コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第9回
2015年4月15日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第9回:「インヒアレント・ヴァイス」と逸脱する万華鏡
ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTAと略記する)の地元は、ロサンジェルス北郊のサンフェルナンド・ヴァレーだ。「ブギーナイツ」(97)や「マグノリア」(99)では、この一帯がたなごころを指すように描かれていた。
彼の描くヴァレーは、いつもリアルだ。町を知悉していることもあるのだろうが、あの暑さや、ちょっと野暮ったい中産階級の空気や、山をひとつ越えればハリウッドという地形などがありありと伝わってくる。映画を見ているだけで「身体ごと持っていかれる」感じがするのはそのためだろうか。この2本を見ると、私はヴァレーに住む友人たちの顔を思い出して、胸をかきむしられたような気分になる。「マグノリア」とは、花の名前であると同時に、東西に走る道路の名前だ。青字に白抜きの標識がくっきりと眼に浮かぶ。
「ブギーナイツ」はポルノ映画の業界が背景だった。1970年代後半、ヴァレーは「ポルノの都」と呼ばれていた。そう、商業的大作や芸術的名作が撮られるハリウッドが「表」なら、低予算のポルノが量産されたヴァレーは「裏」だ。ハリウッドの裏手という地形もさることながら、栄光と没落、活力と虚栄、奢侈と落魄の形が、それぞれスケールダウンしながら相似形を成している点が興味深い。いや、一時期の好景気が去ったあとの寂れ方は、むしろこちらのほうが痛々しいか。ささくれやただれはもとより、町の深部に巣食った精神的な内出血や無言の悲鳴を、PTAはよく切れるメスでえぐり出していた。
ヴァレーからサウス・ベイへ
そんなPTAが、新作「インヒアレント・ヴァイス」では、サウス・ベイを舞台に選んでいる。トマス・ピンチョンの原作小説に忠実な映画だから、これはもちろん適切な措置だ。映画のなかでは「ゴルディータ・ビーチ」と呼ばれているが、モデルになったのはマンハッタン・ビーチだ。ロサンジェルス国際空港から近く、南側にはハーモサ・ビーチとレドンド・ビーチが連なっている。レドンド・ビーチのすぐ先は、富裕層の邸が並ぶパロス・ヴァーデスの小高い半島だ。コーエン兄弟の怪作「ビッグ・リボウスキ」(98)では、ジェフ・ブリッジスが、海を臨む半島の崖の上で友人の遺灰を撒こうとしていた。
地理の説明は端折ろう。いまは弁護士や医師といったプチブルの住民が増えたが、70年代のマンハッタン・ビーチやハーモサ・ビーチにはサーファーやヒッピーが多かった。住まいは、ペンキを塗った安直な木造家屋。海辺のメキシコ料理屋へ降りていくと、大体いつもマリワナの匂いが漂っていた。ビーチは湿度が高いので、どうしても煙の出る草が欲しくなってしまう。マリブのようにおしゃれなビーチではないが、ぼんやりするにはうってつけの場所だ。ちょっと内陸部に入ったホーソーンの出身だったビーチ・ボーイズは、大ヒット曲「サーフィンUSA」のなかで「オール・オーバー・マンハッタン」と歌っている。これはもちろん、ニューヨークのマンハッタンではなく、こちらのマンハッタン・ビーチを指す。
いや、映画好きには「タランティーノが働いていたビデオ屋」と述べるほうが手っ取り早いだろうか。クエンティン・タランティーノは、やはりサウス・ベイのトーランスやハーバー・シティで育っている。そんな彼が20歳のころ(80年代中盤)バイト先に選んだのが、マンハッタン・ビーチにあった〈ビデオ・アーカイヴス〉という貸しビデオの店だった。
彼はこの店で、浴びるようにビデオを見た。当時のアメリカでは珍しく、欧州映画や日本映画や香港映画(それもB級作品)をそろえていたというから、彼にはうってつけだ。というより、タランティーノはこの店で味覚を磨いた。アンテナを広げ、嗜好を深めたといいかえてもよいだろう。「ジャッキー・ブラウン」(97)には、ハーモサ・ビーチや、少し内陸部に入った〈デル・アーモ・ショッピングセンター〉が出てくる。ちなみに、タランティーノや若き日のピンチョン、さらにはチャールズ・ブコウスキーがよく通ったといわれるハーモサ・ビーチの〈イーザー/オア〉書店も、90年代末には店を閉めてしまった。タールを塗った木造のファサードで、店内が薄暗かったことを私は覚えている。
話が脱線して止まらなくなってしまった。映画のせいにしてはいけないが、そもそも「インヒアレント・ヴァイス」は逸脱につぐ逸脱を重ねる作品なのだ。しかもその逸脱は感染しやすい。筋書がないわけではないのだが、登場人物や細部描写の面白さに眼を奪われると、物語の展開をつい失念してしまう。