリオ・パルド、エレナ・ミケルらで、一人も存じ上げませんが、落ち着いた演技が本作の雰囲気によくマッチしています。
今は過去から続き、未来は今から始まる。
22年前に失踪した親友フリオを探すことになる男・ミゲル。
曖昧な記憶のかけらと未完成の映画のシーンを辿りながら、来る日も来る日もフリオに想いを寄せることが、ミゲル自身をみつめるきっかけになり突き動かされるように一筋の奇跡を求めていく。
友情、愛情、家族、栄光、華やかさの裏に封印したものを走馬灯のように巡らせ、さらにみつめる現実。
せまりくる忘却の光が親友を包み去る前にと願い、ささやかなたのしみもある平穏な日常を離れてまで抗い探るのは、ミゲルが歩んだ人生と終盤に残された時間への意識があってこそだったのだろう。
懐かしい海風にはためく真っ白な洗濯物の向こうに、漆喰を塗る2人がいる。ハシゴの上の彼らは無心で湿り気のかけらもなく明るい空気と同化してみえる。
もしかしたら、この青空が時をさかのぼらせ、全ての憂いを吹き飛ばしてくれたのかと思うほど清々しい。
その光景に身をのりだすような期待を抑えながら次のシーンを見守ると、あちこちに飛んだ白い塗料をつけたままの2人が揃って食卓に着いていてわずかに私の緊張の糸が緩んだ。
しかし目の当たりにするのは、変わらず叶わぬ疎通。
目配せしてみたミゲルの心中が伝わってきてがっくりとする。
だが、奇跡が起きなくとも幸福な安堵が確かにそこにあることにふと気づく。
さっき微笑んでいたシスターの気持ちや、故郷の親と過ごす時の私の気持ちに近いことにも。
するとようやく、内心唖然として観ていた冒頭の劇中劇、〝悲しみの王〟に出てきた彫刻が私に語り出す。
過ぎ去っていくこの人生の全てを、授かったいのちでかみしめ、祈りにも似た閉じた瞳の奥でみつめれば、静寂のなかに必ずなにかがみえる、と。
ミゲルとフリオの未来もここからだ。
そこに連れて行く為、エリセ監督が沈黙の歳月の満ち潮にのせて創り上げた消えない軌跡。
いまこそこの世に遺さんとするものの重み、私なりに触れることができた温もりの深さに、ありがたさでいっぱいになるのだ。
修正済み
1本観ることで2本観た感じにさせられた
映画内映画(未完?)をめぐりミゲル元映画監督と元人気俳優フリオの特集TVが組まれ放送された事で、撮影当時に途中失踪したフリオの情報提供があり、探しに行く。
この前半のくだりはだるい、眠くなる。しかし、少女の写った写真が意味あり。少女は映画内映画の主演子役女優で、記憶喪失のフリオが記憶を失くす前の手がかりとしてずっと持っていたことが後に活きてくるのは中だるみしなく引き寄せられた。
最後に未完のフリオと少女の映画を関係者(捜索のくだりの関係者)で観ることで終わるけどね、私的にはその後の顛末はないんかい?だった。
観た後、①フリオは映画が引き金となり記憶を取り戻し、親友の監督ミゲルや娘と本当の再会を果たす。
②フリオは記憶は戻ることなく、娘とも一緒に暮らさないで今まで通りに生活する。
③フリオは記憶喪失したまま娘の元で一緒に生活して、ミゲルとも新しく親交を深めて新しく映画を撮る。
これ以外にも映画観た後どうしたというモノを作らないで終わるけど顛末欲しかったわ。
映画の尺が長すぎるから起承転結の結果なしで自分なりに考えてね?みたいな映画はなんだか私はしっくりこない方の人間です。
喪われた記憶とアイデンティティ。ビクトル・エリセが31年ぶりに問う「映画についての映画」。
あのビクトル・エリセが、31年ぶりに新作を撮った!
そういわれて、さすがに行かないという選択肢はない。
僕は世代的に『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の公開時には間に合っていない。物心ついたときには、両作とも既に「オールタイムベスト級の伝説的作品」として祀り上げられていて、自分はTSUTAYAで借りたVHSで視聴した。
それから、大学生のときに『マルメロの陽光』(92)が封切られた。
スペイン人画家アントニオ・ロペス・ガルシアの制作風景を収めたドキュメンタリーで、一般の映画ファンにはちょっと地味な題材だったかもしれないが、ちょうど1991年に東京高島屋で開催されたマドリッド・リアリズム(いわゆる「魔術的リアリズム」)の展覧会を鑑賞して、人生が変わるほどの激しい衝撃を受けた美術史学科の学生――僕としては、まさに「渡りに舟」のような映画だった。
それから30年。ビクトル・エリセは沈黙を守り続けた。
(本当は、いろいろと企画を立ててたけど何度も流れてしまっていたようなのだが。)
で、今度の『瞳をとじて』である。
まさか僕が生きている間に彼の新作が観られるとは、正直思ってもみなかった。
テーマは「老い」と「記憶」。
キャッチコピー通りでいうと「記憶を巡るヒューマン・ミステリー」とのことで、若干、警戒心を呼び起こすような前宣伝(笑)。
もしかして「今の感覚だともはや受け入れられないような退屈な映画」なのではないか。
若干の危惧を内心抱きながら、観に行ってみた。
いざ観だしたら、出だしこそかなり眠たかった(実際、ドキュメンタリー番組のスタジオ収録のあたりで、膨大な会話のやりとりを聞き流しながら、つい寝落ちしてしまった)が、主人公がアナに会いに行ったり、ロラに会いに行ったりし始めてからは、緊密な画面作りと知的な吸引力の強度でぐっと引き込まれ、海辺の家への帰宅から老人福祉施設訪問、ラストの映画館での上映と、最後まで集中力を切らさずに観ることが出来た。
いかにもビクトル・エリセらしい話法とモチーフで組み立てられながらも、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』よりは今風の撮り方や照明の感覚をも取り入れている。思いのほか「旧来のエリセらしさを残した作風」を維持しているのに、「今の観客が観てもそれなりによく馴染む」映画に仕上がっていたと思う。80代の老人にしては、エリセにしても、宮崎駿にしても、作風を「保ちながらリファインする」清新さを持ち合わせているのは凄いことだ。
ここで言う「エリセらしさ」とは、以下のようなことを指す。
まず主たるテーマとして「父の不在」と「父娘の絆」について扱っている。
父親がきわめて父権的なキャラクターであること、娘のほうがもともと父親に対して抱いていたイメージの喪失が描かれることなど、彼の手による劇映画三作品は「語り口」からしてよく似ている。
今回の新作では、映画内映画である『別れのまなざし』のなかの王と王女、現実世界におけるフリオとアナの二組の「父娘」が、別れと不在~再会を体験することになる。
それから、二重・三重の「時制」の異なる物語がイレコ構造になっていて、過去への遡及的な言及が語り手のモチベーションとなっている点も「エリセらしい」。
本作では、「作中映画内の時制(1947年)」と「作中映画が撮られた過去完了時制(1990年)」と「映画内の現在時制(2012年)」が存在していて、お互いに影響しあっている。いずれの登場人物も「過去」に執着しながら現在を生きており、「俳優の失踪と完成しない作品」という「永続的な宙ぶらりんの状態」に今もからめとられている。
主人公のミゲル・ガライ監督は、不承不承ながらも過去と対峙する勇気を振り絞ることで、事態は思いもかけない新展開を迎えることになる。
映画の中に映画が登場し、その「映画を観る」ということ自体が作中で重大な意味を持つという点でも、三作品は共通している。特に今作の場合、明らかにビクトル・エリセ本人がモデルであろうと思われる映画監督が主人公として話を紡いでいくわけで、これはまさしく「映画を撮る」ということの意味と機能について考察する映画であるともいえる。
しかも、本作における「映画の効能」というのは、「映画の魅力」とか「映画の魔力」といった芸術的な次元の話ではない。「記憶を喪った俳優」がいて、「彼が主演している幻の作品の断片」が残っている。この映画を観せたなら、さすがに男の記憶も回復するのではないか? という、なんというかえらく明け透けで、直截的で、実利的な効能である。
要するに、本作において映画は何よりも「記録装置」であり、「記憶の形見」であり、「不確かな人間の脳を補完する映像の証拠」としてその姿を現すのだ(そういえば、形見箱に大事に取ってある「電車が近づいてくるパラパラ写真本」も、リュミエールによる「最初の映画」を容易に連想させる代物だ)。
エリセは、おそらく最後となるかもしれない自身の映画で、自分の人生そのものともいえる「映画」というメディアと直面し、「映画は人を動かせるか」という命題に真摯に向き合うなかで、その芸術性ではなく、あえて再現性と記録性に焦点を当て、愚直なまでにストレートに「映画の力」について問うてみせたのである。
スペイン絵画に伝統的な「魔術的リアリズム」を、映画を通じて継承する美学を有している点も、昔と変わらない(パンフに掲載されているビクトル・エリセのアー写は、どこからどう見てもディエゴ・ベラスケスの描く肖像画のパロディになっている!)。
今回の映画は、むしろマリア・モレーノを思わせるような「軽やかさ」まで身にまとっている感があるが、夜のシーンや室内のシーンになると、スペイン絵画特有の背後を埋め尽くす「薄闇」と、赤味を帯びた黄色灯で照らされて浮かび上がる人物というバロキッシュなハイライト表現が支配的になる。そこには間違いなく、ベラスケスやリベーラ、17世紀ボデゴン絵画、あるいは後年のゴヤから、現代のアントニオ・ロペス・ガルシアやミケル・バルセロに至るスペインの絵画史的伝統の反映と、それを引き継いでいこうと自覚的に模索するエリセの意志を見てとることができる。
今回特に印象的だったのは、ここぞというシーンでは、必ずシンメトリーのレイアウトが採用されていたことと、今時珍しい場面転換におけるフェイドが多用されていたことだ(最近だとギャスパー・ノエの『ヴォルテックス』が意図的にフェイドを用いていたけど)。
いずれも「単にやってみた」というだけでなく、きちんとした目的と意図があってのことで、たとえばシンメトリー構図は、ラスト近くの二つのシーンを最終的に際立たせるための布石だろう。すなわち、ミゲルとフリオによる漆喰塗りの共同作業のシーンと、老人福祉施設の門のところで二人が佇む、未来だか過去だかを鉄格子で封じられたようなショットの二つを「出来るだけ効果的に」見せたいがために、序盤からみっちりと「仕込んで」あるわけだ。
フェイドの多用にしても、アナの「私はアナよ」という問いかけからの「瞳をとじて」と、オーラスにおけるフリオの映画鑑賞からの「瞳をとじて」を成立させ、呼応させるための入念な下準備として、全編を通じて企図されていることがよくわかる。
(そういえば『ヴォルテックス』のフェイドも、ダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランがそれぞれ天に召されるシーンに最終的に焦点を合わせるための施策だった。)
二人を横並びに座らせるセッティングを多用しているのも、本作の「キモ」ともいえる演出で、あらゆるシーンで徹底的に「どのように座らせ、どのように視線を交わさせるか」が考え抜かれているのは、カール・テオドア・ドライヤーの演出技法を強く想起させるところだ(とくに『ゲアトルーズ 』(64))。この印象は、観ているうちにちゃんと答え合わせがあって、ミゲルの友人のマックスが、「ドライヤーの『奇跡』以降、映画はその魔法を喪った」といったことを述べるシーンが出てくる。すなわち、本作における「フレーミングと視線」に徹底的かつ執念深くこだわる演出術は、ドライヤー由来のものであることを、こういう言い方でしっかり「種明かし」してくれているわけだ。
ちなみに、ドライヤーの『奇跡』(54)は、そこまでずっとリアリスティックで抑制的な演出に徹してきた映画に、終盤になって唐突に「モンタージュとカット割り」が導入されることで、映画内でも「奇跡」の復活劇が引き起こされる(ことが認容される)という構造を持つ映画である。
本作のラスト近く、ミゲルは映画の断片を関係者向けに上映するにあたって、この映画において初めてといっていいくらい能動的に、生き生きと指示を皆に出しながら、映画館内での「二人の横並び」の座り方とその場所を綿密に「指定」してゆく。
映画監督が能動的に「演出」を施すことで、映像はその魔法を発動することができるという信念が、ここではドライヤーの『奇跡』を引用することで、改めて語られているのだ。
●引用といえば、この映画で最大級にびっくり仰天したのは、中で『リオ・ブラボー』(59)の主題歌「ライフルと愛馬」がフルコーラス(しかも替え歌で)歌われること。まんま映画のパロディなのだが、ビクトル・エリセってこんな生々しい楽屋落ちやるタイプだったっけ?? でも、パンフの濱口竜介監督によると、エリセはこのシーンについて「私が今まで撮ったなかで一番素晴らしいシーンだ」と言っていたらしい(笑)。
実は僕にとっても、『ライフルと愛馬』はカラオケの愛唱曲でして……いやあマジでびびった。
●楽屋落ちといえば、アナ・トレントに宛て書きで「アナ」の役をやらせて、映画の一番の決め所で「私はアナよ」と言わせるというのも、壮大な楽屋落ちで、これがやりたくて30年ぶりに映画を作ったといってもいいのかもしれない。
正直、あまりに「あからさま」な楽屋落ち過ぎて、僕個人としてはいまだ消化しきれていない部分がある。めちゃくちゃ堂々と正面からやってのけているから、これはこれでいいんだろうとは思うんだけど、こんなダサい自家撞着的なネタをやりたいがために、映画を一本作っちゃってホントに良かったんかいな?って疑念はどうしても頭から拭い去れない(笑)。
●「過去」と「記憶」を探求的に扱う本作では、「記憶」の欠片&断片として、カンカンの中やノートの栞など、さまざまな形で保管されてきた「スーヴェニア(想い出の品)」が大量に登場する。若き日の写真、パラパラ写真本、映画の小道具、フィルム、ひも、チェスのコマ、古本で見つけた自筆の恋の献辞、そして、二人だけが知る秘密の歌とメロディ。
ちなみに、本作で重要な役割を果たす「キングのコマ」に、エンドクレジットで映される「ヤヌス神」の像との明確な「形状的なアナロジー」があることは見逃せない。
過去と未来をつかさどる、双面の門番神ヤヌス。
フリオの心の内で閉ざされていた「門」の鍵は、果たして「映画の力」によって開いたのか? ヤヌス神が新たに指し示すのは、過去の記憶へといたる旅なのか、それとも(娘との)未来へといたる道程なのか。
映画は、あのラストシーンから先のことを描いていない。
果たして記憶は戻ったのか? 戻らなかったのか?
でも実のところ、僕はそこに関しては確信がある。
僕個人の映画観からすれば、あれで記憶が本当に戻ったりするような映画なら、それは明快にただの「駄作」だと思うからだ。
あそこで、フリオの記憶は戻らない。
ちゃんとした映画なら、戻るわけがない。
エリセの作品としても、戻ってほしくない。
でも、映像として残る記録を見せつけられて、外堀はたしかに埋め尽くされた。
それは厳然たる事実だ。
フリオの「心」は元に戻らなくても、フリオの「理性」は、自分がフリオであることを「確信せざるをえなくなる」。
その状況下で、フリオは一体どんな選択を下すのか。
そここそが、本作に残された真の「余韻」の部分――観客それぞれが考えなければならない部分なのではないかと思う。
将来に亘って何度も見るだろう不朽の名作と思う。
この作品は169分の長時間をゆったりとシネマを愉しむ心の余裕が必要だろう。
計算された画面構図に見事なライティングに、
静寂と音楽のバランスと画面との調和が何気に自然に流れて進む。
失踪した友人のフリオの記憶の消去と忘却の再生に奮闘するミゲル自身が再起へ進み、
それは封印した未開封の処女公演により父娘の愛憐がスクリーンに静粛に投影されたからだ…
ところで、フリオはなぜ失踪したのだろうか?
(^◇^)
瞳をとじて
「ミツバチのささやき」などで知られるスペインの巨匠ビクトル・エリセが31年ぶりに長編映画のメガホンをとり、
元映画監督と失踪した人気俳優の記憶をめぐって繰り広げられる物語を描いたヒューマンミステリー。
映画監督ミゲルがメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、
主演俳優フリオ・アレナスが突然の失踪を遂げた。
それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。
取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。
そして番組終了後、
フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が寄せられ……。
「コンペティション」のマノロ・ソロが映画監督ミゲル、
「ロスト・ボディ」のホセ・コロナドが失踪した俳優フリオを演じ、
「ミツバチのささやき」で当時5歳にして主演を務めたアナ・トレントがフリオの娘アナ役で出演。
瞳をとじて
Cerrar los ojos
2023/スペイン
DIRECTOR'S NOTES
そういう意味で、「瞳をとじて」では
映画の2つのスタイルが交錯する。
1つは舞台と人物において幻想を創り出す
手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、
現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、
2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、
そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、
記憶も未来も不確かな世界で
さまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。
ビクトル・エリセ
独裁者フランコへのレジスタンス的映画でもあった『ミツバチのささやき』から引き継がれたものと解放された映画
失踪した俳優と監督の関係を軸に紡ぐ人間ドラマとしての側面と創作や映画に憑かれて漂う人(エリセも)思いの吐露の側面もある。
本作は大まかに三部構成になっており、発端となる冒頭の映画場面の虚構と映画を創れない現実の監督ミゲル(エリセ本人の分身)がテレビの為に失踪した俳優を探す前半のやや閉塞感も伴う部分と、今の生活拠点でもある風光明媚な海辺の町での中盤の生活描写の転調を挟んでからの老人ホームでの再会と顛末
寡黙な語りだと思っていたエリセ監督作品だが、本作は美しい映像と意外な程の会話劇がベースになっていて、多くのアメリカ映画への映画少年の様な憧れやリスペクトに溢れておりその面でもニヤリと出来る。
怪しげな東洋人(中国と日本が混じった例のヤツを確信犯でやってる)を連れた富豪に娘の捜索を依頼する男と探偵の映画なども、40年・50年代あたりのフィルムノワール(サミュエル・フラーとか)を連想させる部分や娘の捜索と言えば、ジョン・フォードの名作西部劇『捜索者』を、連想させて西部劇への引用と目配せが、ところどころある。
ミゲルの旧友でフィルム保管と映写を担当するマックスも「コマンチの襲撃か」やその多くがスペインの荒野で撮影されたイタリア資本の西部劇でもあるマカロニ・ウエスタンなどの西部劇ネタを口にする。
中盤でのミゲル(英語読みマイク)監督がギター片手に歌うのは歌詞は違うが、カントリーソングの「ライフルと愛馬」で、ハワード・ホークス監督の西部劇の名作『リオ・ブラボー』の完全な引用で、その衒いの無い屈託さに驚くが、ミゲルの相棒の漁師が紙巻きタバコを嗜むところも合図だったのか?と思うと納得。(リオ・ブラボーでは紙巻きタバコが重要な小道具として描写される)
若干重苦しさもある序盤から海辺の居住地でのほのぼのとしたやりとりからの、老人ホームでの静かなサスペンスと意外にも緩やかなユーモアもあり娘が、父親と邂逅する場面では、『ミツバチのささやき』や『エルスール』などの過去のエリセ作品を捉え直す描写が含めなかなか映画を撮ることが、叶わなかったエリゼ監督の想いが溢れていると感じてそこで万感の想いにとらわれる。
記憶を失ったフリオに未完成の映画を、見せる為に町の映画館を復活させて上映するくだりは、エリセの過去作へのデジャブもあり、所謂「ニュー・シネマ・パラダイス」調な流れももしかして賛否がでるかもしれませんが、映画ファンなら微笑ましくなると思う。
思えばフランコの独裁政権では、表現の自由は規制されていて、その独裁体制へのささやかなレジスタンスの映画でもあった『ミツバチのささやき』(これは監督自らが、のちのドキュメンタリーで説明してる)から、当初は原作の映像化で3時間の予定だったのに予算などの事情で現在のかたちになった『エル・スール』などの制約にやって出し切れなかった思いを引き継ぎ解放された映画だと思う。
予想以上に映画についての映画で、緩やかテンポだが、確かな演出と絵作りで、映画からの引用もある映画ファンへ向けた良作
あと尺が長いの声もあるけど30年待って、この出来なら長いとは思いません。(転調もあり2部作風でもある)
重みある言葉は胸に刻んでおきたい
じっくり人物を捉えていく昔ながらのスタイルで169分!睡魔との闘いもあったけど、83歳になる監督自身の人生観こもった重みある言葉とか、ハッとするようなシーンはしっかり胸に刻んでおきたい
以降ネタバレ
アナさんはミツバチのささやきの少女だったのね!
再会した二人でタンゴを歌うシーンは良かったな
この映画は何が言いたいのだろう。私には理解不能な映画だった。
この映画監督とは相性が悪いのだろう。名作との評価が定まっている「ミツバチのささやき」を鑑賞した時も、私には理解出来なかった。今回もそうだった。長時間の映画だと覚悟していたが、途中数分間眠ってしまった。大事な部分を見逃したらしい。(テレビドキュメンタリーの製作プロデューサーとの打合せ)
失踪した俳優を追跡し、その記憶喪失を回復させようと情熱を捧げるのかよく解らない。記憶を取り戻せても、それに絡まう感情を伴わないと魂を取り戻せたことにならない。生きている価値がないと語った脳専門医の言葉がこの映画の趣旨だと思ったが、最後まで観るとどうやら違うように感じる。
結局、私には理解不能の映画になってしまった。
映画館のなくなる現代から映画をこじ開ける映画だった
ベンダースがあって、カウリスマキがあって、そしてタケシの新作もあったが、エリセの新作が来てしまった2024年。観終わったときに170分近くあったことを知る。そんなあったのか。
しかし手の込んだ現代劇だった。冒頭から、らしからぬ、と思ったらそうか劇中劇ね、というところから始まって、そのシーン以降製作中止になって20〜30年経った映画監督が主演俳優の失踪事件のテレビ番組に出るところから物語がはじまる。
そうでなくても映画の俳優スタッフなどは一期一会みたいなのが多い中、子供がおばさんになる時間を経て、点と点を探って「金のため」消えた男ネタをテレビで流してもらう。収録後、過去の遺物のフィルムの冒頭だけを渡し、実家近所の食堂でそれを観てるところがいい。その前の「リオブラボー」の歌とか。
そこから「ドライヤー以降ない」と編集マンが言ってる奇跡に向かって物語は進む。病院にいってからはほとんど宮崎駿の「シュナの旅」を思い出していた。いつ彼が気づくのか、気づかないのか、その瞬間を固唾を飲むように見守らされる。その海、波、白いペンキ、揺れるシーツ、記憶のない旧友、の時間がすごくいい。ふたりしかしらない秘密のアイテム、そして未完成のあのフィルムを見せたら!と思いつく。フィルムを運んでくる編集マンがなんだかウォルターブレナンのように見えてくる不思議(西部劇の相棒チックで楽しい)
で、かなり印象的な写真の中国の女の子が一向に出てこないが、きっと探偵物のストーリーとすると回収があの屋敷であったはずだ、と思うと、そうか、あのピアノを忘れてたな。。
前半、かなり禁欲的に進む中、この病院シークエンスは特にセリフのない表情の切り返しが多く、それが感動的。
思えば、フィルムの時代からデジタルの時代へ、映画館すら必要とされていない現代に倉庫の扉を開けて、眠っていた衣装、小道具、手帳を取り出し、旅にでて、そして同じく眠っていた映画館と映写機を動かし、誰も観るあてもなかった未完の作品のフィルムが回る。これほど込み上げてくるものがあるだろうか。「ニューシネマパラダイス」はあの時代の回想劇であったが、こちらは現代から扉(記憶)をこじ開けて、スクリーンをみつめる誰かを見つめる映画だった。もう一回観たい、と思った。
有名な俳優だったんじゃないのか
22年前映画撮影中に失踪した俳優を題材にしたTV番組が放送されることになり、彼を追う元映画監督の話。
「悲しみの王」に上海に住む娘を捜して欲しいと頼まれる男という始まりだったけれど、これが撮影していた作品ってことですね。まあ判り難いこと。
そしてTVキャスターとの打ち合わせに取材となっていくけれど、誰だか良く解らないし人との思い出話しをたらたらと語られてもね…と非常に冗長な前半。
施設を訪れてからはそれなりには楽しめたけれど、全体的にマッタリテンポの会話劇で、恐らく8割ぐらいは画角固定で話している人のバストショットを映していたんじゃ?
最後も結局それでどうなったんでしょうな感じで物足りず、ムダに長いばかりという印象。
どこまでも静かな、しかし感情豊かな映画
エリセ監督お久しぶりの期待は裏切らず、観客は咳払い一つしにくいほど静まり返って見る映画だが、その緊張にも応えてくれる、どこまでも静かだが、感情豊かな映画である。失踪した俳優を追うシンプルなストーリーのはずが、未完成の映画が絡むことで面白くなるので、なかなか戦略的にもよくできている。現実と創作の中での親子が重なり、愛しさが募る。3時間近くの長尺だが退屈させないのは、さすがである。登場人物の老いの悲しみには監督の老いの寂しさも間接的に感じた。劇中劇の未完成の映画までみたくなる。
ゆっくりと、静かに時間が流れる
終始ゆっくりと、静かに時間が流れる。
にもかかわらず、3時間弱の長さを長いと感じさせない何かがある。
登場人物のほとんどは中年または老人である。
やがて訪れるであろう地球レベルでの少子高齢化を予見させるような映画だ。
そのとき、人間にとって本当に大事な事はなにか、登場人物も観客もラストシーンのあとで「瞳を閉じて」模索することになるのだろう…
OPとEDは名作
OPとEDのフィルム部分は情感があって、良かった。
いかんせん本編のドラマが退屈極まりない。主人公が失踪人を求めて様々な人々に会うのだが、郷愁というか愚痴めいた会話を繰り返すだけで盛り上がらない。
個人的には、記憶喪失の男を見つけたあと、そっと立ち去り男をそのままにして、映画の中だけにその面影を見る…といた方が好みだけど。
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