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サラ・バロン原作の同名グラフィックノベルを、パブロ・ベルヘル監督により映画化した2Dアニメーション作品。
1980年代のアメリカ・ニューヨークを舞台に、孤独な日々を過ごしていた“ドッグ”が友達ロボの“ロボット”を注文し、友情を育んでいく。しかし、とあるトラブルからロボットはコニー・アイランド・ビーチの砂浜で翌年の海開きまで放置されてしまうことに。ドッグはあの手この手でロボットを救出しようと試みるが…。
本作を一言で表すなら、「優しさと希望に満ち溢れた、素敵なお別れ」だろうか。「別れ」という悲しい選択をしながらも、決してネガティブな幕引きではないというバランスが素晴らしい。
実を言うと、ポスタービジュアルのドッグとロボットがビーチの砂浜で並んで立っていながらも2人の影が別々の方向へ進もうとしている様子、「きみは覚えてる?あの夏、出会った日のことをー」というキャッチコピーから、鑑賞前は本作が決して明るい結末を辿るものではないだろうと予想していた。
実際、作中でもドッグはロボット救出が困難である事を理解すると、スキーツアーに友達作りに参加するし、公園に凧揚げをしに訪れた際に出会った“ダック”に淡い恋心を抱いている。ロボットの救出の為、ドッグがビーチの警備員や環境管理局に懇願しようと幾度となく却下される様子から、「ロボットはあくまでロボット。所詮は動物(人間)の代用品」という現実を我々観客に突きつけ、ひたむきにドッグとの生活に戻る日を夢に見ながらも、風雨に晒されて錆び付き、次第に命の灯火が潰えてゆくロボットの感情と、新しい生活を手に入れて次第にロボットの存在を忘却していってしまうドッグの非情さを対比させ、感情の比重の違いによる悲哀を描くのだろうと思っていた。
しかし、新しい生活に手を伸ばしならもドッグはロボットを、ロボットはドッグを忘れてはいなかった。それでも、運命の悪戯によって引き離されてしまう世の中の残酷さが浮き彫りになる。そして、互いに新しい生活を手に入れたからこそ、ラストでは相手の事を思いやって身を引くという選択をする。この優しさと切なさに満ちたラストが強烈に胸を打つ。作中度々掛かるEarth, Wind&Fireの『September』の歌詞のワンフレーズ“Do you remember?(覚えているかい?)”に象徴されるように、互い相手の事を忘れてはおらず、その上で「あなたと出会えたからこそ、私は前に進めました。そして、その先でお互いに新しい生活を手にしたからこそ、私達は別々の新しい未来に向かって歩き出してゆくべきなのです。」という希望に満ちたメッセージで本作は幕を閉じる。
これほどまでエモーショナルな感動に包まれる本作は、全編台詞無し。キャラクターの表情や動き、音楽のみで2人の友情物語が紡がれてゆくという非常に攻めた作り。
音楽は前述した『September』が印象的で、元々が超有名楽曲である為、サビの部分ならば老若男女問わず誰しもが耳にした事があるだろう。この曲は2人の男女が9月21日の夜を機に愛を深め、12月となった今も愛が続いているという事を歌っている。この曲の歌詞とは違い、2人はそれぞれ新しいパートナーと新しい生活を得て、それぞれ別々の人生へと旅立っていくが、歌詞の中に“My thoughts are with you
Holdin' hands with your heart to see you
(君のことを考えているよ。君の心も手も握って、君を見ているよ)”というフレーズがある。離れ離れになりながらも、互いの心の中には、共に過ごした一夏の日々がいつまでも残り続けてくれる事を願うばかりだ。
パンフレットによると、冒頭数分間のドッグの孤独な生活描写は、今回の映像化に際して監督の意思によって追加された要素なのだそうだが、その選択は英断であったと思う。
大都会ニューヨークの片隅、小さなアパートの一室で明かりも点けずにTVゲームをプレイするドッグ。しかも、ゲームは2人対戦のテニスゲームであるにも拘らず、コントローラーは2つともドッグが操作しているという1人遊び。夕食は大量買いしてストックしてあるレンチンする冷凍食品。ふと、前を向くと、消えたTVの黒画面に反射する孤独な自分。気晴らしにTVを点けてチャンネルを回すも、TVの雑音すら鬱陶しく、堪らず消音。向かいのアパートに視線を移すと、カップルが一つの器に盛られたポップコーンを手に仲睦まじく過ごしている。
このたった数分間の映像に、ドッグが友達も恋人もおらず、同じ冷凍食品で飢えを凌ぐ変わり映えのしない日々を過ごしているという、彼の抱える「孤独」がこれでもかと詰め込まれている。このシーンがあるからこそ、友達ロボを注文してロボットと出会った事で、彼の孤独に満ちた日々が癒されてゆく後の展開が活きていく。
そんな孤独なドッグのパートナーとなるロボット。個人的に、このロボットが終始可愛らしく、愛おしく感じられて堪らなかった。初めて目にするニューヨークの生活の陰陽に、平等な好奇心を向けて目を輝かせている様子。砂浜に置き去りにされながらも、ドッグとの再会を夢見る様子。渡り鳥の巣を守る中で、雛の一羽と友情を深め、彼らの成長と旅立ちを見守る様子。一度はスクラップにされ、“ラスカル”によって新しいボディと生活を与えられながらも、偶然目にしたドッグと彼の新しいパートナーの“ティン”が仲良く通りを歩く姿を目の当たりにしながらも、妄想の中で彼を追わずにはいられない想い。しかし、その想いは内に秘め、新しいラジカセ姿のボディで2人の思い出の曲『September』を掛けて、再会ではなく音楽で想いを伝える優しさ。
本来、感情のない無機物であるはずのロボットが作中1番感情豊かに、表情豊かに、何より夢を見ながら行動している様子が可愛くて仕方がなかった。AIによる統計的な行動選択、累積された経験による判断などでは決してなく、間違いなく彼の中に「心」があるのだ。
ドッグの孤独感を拭いたい必死さも切なく魅力的。作中通して描かれるドッグのロボットに対する感情が、時に友人であり、時に恋人のようでもありというバランス感覚が素晴らしい。友情であれ愛情であれ、彼はとにかく「孤独感」を埋めたいのだ。
また、前述した冒頭のアパートでの私生活描写は勿論、スキーツアーや夢で見たスノーマンとのボウリング描写から分かるように、彼は決して人付き合いが上手いわけでも、要領が良いタイプでもないのだろう。夢の中で彼を拒絶し、失敗を嘲笑する人々は、恐らくドッグがこれまで歩んで来た人生の象徴だろう。そんな彼に、作中唯一対等に接してくれる動物がダックだ。しかし、アウトドアが好きで誰にも分け隔てなく接する彼女は、ドッグには高嶺の花。そもそも、自由奔放な彼女は誰かのものになるタイプでも一箇所に留まるタイプでもなく、ヨーロッパへと移住してしまう。
結局、自分にはロボットしかいないと悟った(冷蔵庫に貼られたメモ書きが、彼が友人や恋人を求めた際には他の紙に埋もれ始めたのに対して、悟った時には元に戻っている演出がニクい)ドッグは、海開き当日にロボットを回収しに行く。しかし、ロボットは既に廃品回収工場でスクラップになってしまっており、失意の彼は似たタイプの安売りされていた子供ロボのティンを購入し、新しい生活を始める。
ラストシーンの素晴らしさについて1つ付け加えるなら、『September』をバックにドッグを励ますティンが、これまでのドッグのダンスとは違ったパフォーマンスを追加し、ロボットは新しいパートナーであるラスカルと共に踊る事で、それぞれが思い出の一曲に「新しい思い出」を積み重ねている点だ。この「積み重ね」がミソで、決して「上書き」ではない所が良い。ラジカセのボディを手に入れたロボットは、胸に“ロボットのお気に入りトラック”と“ラスカルのお気に入りトラック”の2つのカセットテープを内蔵している。このカセットが、ロボットが異なる環境で積み上げてきた「思い出」を視覚的に表現しているのは明らかだが、ロボットは自らのお気に入りにラスカルとの日々もこれから積み重ねてゆくのだ。
アニメーション表現の素晴らしさも忘れてはならない。電子レンジ内部から孤独感に包まれるドッグを眺めるショットをはじめ、ロボットが春の陽気を夢見る際、冬の景色の枠外へと飛び出して舞台転換する演出、春の陽気の中花々が一糸乱れぬタップダンスを披露するシーン等、アニメーションならではの表現の数々が新鮮で楽しい。度々出て来る真上からの空撮ショットを模した構図も美しい。
作中の舞台となる「1980年代」のニューヨークの風景や、散りばめられた様々な小ネタは、パンフレットの解説が充実しているので、そちらを是非手にとっていただきたい。個人的には、映画好きとしては、ドッグとロボットがレンタルビデオで借りてくる『オズの魔法使い』、ハロウィンでドッグの家を訪ねる『シャイニング』の双子コスや『エルム街の悪夢』のフレディコス、ドッグが就寝前に読んでいるスティーヴン・キングの『ペットセメタリー』オマージュ等にクスリとさせられた。
豊かなアニメーション表現と台詞を拝しキャラクター描写に信頼を置いたエモーショナルな表現、全編を彩る数々の楽曲で紡がれる普遍的なメッセージは、キャッチコピーにある通り「宝物」となる一作だった。
唯一不満を挙げるならば、こんな素晴らしい作品が小規模公開な事だろう。台詞を拝した表現は幼い子供達にも伝わりやすいはずだし、今後口コミで上映館数を増やして、是非とも親子で鑑賞してほしい。